“飽きた” の言い換え
最近、いろいろな方のnote記事を読ませていただいております。量を読みたいので一つの記事をめちゃくちゃ丁寧に読めているわけではありませんが、それでも書き振りや言葉に込められた想いは感じ取ることができます。
ステキな記事をありがとうございます。
量を読んでいる理由は、僕なりのインプット方法を見つけたからです。
それはまた近々別の形で書こうと思います。
今日は、その大量に読んだ記事の中で心に残ったことについて。
「飽きた」を言い換えたらどうなるか?という話。
どの記事だったか、どなたのだったか見つけられなかったのが残念ですが、こんなようなことが至極当たり前かのように書かれていました。
危うく読み流してしまいそうなほどさらりと書かれていた言葉。僕にとっては目から鱗でした。
今はそれほど嫌悪感を抱いていないのですが、
かつて僕は自分を飽き性だと揶揄していました。
飽き性であるのは悪いことだと思い、
そのレッテルを自分に貼り付けていたのです。
でも、最近はそんな自分を肯定的に見れるようになっていました。
すぐ飽きるけど、その分いろんなことにチャレンジする精神を持っている、と言い聞かせて。
実際にその通りで、結果的に小さな経験でも自分の蓄積になっていると実感できています。だからなんか、最近はそこまで「飽き性」ということに意識を向けていませんでした。
視点を変えてリフレーミングできて、
自分を受け入れたつもりでいました。
だからこそ、
この言葉は目から鱗でした。
「飽きたは満足したってこと」
え、これやん、リフレーミング!!
ってなりました。
飽きたってことは、
自分はそれを十分にやった、
だから満足したってことなんですね。
そういえば飽きるという字は
「飽和」の「飽」と書きます。
自分はそれに対して「飽和した」
だからもう「満足」なんだ。
これはおもしろい。
そうしてみると、
飽きた事柄については自分はそもそもそこまで興味がなかったのかもしれません。
それぞれの事柄について
コップみたいな容器があって、
それが満タンになったら「満足」「飽和」
つまり飽きたということ。
よくよく考えたら、
食事で飽きるって言うときは、
たいてい食べ過ぎたときですもんね。
満たされ過ぎていると飽きる。
すぐ飽きることが悪いんじゃなくて、
ただ単に自分が思っていたよりその事柄についてのコップが小さかっただけ。
だとしたら、やってもやっても溢れない思いのほか大きいコップもきっとどこかにあって、それを見つけたときに「飽きる」を感じずに没頭できるんだと思います。
最近、飽きた〜って言わないし思わないのは、
僕が今、自分の中で思いのほか大きいコップに水を注いでいるからなのかもしれません。
自分は飽き性だと感じている方へ。
自分を悪く思う必要はなくて、
ただ単に小さいコップに水を注ぎ過ぎているだけなんだと思います。
そこに水を入れるのはやめて、
次の新しいコップを探しに行きましょ。
いつか、自分では抱えきれないほどの大きなコップに出逢えます。
そのときはきっと誰かの力を借りることになるでしょうし、自分はそれに埋もれるように没頭していくことでしょう。
僕は見つけました、演劇です。
それはどこに転がっているのかわかりません。
僕は思ったよりすぐ横にあったなあ〜って感じです。
まったくまだ出会っていないものなのかもしれないし、
実は近くにあって、自分がそのコップを認識できていないだけかもしれません。
飽き性だと自分を恨んでいる方は、
参考にしていただければ嬉しいです。
あなたにとって、私にとって、 今日という一日が、かけがえのない明るく輝く一日でありますように。
2022.2.9 共鳴|飽きたは満足したってこと!
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