朝型への誘い2

   日記より28-5「朝型への誘い」2          H夕闇
               七月七日(日曜日)曇り時々晴れ

 実は僕も嘗(かつ)て「夜(よ)ピカリ」だった。子供らが寝付いて、家内の喧騒が治まると、やっと落ち着いて書斎へ籠(こも)ったものだ。
 書斎などと大仰(おおぎょう)に云(い)ったが、要するに、押し入れである。当初、我が家は二間きりの小さなアパート暮らしだった。家財道具など碌(ろく)に無く、押し入れの上段を一つ空けることなど、造作(ぞうさ)も無かった。そこへ北海道で使った半畳の炬燵(こたつ)を持ち込み、これを文机(ふづくえ)とした。座(ざ)椅子(いす)も据(す)え、押し入れ内の棚(たな)は座右(ざゆう)の書(しょ)や普段使いの辞書を並べるに好都合(こうつごう)。最早(もはや)これは歴(れっき)とした書斎であった。
 勉強に必要な物は大概が手の届く範囲に収まり、安寧(あんねい)と静寂が訪れる空間。全く以(も)って満ち足りていた。胎児が母体の内で抱く安らぎは多分かくや、と思われた。押し入れ上段まで背の届かない子らに机上を掻(か)き回される恐れは無く、襖(ふすま)を閉じれば、やや騒ぎも遠退いて、別世界であった。
 昼間や急ぎ調べたい時も、ここへ逃げ込むに限る。暗いのは、電気スタンドを引き込めば良い。暑ければ、うちわも風流だ。学生時代O先生から手解(てほど)きを受けた源氏も、ここで数年かけて原文で読んだ。N先生から教わったドストイエーフスキイも同様。(但し、僕は結局ロシヤ語が出来(でき)ず、こちらは数種の翻訳書で。)
 僕の本やノートなどを両手でグジャグジャして喜んだ末っ子Yが、後に学者の秘書を務め、今や妻になろうとは、思いも寄らなかった。散らかし屋で、整理整頓が苦手な子だった。思念に秩序を立てて一つ一つ纏(まと)め上げる学究の仕事には、とても不向きと思われたものだ。
 あの頃の黄色い帽子を、妻が娘の荷物を整理する際、納戸(なんど)の奥から見付け出した。周囲を丸く一周する鍔(つば)(それを裏から支えるプラスチックの芯(しん))が割れてしまっていた。左脇(わき)の小さなリボンには、お世話(せわ)になったM幼稚園のバッジが付いている。年長組みの夏休みに今の住まいへ引っ越して来て、転園したが、N幼稚園と通算で皆勤だった。両幼稚園の二年分の連絡帳も見付かって、それを思い出し、夫婦で懐かしんだ。

 新郎S先生には、Yの幼い頃のアルバムを開示した。家族一同も鳩首(きゅうしゅ)を集めて「今のkに似てる!」と衆議が一決。(kとはYの姉Kの娘、即(すなわ)ちYの姪(めい)に当たる。)因(ちな)みに、Kの弟Mの長女は、目の当たりがKにソックリ、とは既に定説である。一族あちらこちらに遺伝子が飛んでいるらしい。
 最近むすこMが言い出し、姉妹と写真を持ち寄りで、Eネット上にH家だけ共通のアルバムを作っている。それぞれの家庭の写真を載せて、互いに見せ合い、コメントを書いたり♡マークを付けたりしている。僕ら両親も時々覗(のぞ)くが、各家庭の暮らし振(ぶ)りが偲(しの)ばれて、中々(なかなか)に面白(おもしろ)い。H家(両親と三人の兄弟姉妹)で一冊の大きな写真帳(アルバム)を共有しているような具合いである。これだと、嵩(かさ)張(ば)らないし、写真を一々持ち運んで見せ合う手間も要(い)らない。その上(仮想空間だから、)紛失の恐れも無い。
 東日本大震災の時、津波で肉親を失った被災者が、せめて家族写真だけでも取り戻したい、と自宅の跡地を探す姿が報道され、大層お気の毒だった。そんな喪失感も、文明の利器が防いで呉(く)れるだろう。
 僕が確か高校生の頃だったと思うが、山田太一の「岸辺のアルバム」と云(い)う連続テレビ・ドラマが有った。向田(むこうだ)邦子「七人の孫」や倉本聰(そう)「北の国から」等と共に、僕が一時シナリオ・ライターの夢を抱いた切(き)っ掛(か)けの作品だった。日本が高度経済成長を駆け上った時代、逆に崩壊して行く家庭の様が描かれた。「一億総白痴化」とテレビが悪罵(あくば)された時期にも、社会派ドラマとして評価された。多摩川の氾濫で家が流される直前に家族が協力して一つだけ必死に持ち出した物は、一家の思い出を撮(と)り貯(た)めたアルバムだった。
 家族に取(と)って、(譬(たと)えバラバラに崩(くず)れ掛(か)けた家庭であっても、)大切な唯一の絆(きずな)だったのだろう。家族が家族として有る本質とは、(煎(せん)じ詰(つ)めれば、)共通の記憶なのであろうか。
 だから、家族のアルバムを誰かに見せる所には、その人を家族の一員として迎える意味合いが含味されているように思う。僕らは喜んでS先生を我がH家へ招き入れた。写真を説明して、思い出を伝えたのである。

 来賓を迎えるに当たって、僕は咲き始めたコスモス畑や玄関先の草を毟(むし)った。庭まで間に合わなかったのは、日和(ひよ)りに恵まれなかったからだ。Yが里帰りすると言うのに、ふとんを日に当ててカラッと心地(ここち)良く干すチャンスも、乏(とぼ)しかった。散歩どころか、洗濯にも困った。
 漸(ようや)く凩(こがらし)が已(や)んだ頃、「待ってました。」とばかり花粉が飛んだ。五類へ移行して、世間は浮かれているが、新型コロナ・ウイルス感染症も最近やや再拡大。更に、黄砂に続いて、(なぜか殆(ほとん)ど報道されないが、)PM2,5も飛来。入梅の貴重な晴れ間にも、中国から(容赦なく)微小粒子物質が飛んで来る。
 僕らが育った戦後、日本でも環境より経済が優先され、大気汚染など公害が拡がった。今日では、より深刻化して、地球全体が丸ごと温暖化。近海の海面温度も上がっているから、水蒸気が増え、今後つゆ時の極端な大雨や台風の風水害が懸念される。そして、梅雨が明けぬ内から、早くも!この危険な程の暑さ。
 気象や生活環境の問題だけではない。水産物の変化、熱帯の風土病を齎(もたら)す蚊(か)、火(ひ)蟻(あり)、熊など、食物連鎖や生態系でも異変が起こっている。到頭(とうとう)この星は狂い始めたのだ。その原因を、霊長類を以(も)って自(みずか)ら任ずる程の者たちは、皆が知っている。知っていて、責任を免れる為(ため)、互いに転嫁している。「アジアの奇跡」と云(い)われた戦後復興期に続いた公害の際も、その元凶を日本国民の殆(ほとん)どが気付いていた。気付かないのは(なぜか)国と公害企業だけだった。
 1995年にも、沖縄県で米兵による少女暴行事件が有った。これに抗議して、宜野湾(ぎのわん)市(後に長女と遊んだエメラルド・ビーチに隣接する運動公園)で県民集会が行われた。その時に八万人を前にして立った地元の高校三年生、仲村清子(すがこ)さんの凛(りん)とした声音が、僕の耳に今も残る、「私たちに静かな沖縄を返して下さい。軍隊の無い、悲劇の無い、平和な島を返して下さい。」と。
 いつか孫たちが僕らの世代へ抗議する日が来るのではないか。産業革命以来の人間活動が地球環境を壊す前の、自然な営(いとな)みを返して下さいと。「私たちに穏やかな自然を返して下さい。災害の無い、悲劇の無い、平穏な星を返して下さい。」と。空気清浄機もマスクも要らない。朝焼け空に見惚(みと)れた新鮮な大気、木漏(こも)れ日(び)の下を愛犬と散歩した爽(さわ)やかな森の小径、水切りして遊んだ綺麗(きれい)な川を、安心と共に返して下さいと。
*              (日記より、続く)

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