『名前のない痛み』
この世には「名前のある痛み」と「名前のない痛み」が存在する。
「名前のある痛み」というのは、挙げればキリが無い。不登校、HSP、虐待、LGBTQ、、、
痛みに名前があることは、便利だ。私はこんな痛みを負って生きています。そう他者に存在を伝えることができる。逆に名前が無ければ「わたしはここに居ます。」そんなことすらも伝わらない。
こんな風に、人間はどんな物にでも名前をつけたがる。それは、名前をつけないと、気づいてもらえないから。他者と分かち合うことができないから。
名前をつけること。それはいわば、存在承認だ。エゴだ。「私はここに居ます。誰か気づいて下さい」って、自分じゃない誰かに強く呼びかけている。
それは、とても都合のいいことだ。
自分自身が、自分の持つ痛みに気づいていないくせに、他者に痛みを理解することを委ねようとしている。愚か者だ。
わたしは繊細なんです。わたしは弱者なんです。わたしはみんなとは違うんです。
自分の存在を主張することを、私は決して悪いことだとは思わない。
けれど、自分が繊細だとか、少数者(マイノリティ)だと言う前に、君は自分の"冷たさ"に少しでも触れようとしたのだろうか。多数者(マジョリティ)との共通性を見出そうとしたのだろうか。
していないだろう。
また人間は、同じ名前を持つもの同士で集まりたがる。
「私はこんな名前を持っているの。」
「あなたも持っているの?」
「じゃあ同じ名前を持つもの同士、一緒に居ようよ?」
「わたしなら、あなたの気持ちを分かってあげられるよ」
ああ。そうだ。
集まった瞬間だけは楽に"なった気がする"。
この居場所だけは、私を認めてくれるんだ。
そう、思い込みたくなる。
人は意志を持つがゆえに、「変化」を怖がる。
1つの依存先だけで、満足したがる。
「ずれ」を見たくないから、大きく見える偽りの繋がりにずっとしがみつきたくなる。
「繊細って呼ばないで!」「LGBTQの人だって思わないで!」ってそう言いながらその人は、そういった名前の人らしく振舞おうとする。「こういうことをしたり、思ったりする人が、繊細なんだね。LGBTQなんだね」って。
なぜだろう?
なぜならそれは、複数の依存先を作れば、「私」という存在は、常に変化し続けてしまうからだ。
人間が「科学」というものに縋ってしまうのも同じ理由だろうか。1度証明してしまえば、それは全世界の人に共通する揺るがないものになるのだと"思い込んでしまう"。
どれだけ同じであっても、必ず違いがあって、
どれだけ違ってても、必ず同じものがある。
この感覚がないと、仲間を作ることは即ち、敵を作ることに等しいことになる。
「私はフェミニストです」
そんな人が、男性を女性とは全く違う穢れた生き物だと認識していれば、その先に男女平等の未来など生まれない。
この団体はHSPの人達のための、セクシャルマイノリティの人達のための、不登校の人達のための団体です。
こんな言葉が溢れかえっていて、一見見れば良い事をしているように見える。けれどその先には、その人を1つの依存先に押し込め、抜け出せなくさせる危険性があることも、理解していなくてはならない。
「自分らしく生きる」
それ自体は大事。だけれど、この言葉を強く主張することは、これから自分らしく生きる人たちを「自分らしく生きている人は〇〇な人が多いよね」という風に、再びその人を「らしさ」の渦に閉じ込めることに他ならないことも知るべきだ。
現実世界やSNSで溢れかえってる生きづらさは、ほとんどこういった事が原因なのだろう。
「あなたは今まで何をやっていたの?」
「あなたはこれから何をするつもり?」
こんな言葉を聞く度「あぁ。この人も今のぼくを見てくれないんだ」と思う。またか、と。
目の前にいる「今」のぼくを理解せず、過去や未来のぼくを理解しようとすることで「私は人の話を聴ける良い人です」ということを主張する。
偽善者ばかりで、今を生きることすらできないこの汚れきった世界を、溺れないよう必死に泳いでいるのだ。
ある日。私の大好きな人が、この引用文がぼくを表していると言ってくれた。嬉しかった。
だけど、この後の文章にもぼくは心を惹かれた。
私はこの文章に触れる前、noteを書き続ける意味を考えていた時に「読む人がいなくなって自分だけになっても、自分の文章をずっと大好きなままだ居て、読み続けていたい」ということを言語化していたばかりだった。
やはりこの世界は出逢いが全てだ。
この世界はまだまだ捨てたもんじゃないよ。