ニヒルにならなきゃ何も始まらない
3月5日(火)
結葵(ゆうき)と申します。
「理解」できるわけではないが「納得」できる、なんてことあり得るだろうか。
ここ数日、少し体調を崩していた。具体的に言うと、喉をやられた。痛いというわけではないのだが、唾を飲み込むと少し引っかかりがある感じ。たぶん前に、カフェで読書していたときに、エアコンが直撃する席に1時間ほど座っていたからだと思う。昔からエアコンにめっぽう弱く、冬場の暖房は加湿器をつけていても喉が乾燥する。
あと、体も少し気怠くなった。完全に風邪をひいたと思った。1日よく眠ったらかなり復活した。なるべく薬には頼らない。薬に頼るようになると、後からになって薬が効かないようになる。結局、薬も毒と紙一重で、頼れば頼るだけ、効き目が徐々に落ちていき、さらに薬に頼らざるを得なくなる。抗生剤や痛み止めなんかは特にそう。だからなるべく眠って治す。すぐ薬や医者に頼るのはよくない。
少し神経症っぽい症状も出た。細かい遠くのことにすごく神経質になる。僕の場合は言葉で、その音の羅列や文字の羅列に苦しめられる。夜、眠れなくなる。いちばん体調が優れなかった一晩は、床に就いてから3時間、頭の中で言葉が永遠に姿を現してはすぐに消えていく。その繰り返しで、頭が痛くなる。強化人間特有の、頭に直接叫びが届いてきて激しい頭痛が止まないあの感じ。
母親への冷たい言葉で頭がいっぱいになったのを覚えている。年末に実家に越してきて2ヶ月が過ぎた。そろそろ距離を取るべきタイミングなのだろう。さすがに直接言うことはしないが、少し母親との付き合い方もここ数日で変えた。ちょっと突き離して意図的に距離をつくる。あまりベラベラ身の回りのことを喋らない。母親の独り言や愚痴に付き合わない。返事を単調にしてみる。ちょっと無視する。聞こえていないフリをする。フリしていながら、黙って動く。
「ふーん」「あっそう」「…… 」「ご勝手に〜」。… このことは言わないほうがいいな。言うとまた色々喋り出す。面倒だ。… またなんか言ってる。これはあえて乗っからない。無視。聞こえていてもあえてリアクションしない。… 聞こえていないときも「え?なんて?」と聞かない。
そんなこんなで今日に至る。だいたいここ1週間のあいだの話。ひとつ前に書いた記事も、体調的にかなり無理して書いた。おかげでいまは書きたいと思ったことがない。頭に何も浮かんでこない。引っかかる言葉もない。そもそもあまり書く元気もない。だからこうやって、そのままを書いている。
書きたいことがない。じゃあ、書きたいことがないと書けばいい。ニヒルにならなきゃやってらんない。何も始まらない。書きたいことがないよぉ… ううぅぅ… と言っているうちに、あ、そういえばこれ書きたかったんだとはならない。ある意味ヤケクソで投げやりな態度だけれども、仕方ないじゃないか、書きたいことが手持ちにないんだし、手持ちにないものを探し回って書けるようになるとは思えない。
ほら、ここまでですでに1200字以上は書いている。これが日記だったらもう十分だろう。日記にこれ以上のクオリティを求めてどうする。たかが日記だというのに、途中で書けなくなる人が大勢いるこの社会の中で、サッと1200字以上も書く人間もいる。ちなみにボブ・マーリーのアルバムを聴きながら書き始めて、今で7曲目が終わったから、時間的には大体20分ちょっと。これをサッと書いたということに関して疑問に思う人もいるかもしれないが、僕の場合はこれでも早い。元が全部遅いのだから許してくれ。僕は仕事ができるタイプじゃない。
でもこれが大学のレポートになると、たぶんもう少し早い。この1年間授業をほぼ全く取っていないので、もはやレポートの書き方とか自分のスタイルも忘れたが、事前にテキストを読んだり、調べ物をしたりする時間を除いて、純粋に書く時間だけを勘定に入れたら、たぶん3000字のレポートくらいは30分もあれば書き終わる。いやいや、これが自慢なんて。そんなわけあるはずない。きちんと人の話は最後まで聞いてから。こっから時間がかかるんだから。
ここまでで書いているのは、半分下書きのようなもので、ここからまた最初から書き直す。勿論、一から全部というわけではないけれど、一旦最初から最後まで通しで読んで、論旨の立て方や主張の言い方、具体例の具体さの程度など、こだわり始めたらまず終わらない。時計を見てびっくりして初めて手を止める。
完璧主義にも良いことはあるようで、このおかげで大学の成績はずっと良かった。まぁ… だからなんだというわけだけれども。実際、大学の成績がよくて利益になったことは一度もない。いや一度だけある。自分が入りたいゼミに入る確率が上がること。それ以外は特にない。成績が平均より下であっても、ほとんど不利になることがないんだから、GPA制度なんて、そもそも要るのかどうか疑問に思ってくる。
そういえば、「「質」より「量」、圧倒的に」と題した記事がけっこう長く読まれている。スキもたくさんいただいている。どうやら比較的ウケているようだ。
意味があるのか分からない状態で、半ば自暴自棄的にとにかく手を動かし続ける。この段階において、望んだ成果なんて出るはずがないんだと諦めながらも、絶対に途中でやめることだけはしない。こういうニヒリズムは必要だと思う。努力なんてのは最初はがむしゃらにやってなんぼで、そこに効率性を求めてしまえば、必要な苦労さえも省いてしまいかねない。
「効率的」という言葉が悪いイメージで捉えられるとき、それはこの言葉が「素早い」という意味を前面に押し出しているときだと思う。野球の素振りや、お茶を点てる作法なんてものは、効率的にやりようがない練習の代表例である。つまり、「素早く」やればいいってもんじゃないのだ。「量」をこなすことが大切だからといって、素振りを素早く何度も、たとえば1日に1000回やれば上達するわけではない。むしろ上達しなくて当然だ。お茶を点てる作法も同じ。第一、まず道具の運び出しや道具の清めを素早くやってどうする?
野球の素振りもお点前も、1回ずつ丁寧に、それも地道に、ときに間違いやクセを修正しつつする。この愚直さがいちばん効率がいい。実験的試みとしての心構え。これは自分のためだ。たくさん失敗しよう。たくさん恥をかこう。「若い時の苦労は買うてでもせよ」というのはそういうことだと思う。
実際、意味がないように思われることを一心不乱に —— というより心を奪われて?やることは快復することでもある。週末には、どんなに見たい映画がなくてもとにかく映画館に行き、ポップコーンとコーラを用意して映画を見る。20分なり30分なり、頭に浮かんだ言葉をそのまま —— まったく言葉や言い方を変えないまま羅列しまくる。フリーライティング。脳にあれこれ考えさせる隙と猶予を与えない。
怖さを乗り越える、立ち向かわないで立ち向かうために、この方法は実に効果的である。5秒の隙でも与えてしまえば、もう脳はあれこれと色々考え始め、途端に手足を拘束する。勇気とは「やろう」「やってみよう」と決意することではなく、無防備でも不用意でも「やり始めている」ことである。その先のことは考えているようであまり考えていない。先のことはまた後で考える。
ニヒルにならなきゃ何も始まらない。ニヒリスティックになること。自分の一つひとつの行動や努力が儚く非力であると自覚すること。しかしそれはまったくもって無意味ではなく、やってみたら結果なんて意外とすぐそこに出ているもの。まぁそれを一つひとつ拾い上げることこそが難しくて、バカで不器用な僕は下手くそここに極まれりなのだが。
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