弱者への向き合い方~弱い立場になったからこそ気づく「共感」と「同情」の違い♯133
前回は、がん患者に向けられる「かわいそう」の眼差しについて書いた。
ブレイディみかこさん著の『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』に出てくるテーマが共感力(エンパシー)。一方で、「共感」「エンパシー」と比較される言葉が、「同情」「シンパシー」だ。
エンパシーとは「他者の感情や経験などを理解する能力」のこと。
これに対してシンパシーは「誰かをかわいそうだと思う感情」。
前者は、意見が違い、感情が伴わない相手であっても、その立場に立って考えられる「能力」を指すが、後者は自然とわき出る感情だ。
多様性のある社会には「共感力」「エンパシー」が必要な能力だと言われている。
前回の記事には、がんになった私自身を、「かわいそう」だと思いたくない旨を綴った。
ただ、こんな強気なことは言ってはいるが、やはり、がんになって経験したやり場のない悲しみ、不安、恐怖があることは事実だ。
そして、仕事、コミュニティ、家庭、子育てが、今までと同じようなやり方でできない現実とも向き合っている。
そのような中、幸運なことに、私の周りの多くの人たちは「同情」ではなく「共感」の姿勢で私に接してくれた。
たとえ、苦しみの中にある人が
「私のことをかわいそうだと思わないでください」
と言ったとしても、それは「何もないものとして扱う」ことではないと思う。(いろんな考え方の人がいるから、そうじゃない人もいるかもしれないが、少なくとも私自身はそのように捉えている)
安達祐実が、『家なき子』で「同情するなら金をくれ!」と言っていたが、なんとなく、その気持ちもわかる。(ちゃんとドラマ見てなかったけど。)
「乳がんになりました」と周囲に打ち明けた時、
私の気持ちを想像して、私を勇気づけられる心からの言葉を絞り出して、励ましてくれる人。
「困ったら、〇〇できるから、いつでも声をかけて!」と具体的な支援の手を差し伸べてくれる人。
仕事やコミュニティで「治療に専念できるように」と私が抜けた穴を埋めてくれる人。
私がまた復帰できる道筋を一緒に考えてくれる人。
etc・・・
こういった周囲の人たちからは、「かわいそう」と単に同情されているというより、私の立場にたって、あれこれ考えようとしてくれる「共感」の眼差しを感じる。
実際に、「がん患者」を目の前にして、私の気持ちを想像して、言葉をかけるって、本当に気を遣うだろうし、中には「面倒くさい」と捉える人もいると思う。
ただ、私の周囲の人たちが、難なく、こういったことを自然にやれてしまう、この「共感力」の高さには、感心してしまうし、このような能力が高い人たちがそばにいることが、なんて幸運なのだろうと有難く感じる。
そして感謝してもしきれない思いだ。
このような優しさを受け、私自身も、助けが必要な人、苦しみの中にある人を前にしたとき、共感の姿勢に立てる人になりたいと思う。
これも、病になったからこそ、体験できた経験。