【ベトナム/ホーチミン】通訳に嘘八百
ベトナム赴任時の話だ
わたしのデスクの隣には、それは優秀なベトナム人の通訳が補佐として常時ついていてくれる
能書きは「日本語検定2級」(上級)だが、日本語の日常会話はもちろん、ビジネス会話、そして社内で使用する専門用語までも完ぺきに使いこなし、彼女の通訳にこれまでケチをつけたことはないし、もはやそこには、文句をつける余地も残されていなかった
加えて、彼女が「美人の名産地」北部ハノイ出身だということは、聞かなくてもわかることだった
シャープな顔立ち/長い睫毛/黒よりも黒い、漆黒の瞳―
ある土曜日の黄昏時
定時より一時間も早く「撤収準備」を始めたわたしを認めると、通訳―スァンさんはこう言った
―“さわまつさん、日本語でわからないことがあるので教えて頂きたいのですが?”
わたしは言った
ー“何でも聞いてくれ”
スァンさんがわたしに聞きたいことと言うのは、日本人のビジネスシーンでのやり取りで、要約すると、以下の言い方は正しいのかどうか、ということに尽きた
“社長はお客様の元へ、商談へお行きになりました”“お行きになりました”、に傍線
文法的には正解なのだろうが、そんな言い方は少なくともわたしは使ったことがないし、これから先も使うことはないだろう
おそらくこの優秀なスァンさんも、文法ではなくて、実際的な日本語の言い回しが知りたくてわたしに尋ねたに違いない
怪訝な顔をして、わたしが口を開こうとすると、スァンさんは言った
―やはりこういう場合は、“行かれました”でいいのでしょうか?
“社長はお客様の元へ、商談へ行かれました”
正解
だがー
今振り返ってもどうしてこのような嘘をついてしまったのか・・・
わたしは、回転椅子をスァンさんの方へ向け、まるで世界中の時間を独占したかのように、ゆっくりとこう言った
―“社長はお客様の元へ、商談に行っちまったバイ!”
スァンさんの頭上に疑問符が乱れ飛ぶ
“もう一度、言ってもらえませんか?”/“語尾のバイって何ですか?”/“もう一度、教えてくれませんか?”/“さわまつさん、もう一度―”
嘘を強化するために、「日本人のビジネスシーンは変化が速い」とか「上司に対する言い回しは常に変化していく」とか「語尾のバイは流行語のようなもの」とか「試しに社内の日本人に使ってごらん」で煙幕を張り、丸め込み、おまけにダメ押しでこう付け加えた
―“ついでに発音も見てあげるから、おれの後に続けて言ってごらん”
“社長はお客様の元へ、商談へいっちまったバイ!”
“行っちまったバイ!”
“行っちまったバイッ!”
真顔で、“語尾は気持ち、上げるようにね?”と付け加えると、純真無垢なスァンさんは鵜呑みにして丁寧にメモまで取った後で、爽やかにこう言った
ー“さわまつさん、ありがとうございました!すごく勉強になりました!”
彼女が日本語検定1級の試験を受ける日は近い
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