でもね、やっぱり、私の価値観は、変わらない。人の命が、絶える、ということ。それは、尊く、包み込んで、ちゃんと、向き合って、天国に、送り出してあげる、ということ。
今、エリザベス女王の国葬を観ています。
皆が、たくさんの愛情で、歌を唄い、エリザベス女王の絶えた命を、悔やみ、尊く、送り出しているという、インスピレーションを感じています。
どんな形でも、ひとのひとつの命が、絶えた時、それは、誰にも知られないように、一瞬で終わらせる、そう思わせるような、そんな葬儀をしては、ならない、と、私は、思ってしまうのです。
だから、私は、かつて、彼女や、彼女の家族に、抗議をしてしまったのです。
お節介と、わかっていながらでも。
そんな葬儀は、「私は、許せない。」と。
「許さない。」と。
例え、その家族は、そんな気持ちは、1ミリもなかったとしても、他人である私、つまりは、亡くなってしまった彼女と同じ、うつ病経験者として、自殺未遂経験者として、そのような、葬儀で、「片付けられた、」ということを思わせるような葬儀が、私の中で、とてつもなく、葛藤していて、苦しい気持ちに、辛い気持ちに、その渦の中から、抜け出せずに居ます。
それは、もう、私の方が病気だ、静かに黙ってろ。と、そう言われたら、「そうですよね、私が病気だから。、、」とでしか、言葉は返せません。
しかし、私は、私の中で、ASD(こだわりが強い)という病気のせいかもしれないですが、双極性障害Ⅱ型の、躁状態のせいなのかもしれないですが、やはり、このように、じっくりと、彼女の命に向き合って、時間をかけて、葬ってあげて、欲しかった、という気持ちは、曲げられません。
彼女の両親は、互いに共働きで、忙しかったかもしれないですが、もし、私が、彼女だったら、、、と思った時、考えた時、、
やはり、
もう少し、
いや、たくさんの時間をかけて、
仕事を長期で休職してでも、
彼女と向き合って、
あげて欲しかったと、
思うのです。
いや、すぐ、仕事に戻らないと、逆に、
両親、親の立場としては、
もう、この世ので表せないほどの苦しみ過ぎて、一刻も早く、現場の職場に出社しなければ、己の仕事を続けなければ、両親のこころ自体が、潰れてしまう、という、状況だったかもしれません。
その気持ちも、なんとなく、想像はできます。
でも、やっぱり、私は、もっと時間をかけて、向き合って欲しかったな…って、、、
彼女は、天国で、どう思ってるかな…って。
聞けるのなら、聴いてみたいです。
神様って、本当にいるのかな…。
神様に、お願いしたら、彼女の気持ちが、聴けるのかな…。お願いが、叶うのかな…。。、
私は、何度、自殺未遂しても、生かされて、死なずに、居ます。
こんな私が、生きていて、いいのか、悪いのか、私には、もうわかりません。
でも、この機会だから、言いたい。
ごめんなさい。
と、
ありがとう。
でも、私は、生きるよ。
彼女の代わりになってでも。
私は、あなたが、そう思わなくても、
私は、
あなたのお姉ちゃんになる。
なりたい。
亡くなってしまった、
お姉ちゃんになるからね。
あなたが、そう思わなくても。
絶対思わなくても、
私は、お姉ちゃんの代わりに、
この世で、
生き続けるからね。
天国で、安らかに眠っている、お姉ちゃんも、
大丈夫、
ちゃんと、みてて。
私、
あなたの代わりに、
頑張るから。
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