全開のちょっと手前
いわゆる創作品で、青少年期の溢れんばかりの過剰なエネルギーに溢れた「自然なやりすぎ感のある作品」は良いものです。
その過剰なエネルギーの拙速感、不備、歪み、しかしヘンなところに老成感があったり、それが神経にゾクゾクするような刺激を与えてくれます。
しかし、もう少しキャリアを重ねると、それだけではダメなんですね。
例えば「カッコいい」「クール」「シュッとした感じ」という文脈のものを制作した場合に「モロにそれ」なのは、いただけません。
あるいは「やり過ぎ」なのはいただけません。
そういうのは「ちょっと気恥ずかしいもの」になってしまうんですね。
青少年期の、内側からの制御しがたいエネルギーではなく、ある程度の計算や経験や他人の眼への配慮があっての「やり過ぎキメキメ感」は、なんとも居心地の悪いものになり、それは、まるでマネキンのようなものになってしまいます。
話がズレますが、水道の元栓は、完全に開ききってから、5〜10%戻したぐらいにしておいて下さい、と、水道局の人たちに説明されます。
それを聞いて「なんだか壮年期の作品と似ているなあ。笑」と思ったのです。
「全開を理解していながら、その少し手前にしておく知性と感性」
そういうものが、壮年期の制作に必要だよなあと思ったりします。
そのちょっとした抑制が、他者の感性や精神を巻き込む懐の深さ、広さになるのです。それは結果として、より深く、広くになるわけです。
それは「オッサンがヨユーかましている態度」とは真逆で、むしろ若い頃よりもトータルのエネルギーは必要なのです。
私はむしろそういう「オッサンがヨユーかました感じの作品」は大嫌いです。ひどく嫌悪しています。本当に嫌い。
私がここで書いているのは、そういうものと正反対のものです。
壮年期は、才能も育ち、経験も積んでいるのですから、若い頃よりもエネルギッシュでなければなりません。だから若い頃と最低でも同等の創作エネルギーを、統御する別の高エネルギーが必要になります。
ここで説明しているのは「若い頃のエネルギーが無くなったから経験やコントロールでまとめる」ということではありません。
若い頃のエネルギーを育て上げて、もっと大きく効果的に放出するための方法、という意味です。
さらに進んで後期老齢者ぐらいになると、子供返りして「ジジイ大暴走!」みたいな作品が、人によってはサマになるようになります。
しかし
黎明暴走青少年期→安定完成壮年期→暴走老年期
という流れになっているものでないと、ただの気狂い老人の作品になってしまいますが。。。まあ、後期老齢者でも創作熱がある人ならば、それもまた良し、ですけどね。