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セラピストはうつにならないか
知人が休職したという話を耳にした。
そこまで仲良かったわけではないものの、いくつか心に関する勉強の一環として行っていた先で出会った一人だった。
明るく溌剌とした彼女の姿しか思い描けなかったから、そういうことは普通のことだとわかりつつも、なんだか動揺してしまう。
以前参加したアドラー心理学のセミナー講師は、自分の過去の経験で2度うつを経験したなどと話していた。
信頼するカウンセラーも以前自分が苦しんだ経験から、心の仕組みを学び今カウンセラーとして活動しているという。
話は大抵、過去にあったことを乗り越えたことで役に立ちたいという組み立て方だ。
私もある程度、そこに近いのだと思う。
だけど、仕組みがわかって、体系的に学んで理解して、誰かを救えるくらいの能力を積み上げたとして。
そのセラピストはもう一度苦しくなることがないかと言ったら、そんなことはない気がする。
もちろん、理解できることが増えることで、対策は立てられる。
「今自分はこういう状態だ」と俯瞰的に見るべき状態にいることに人より気づけるだろうし、そういう時にとるべき策も、わかって実行していける。
だけど、それで100%防げるかといったら、やっぱりそんなことはないんじゃないだろうか。
医師が病気にならないかといったら、そんなことはない筈だ。
やっぱり自分の変化に人より敏感に気づけるだろうし、だからこそ早めに対策はできるだろうけど、かといってならないかといったら、そうではないのだと思う。
医者の不養生という言葉もあるし、レッドブルを飲むのをやめなさいという医師の机の横にはレッドブルの缶が積み上げられていたなんていう話も聞いたことがある。
扱うことが上手くなることは、処理能力があがるということにすぎない。
自分の限界を知ってコントロールすることはできるし、自分の機嫌の取り方を認知し必要な時を場合分けして割り当てることはできても、世界にはそれ以上のことだって起こる。
100%なんて、誰もいえない。
強さなんて見せかけで、弱いからこそ弱いままでも生き延びられるように、人は誰かの役に立ちたいと思うのだと思う。
誰かの役に立てたら、誰かに役に立つ機会を与えることも、人として生きていく上で実は大切なことかもしれない。
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