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あいまいな感覚から何を感じ 何を遺すか

第31週 11月3日〜11月9日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、人間のカルマというか、日々の暮らしのなかから何を遺してゆくのか。という問いです。思考し感情を通して意志となる。その意志にもとづいて、あなたは、何を表現してゆくのでしょう。
今を確かめてゆく季節なのかもしれません。

では、読み解いてまいります。

 


  

E‘. EINUNDDREISSIGSTE WOCHE (3. NOV. – 9. NOV. [1912])

31.
Das Licht aus Geistestiefen
Nach außen strebt es sonnenhaft
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit
Um Kräfte zu entbinden
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912



  心の深みからの光が
  眩しきものとなり輝きを放つ
  それは生きる意志となり
  あいまいな感覚をも照らし出す
  みずからの力は解放され
  突動かされる表現の源となり
  人間の遺物を残すようにうながす





心の深みからの光



心の奥深くに燦めいている光は、どこからやってくるのでしょうか。


それは、時空を宇宙の始まりにまで遡ることなのでしょう。こう書いてしまうと、途方もなく感じてしまうかもしれませんね。しかし、物質的な光も、内面的な光も、大いなるものによって授けられ、その光によって生かされている。と感じることは、とんでもなく須要なのです。

心に宿る光は、始まりの日に生まれた星々のように、絶えずあなたに影響を与え続けている。逆説的にとらえると、その光が、すべての存在や行動の源でもあるのです。光がなければ、何も起きてこないのですね。

そして光から発せられるものには、思考→感情→意志といったプロセスがあります。大いなるものからもたらされた認識から始まるという起点を、象徴的な光としてとらえてもよいのでしょう。


照らす光と照らし出されたもの(=光によってカタチづくられたもの)を感覚し、とらえることなのです。


あまりに自然なことすぎて、凡庸なる出来事すぎて
気づかずに日々がすぎてゆくかもしれません。

秋が深まり、日が短くなるにつれ
外界の光から内界の光への感受性を高めてゆきなさい
というメッセージなのでしょう。


光は、どこからやってくるのでしょうか。




あいまいな感覚


あいまいさ、あわい、中庸、無記たるものを観察すべしという難しいお題が出てまいりました。快、不快の中間といえば、普通の状態ですよね?普通を表現するのは、あたりまえすぎて難しいものではないでしょうか?

つい白黒ハッキリさせたくなるグレーゾーン
グレーの階調をしっかりととらえてゆく感覚
といってもよいかもしれません。



写真を学んでいた頃に、同じネガフィルムから焼付け作業をする人によって、どれだけ出てくる画像が変わるのかを試すというものがありました。

通常であれば、撮影者が写真を撮影したときの記憶をいかに再現するのが現像から焼付けまでの一連の作業です。しかし、この場合は、ネガに写っている情報を、第三者の想像でいかに解釈するかというのがポイントになるのです。楽譜のようなものですね。

同じネガからどのような記憶を焼付けてゆくかが重要な部分です。微妙な光のグラデーションを露光時間などを変え、コントロールすることで、濃淡を調整します。極端な例では、朝日に照らされているようにするのか、月明かりのようにするのか、などが可能なのです、伝えたい世界感によって自由に表現ができるのですね。

作業をする人によって、フラットに表現するのか、コントラストを高めるか、明るくするか、暗くするかなど、無限のバリエーションが生まれるのです。それは、白か黒かではなく中間のトーンをいかに丁寧に感覚しているかが、その人の持ち味に通じるのです。



物事を選択するときにも、賛成か反対かではなく、賛成派と反対派がともに納得できる状態を目指すという認識が、時代とともに色濃くなってきていますよね。

優柔不断で何も解決できない!と憤る人もいますが、お互いが尊重されるために必要な行動が何なのか?を問うことは、諦めずに“対話”を続けることしか方法はないのです。



このような“あいまいな感覚”を照らし出すのにも、
外と内の、“光”への認識力が必要になるのでしょう。





2024年11月 ツワブキ




人間の遺物を残すよう



ツワブキの花を観ると、詩人の山尾三省さんを思い出します。


三省さんの生活の脇にあったであろう、ツワブキ。
観たり、食べたり…
葉っぱを細工し、器にして沢の水を飲んでみたり…と


では、詩の遺物は、いったい何を伝えようとしているのか?




ツワブキの花
 

立冬の 野の道に 咲きそろった
ツワブキの 黄の花は

わたしの 幸福の断片であり
人生の 意味です

立冬の 野の道に 咲きそろった
ツワブキの 黄の花のうちにこそ

銀河系はあり
人生の 意味はあります

いちめんの ツワブキの花
いちめんの 銀河系

わたくしは それであり
その幸福の 断片です

『五月の風』山尾三省





ゴーギャンの“ひまわり”みたいですね…
大いなるものから与えられたものを人間の業としてとらえ、

心で想い、コトバでいう、そして実際に行動する。

あいまいでカタチにならないものに焦点をあて
遺してゆこうとする意気込みこそが
表現の原点かもしれません。



素晴らしいと思いませんか?
三省さんの詩を読むたびに、そのようなことを感じます。



何を感じ、何を思考し、何を表現し、何を残してゆくのか?
そのヒントは、あいまいさ、あわい、中庸、無記たるものに

潜んでいる。

それを、観る力、読み解く力、そして表現する力が
あなたにも与えられているのです。



  突動かされる表現の源となり
  人間の遺物を残すように促す


人間の遺物”と訳させていただいた部分を説明させていただきます。

Menschenwerkeを直訳すれば、“人間の業”となります。翻訳者によって、“仕事”だったり“事業”と訳されてきました。アーティスト視点でとらえれば“作品”というコトバでもよいかもしれません。

ピンときたのは、内村鑑三氏の『後世への最大遺物』という文章でした。非常に興味深いので、ぜひ、みなさまも読んでほしいのですが、“遺物”という単語に込められた想いを承継したいと思ったのです。



ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいう Mementoメメント を残したいのである。

『後世への最大遺物』内村鑑三


というところから一転。
まず後生には、「お金」を遺すべし!という意外な話から始まります。
一瞬エッ?と思うのです。


実に金儲けは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職である。誰にも金を儲けることができるかということについては、私は疑います。それで金儲けのことについては少しも考えを与えてはならぬところの人が金を儲けようといたしますると、その人は非常に穢きたなく見えます。そればかりではない、金は後世への最大遺物の一つでございますけれども、遺しようが悪いとずいぶん害をなす。それゆえに金を溜める力を持った人ばかりでなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。

『後世への最大遺物』内村鑑三


鑑三さんも金儲けは難しかったんだーと

いまから“お金を遺す”なんてムリムリ。と安心するのですが、
それでは、何を遺せるのか?何を遺したいのか?


ひとりよがりな自己顕示欲ではなく、清い想いとして話が続いてゆきます。




さて、表現力は万人に与えられているとして
あなたは、何を後世に残してゆきたいでしょうか?





シュタイナーさん
ありがとう

では、また







Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/11/3






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