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『ジェネレーター』ABD読書会:個人の創造性の発揮の仕方から中動態、社会のパラダイムの探求へ

この記録は、市川力・井庭 崇著『ジェネレーター 学びと活動の生成』をオンライン読書会で読み解いた際の気づきや学びについてのまとめです。

今回は、同じ書籍を3回にわたってABD(アクティブ・ブック・ダイアローグ®︎)形式で読み解くシリーズ企画の第2回目のレポートです。

『ジェネレーター』ABD読書会、前回までの振り返り

前回のABDでは、

そもそも『ジェネレーター』とはどういった存在か?

インストラクターやティーチャー、ファシリテーターとはどう違うのか?

どのような経緯で『ジェネレーター』という存在が形作られるに至ったのか?

私たち1人ひとりが、日々の中で『ジェネレーター』としてありたい場とはどういった場か?

などについて探求し、対話を深めていきました。
詳しくは、前回の記録もご覧ください。

ABD(アクティブ・ブック・ダイアローグ®︎)とは?

今回の読書会は、アクティブ・ブック・ダイアローグ®︎という読書会運営方法で行いました。

アクティブ・ブック・ダイアローグ®️(以下、ABD)は、有志の研究会がこれまでの読書会の限界や難しさを検討し、能動的な学びが生まれる読書法として探求・体系化したメソッドであり、ワークショップの1手法とも言えます。

ABDの開発者である竹ノ内壮太郎さんは、以下のような紹介をしてくれています。

アクティブ・ブック・ダイアローグ®は、読書が苦手な人も、本が大好きな人も、短時間で読みたい本を読むことができる全く新しい読書手法です。

1冊の本を分担して読んでまとめる、発表・共有化する、気づきを深める対話をするというプロセスを通して、著者の伝えようとすることを深く理解でき、能動的な気づきや学びが得られます。

またグループでの読書と対話によって、一人一人の能動的な読書体験を掛け合わせることで学びはさらに深まり、新たな関係性が育まれてくる可能性も広がります。

アクティブ・ブック・ダイアローグ®という、一人一人が内発的動機に基づいた読書を通して、より良いステップを踏んでいくことを切に願っております。

https://www.abd-abd.com/

2017年、その実施方法についてのマニュアルの無料配布が始まって以来、企業内での研修・勉強会、大学でのゼミ活動、中学・高校での総合学習、そして有志の読書会など全国各地で、様々な形で実践されるようになりました。
ABDの進め方や詳細については、以下のまとめもご覧ください。

ジェネレーターとは?

ここからは、具体的な『ジェネレーター』の内容について、また、対話での気づき・学びについてまとめていきます。

ジェネレーターの誕生

本書中で用いられる『ジェネレーター(Generator)』とは、一般社団法人みつかる+わかる代表理事であり東京コミュニティスクール初代校長である市川力さんと、慶應義塾大学総合政策学部教授の井庭崇さんによって2011年に初めて提唱された概念です。

2011年、市川さんと井庭さんは『Pedagogical Patterns for Creative Learning』という論文中において『ジェネレーティブ・パーティシパント(Generative Participant:生成的な参加者)』という言葉が初めて用いられました。

2013年、井庭さんのSFCの授業に市川さんがゲストにやってきた際、『ジェネレーター』と呼び変えてはどうかという提案がなされ、その後『ジェネレーター』と改められたと言います。

著者2名のジェネレーターに関するインタビュー等は、以下をご覧ください。

ジェネレーターはどのような存在か?

ジェネレーターとは、「創造的コラボレーションの担い手」であり、「場に一緒に参加して盛り上がりをつくる人」と称されます。

ファシリテーターの相違点として本書中で挙げられているのは、ファシリテーターが場の参加者の外側にいる人とした場合、ジェネレーターは場の参加者の1人として内側に入り、自らも活動に参加する、という点です。

ジェネレーターの誕生には、ここ100年の社会の変化と学び・教育のかたちの変遷が大きく影響しています。

井庭さんはここ100年の社会の変化を、3つの「C」というアイデアで言い表しています。

Consumption(消費):消費社会
1920年代〜、よいモノ・サービスを享受することが生活・人生の豊さを表す。物質的なモノに重点

Communication(コミュニケーション):情報社会
1990年代〜、インターネット・携帯電話の普及。リアル、オンライン問わず良い関係性、社会的(ソーシャル)な関わり

Creation(創造):創造社会
2010年前後〜、自分で何をつくっているか・つくることに関わっているか。創造的な方向へと関心が向かう時代

この時代の変遷に対応するように、必要とされる学び・教育の担い手のあり方も変化します。

消費社会においては、知識・スキルを教える/教わるという関係性を結ぶティーチャー、またはインストラクター

情報社会においては、コミュニケーションを促す・または交通整理を行うファシリテーター

創造社会においては、学び手のつくることによる学び・創造的な学びに参加し、一緒につくるジェネレーター

ジェネレーターはこのような時代の趨勢の中で、また、市川・井庭両氏の実践の中からも必要な存在として現れ、広がりつつあります。

創造社会における「創造化」

創造社会の到来は、現在、さまざまな領域で確認できます。

ものづくりの民主化として、FAB(デジタル・ファブリケーション)が存在感を増し、まちづくりにおいては、住民参加型のまちづくり・地域活性・地方創生といった潮流が2010年代以降に生まれ、広がりつつあります。

2020年以降のコロナ禍によって始まった、自分たち家族の暮らし・働き方を自分たちでつくるという経験もまた、創造社会の一側面です。

これまでの常識、画一的なやり方、一般的な基準をただ受け入れるではなく、自分たちでやり方・あり方をつくるということが、創造社会では求められます。

ジェネレーターはこの創造社会において、一人ひとりの創造性を場の中で増幅・共鳴させ、創造的なコラボレーションを実現するためにもまた、必要な存在と言えるかもしれません。

対話による気づき・学び

以下、今回のABDの対話の中での気づき・学びについてまとめます。

トリックスター性

ジェネレーターは時にティーチャー(知識を伝える必要がある)としての顔、ファシリテーター(問いかけと議論の交通整理の必要がある)としての顔を使い分けますが、トリックスター的な側面を場に表現することもあります。

ジェネレーターとしてのあり方では、目先の成果を追わず、見えないなりゆきの中でも好奇心や創造性を発揮し、みんなで取り組んで何か良いことを起こそう、発見を生み出そうと最大限の努力をします。

その中で時に「こんなのはどうかな?」と新しさを持ち込み、場に参加している人に発想の転換を促したり、他の人も発言しやすくなる雰囲気を作り出すという、変人さと紙一重の性質がトリックスター性です。

今回のグループ対話の中では特にトリックスター性について語る機会があり、それぞれの体験のシェアが行われました。

自分自身はトリックスター的なあり方・生き方をしてきたという方や、そもそもそれぞれのトリックスター性の定義やイメージはどのようなものだろう?という問いかけもありました。

私自身、「あなたのこれまでの人生で最も大きくトリックスター性を発揮した時は?」と問われた際には、「人生を懸けた」というやや大袈裟な前置きもしつつも、自身の人生のトランジションについてお話ししました。

私自身は、京都のNPOにて組織変革・組織開発のファシリテーターとしてのキャリアを歩んできていましたが、父の病気をきっかけに一旦ファシリテーターとしての仕事は中断し、実家の兼業米農家を継ぐこととなりました。

現在は、これまで探求してきた組織における仕組みづくり・ファシリテーションといった領域のお仕事にも復帰し、米農家としてのあり方も統合し、『自然環境と、受け継がれてきた・受け継いでいく数世代間の時間軸も含んだ「対話の場づくり」を行う人』として自身のストーリー・ナラティブを編み直し、今に至ります。(※最近の私については、こちらもご覧ください↓)

そういった、突拍子もない人生の転換と、その両極の行き来と統合、という点でトリックスター性を発揮できたのではないか、というのが、グループ対話の中でシェアすることができました。

ジェネレーターシップの発揮とフロー、ゾーン

本書中、ジェネレーターは、生き方全体がジェネレーターシップで貫かれている、と表現されています。

人は生まれながらにジェネレーターであるものの、決まりきった流れ仕事・建設的でない会議によってモードがオフになることがあり、生成的に参加できる「場」をつくりだすことで、眠らせていたジェネレーター性が覚醒するものである、とも述べられています。

一方で、そうなった際に実際にジェネレーターシップを発揮するのは難しいことじゃないか?という疑問も、グループ対話の中では出てきました。

話の途中で、私はフロー体験ゾーンというのも、ジェネレーターシップの発揮の一つのあり方ではないか?と場に投げてみました。

ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)によって提唱されたフローの考え方や、

プロスポーツ選手が表現する『ゾーンに入る』感覚、また、最近、私の好きな漫画である『ブルーロック』においては、フローを『挑戦的集中』などとも表現しており、もしかしたらこの何かに向かって夢中になっている状態というのは、ジェネレーターシップのあり方にも近いのではないか?と感じたのです。

このフローやゾーンに入る感覚に加え、場を巻き込み、盛り上がりをつくり、より良いものをつくりだそうとする姿勢・熱中・ワクワクなども、もしかしたら含まれるのかもしれませんね。

最後、時間切れ気味になりましたが、ここはまた皆さんと深めていきたいところです。

中動態から探求する、現代人のマインドセット

今回もまた「中動態」というテーマが対話中に扱われました。

「中動態」とは、エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』にて論じられ、

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』によって広く知られるようになった、

能動態・受動態では言い表せない状態を表す「」です。

「見る」という動詞を例に取れば、「見る(能動)」「見られる(受動)」「見える・見ゆ(中動)」と表現できるかもしれません。

本書中ではさらに、「生まれる」「眠る」「想像する」「成長する」「欲する」「畏敬の念を抱く」「希望する」「見える」「聞こえる」「抱き合う」「闘う」といった動詞が中動態を表す言葉として紹介されています。

対話の中では、そもそも「中動態」とはどういったあり方なのか?についても探求が進められました。

その中で、浮かんできたものは以下の4点です。

能動態・中動態・受動態のどの「態」も時には必要であり、自身の置かれている状況、コンテクストによって必要となる「態」も変わる。

自分がどのような状況・コンテクストにどのような「態」であることが多いか?本来ならどのような「態」でありたいか?その「態」を表す姿勢や行動はどのようなものか?を探求することで、もしかしたら自身に最適なあり方も見つけていけるかもしれない。

人が何か意図して自分の外側の物事・人を管理、コントロールしようとすると、能動態と受動態の関係が生まれやすい。計画と予測・管理というパラダイムが社会に広がったことで中動態が失われたものの、現在、再発見されつつあるのかもしれない。

計画と予測・管理」というあり方と、「物事が生成されるままの流れに身を任せる」という両極のあり方を行き来したり、統合・止揚(アウフヘーベン)するようなあり方が、今後は求められてくるのかもしれない。

前回よりもさらに深みを増したように感じた探求の時間でしたが、今回もあっという間に時間が過ぎていきました。

次回の探求も楽しみです🌱


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大森 雄貴 / Yuki Omori
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