紫がたり 令和源氏物語 第十二話 帚木(八)
帚木(八)
夜も更けて辺りは仄かな月明かりのみ。
みな床につきはじめると、静寂(しじま)にさざ波が広がるように女達の囁き声が聞こえます。
「源氏の君はお休みになったのかしら」
その声は伊予介の後妻であるその人らしい。
「はい、姉上。私はお側で拝見しましたが、噂通りの素晴らしい方でした」
この声は宴にいた後妻の弟であろう、名を小君といったか。美しい子であった。
「そうなの、昼間であれば御簾越しにお姿を拝見できたのだけれど」
女は眠そうで源氏にはそれほど興味を持っていないようです。
「私はあちらの姉上のところで休みますね」
小君がいなくなると、女は老女房に呼びかけました。
「中将の君(女房の名)はどちらに行ったの?誰か側にいないと心細いわ」
「湯浴みですので、そろそろ戻るでしょう」
と、他からしわがれた女房の声が返ってきて、またしん、と静まり返るのでした。
源氏はこのまま眠ってしまうのも惜しく思われて、試しにこちら側の庇(ひさし)の掛け金を外してみると、襖(ふすま)はするりと開きました。そのままそっと寝所に忍んでいくと、うっすらと暗闇に小柄な女が横たわっているのが見えました。
どうやら伊予介の妻であるようです。
「中将の君?」
女は夢うつつのようでした。
「はい。あなたがお召しになったので、近衛中将が参りました」
と源氏が忍びやかに囁くと、女は
「あっ」
と驚きましたが、ふわりと翻った源氏の袂がその声を覆い隠してしまいました。
源氏は動転する女を軽々と抱き上げると自分の寝所へと連れ去りました。
途中で本物の中将の君(女房)と鉢合わせましたが、
「明け方に迎えに参れ」
そう涼しい顔をしています。
一瞬の出来事で、老い女房の中将の君は大変なことと狼狽しましたが、目の前の板戸はぱたりと閉じられてしまいました。
ここで騒ぎたてると女主人の名誉に疵がついてしまいます。
女房はじっと口を噤むしかないのでした。
ぱたりと、閉じられた板戸に紙燭の明かりは吹き消され、寝所はわずかにそそぐ月明かりのみ。それでもほのかに源氏の美しい姿は見てとれました。
噂通りに本当に美しい御方・・・。
女は目の前の殿方から目が離せません。
しかし源氏の無礼な振る舞いは許し難く、身分賤しい故に気まぐれな添臥(そいぶし)のような目に遭うのかと思うと情けなく思いました。
「どうかお許しください」
袖で口元を隠し、悩ましげな姿は成熟した魅力に溢れています。
「私は以前からあなたに想いをかけていたのですよ。方違とこじつけてこちらのお邸に来たのも、ひとえにあなた恋しさゆえなのです」
源氏は口当たりのよい言葉を並べて女を口説きます。
もはや逃れられないと観念しても、いわれなき屈辱を受けるのは女には耐えられません。
源氏の接吻は優しく、整然とした思考を奪うほどに甘く、それでも女はわずかに体を許そうとはしないのです。
「これは前世からの縁とおぼしませんか?」
尚も思考を奪うような源氏の愛撫に女は理性を保って抗っております。
「この出会いが娘の頃のものであったらばどんなにありがたいことかと思われますが、今は人の妻ですもの」
その上品な口ぶりに柔らかい物腰。
女は源氏を嫌ってはいないようでした。
夫への裏切りに煩悶している悩ましげな姿がどうにも艶やかで、普段は慎み深い人であるのだろうと思われると、さらに乱れる姿を求めずにはいられないのです。
若い源氏の情熱は堰を切ったように女を翻弄し、すでに諦めてしまっていた慶びを思い起こさせるのでした。
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