学校の教育の目的とその弊害について
学校教育の目的
学校生活の問題
学校生活とは、子供を集団で動くことに慣れさせるものだとされています。
しかし、実は30人が同じ行動をする状況は現代社会では少ないものです。
学校教育では、30人の生徒達が、ルールを守った上で教師の指示通りに動くことを学んでいるだけです。
このルールは理不尽なものだらけであって、教師の恣意も不公平で恣意的な場合が少なくはありません。
江戸時代の「慶安の御触書」とまるで変わらないブラック校則は、その典型例であると言えるでしょう。
ルールを守ることが信仰され、それによってどのような効果や弊害があるかは誰も考えていません。
これは戒律を絶対に順守するカルト宗教の教団の内部と完全に一致しています。
学校生活とは、一切の公共性が存在しない単なる全体主義であると言えるでしょう。
学校の授業の問題
学校の勉強も教科書を覚えるだけです。
自分で実体を観察する科学的意識や、自分で実体を動かすための工夫を考える技術的創意は、殆ど要求されません。
これは、カルト宗教が経典を暗記させることと大して変わらないと言えます。
生徒達はこうした理不尽・不合理・非実体の中で、ペーパーテストや内申書で序列競争することが強制されます。
学校とは身分制度的な社会であると言えるでしょう。
この社会構造を批判すれば、最低の身分と認定され、村八分に遭うどころか、弾圧され、虐められることになります。
おまけに、学校の内部は法律がほとんど守られることがないので、こうした暴力に対しても、警察の介入は殆どありません。
学校に適応した人間は法治社会に適応することが出来ない、と言えるでしょう。
体育も、身体構造を観察して、己の体をどのように動かすかを一切に教えていません。
兎跳びやらピラミッドは、科学技術的な意識を破壊する信仰であって、これらは生徒を痛めつけるための「単純な暴力」であると言っても何ら問題がないでしょう。
単純な暴力は、科学技術とは異なって、世界を認知することは全く出来ないものなのです。
指定された動きを早く終えるという焦りだけが増幅され、物事を視抜き結果を狙う意識は徹底的に破壊されます。
学校教育の弊害
子供が思考停止した権威主義者になります。
権威に怯えることと、権威に反逆する者を弾圧すること以外、何も出来ない大人に成ります。
こうした大人は昔は魔女狩りを行っていたのでしょうが、ナチス親衛隊のアイヒマンとそっくりであるとも言えるでしょう。
怯えているだけで、自分の目で何も視れず、自分の頭で何も考えず、ただ扇動されるだけの大人が生まれるのです。
学校では、自らで考えた上で社会全体のためになる行動を行う公共性は教えられず、お上の指示通りに言われたことを急ぐことだけが教えられています。
学校教育の問題を視抜き、それを批判できる賢い子供は、「最低の身分」とされるので、彼等彼女等には適切な教育が与えらることはありません。
それ故に、往々にして彼等彼女等は非行に走ることしか出来なくなります。
学校で育った子供が成長すれば、毒親になることが必然です。
学校では、ルールを思考停止して守った上で、権威の指示に絶対服従することが、「良い子」の定義だとされています。
学校とは、江戸時代的な身分制度の延長の施設であると言えるでしょう。
会社の生産性の低さも、現代の学校に由来することが殆どで、これについては別の記事で語ることにします。
毒親は子供に対してこれを徹底的に強制する上に、法律的な価値観をまるで持っていないので、どんな虐待を行っても、「それが正しいこと」であるとしか認知出来ないのです。
上の言うことを聞いて下を弾圧するだけで、他者を会話する能力すら持っていないのが毒親の本質です。
これは、カルト宗教の信者と完全に同じ思考であると言えます。
毒親とは、学校が生み出した化け物なのです。
彼等等は、人間関係を懲罰する者と懲罰される者に置き換える、学校教育を順守しているだけなのです。
彼女等は「恐れと脅し」しか何も理解しておらず、子供を弾圧することしか出来ないのです。
彼等彼女等は、子供を親が敷いたレールの上で出世させるための道具であるとしか、全く認識していないわけです。
余談&宣伝
下の身分になって虐められたくない=儒教
地獄に落ちる貧乏人になりたくない=カルヴァンプロテスタント
こうした受動的な恐れで働く者には本質的な創造性は存在しません。
能動的な公共性で働くことを学校では教えなければなりません。