【詩?】 僕の愛する『牧野ヶ池緑地』!!
僕の近所には緑地がある。
江戸時代に灌漑用に作られた人工池と,それを覆い隠すように茂る雑木林から成るその地を,人は『牧野ヶ池緑地』と呼んでいる。
僕の住んでいる名古屋市名東区は都会と言い切るにはやや味気ない部分がある。しかし,容易く喧騒を遠ざけることができるほど慎ましい街でもない。
だからこそ,手っ取り早く自然を感じることが出来るその場所が昔から好きだった。
アスファルトの浮いた遊歩道を歩く。
両脇には樹々が茂っており,四季の移ろいを教えてくれる。この時期は木陰や葉の濃淡が,やけに主張的でエネルギーに満ちている。夏が近づいている証拠だ。
遊歩道と呼ぶにはアソビの少ない道筋だが,それに不平を垂れるほど僕は散歩下手ではない。アスファルトや街灯の劣化具合を見て,
『何かエモいなぁ……。』
とか思いながら歩を進める。
人工池に足を運ぶ。
この池は365日濁っており,僅かに透明感を残した茶色に,ねっとりとした緑色が浮かんでいる。とても美しいとは言えない。小学生の頃はここで釣りをしたものだ。ブルーギルやブッラックバス,ホンモロコもいた。
『こんな汚い水の中で,よく生きていられるものだ。』
そんな事を思ったが,魚も僕たち人間に対して同じ感想を抱いているのかもしれない。
『あんな汚い空気の中で,よく生きていられるものだ……。』
竹藪に足を踏み入れる。
最初に目に入るのは,『タケノコを無断で採ることは禁じられています。』と書かれた立札だ。数か月前まではその立札と一緒にタケノコを採集する老人の姿を確認することができた。しかし今となっては,老人はタケノコを連れてどこかへ行ってしまったようだ。季節の移ろいを感じる。乙だね。
一度だけ,そんな老人に対して
『よく採れますか?』
と聞いた事がある。老人は僕の方に一瞥をくれると,何も言わずに去って行ってしまった。どうやらタケノコ『盗り』に夢中になっていて,僕に気づかなかったようだ。
ところで,『自然公園』という言葉に妙な違和感を抱いてしまうのは僕だけだろうか。
舗装された遊歩道。濁った人工池。区画された雑木林。それらを『自然』と呼んでいいのだろうか。むしろ『不自然』な部類である。
『公園』という単語には,言い逃れできない程に人間の意図のようなものが介在する。一方で『自然』という単語はそれらとは最も離れた概念の筈だ。
『自然公園』という単語は徹底的に矛盾している。
『牧野ヶ池緑地の自然は不自然な自然である。』
そんな皮肉的なユーモアを脳内で紡ぎながら,僕はこの公園を後にする。
今日もこの街は平和です。