④(終)私が「クリエイター漫画」が嫌いな理由。もしくは「ファッショナブルでアーティスティックでコミュ力高く、かつ自然体で柔軟で臨機応変な人材たれ」という要請を社会から受け取った少年はどのように歳を喰っているか(ゆとり世代Ver)

前回の記事はこちらです

『私が受け取った「ぼんやりとした しかし確実に社会が要請する何か」』については、カルチャーの評論などの書籍を色々読んでいくうちに、その輪郭をだんだんと掴めるようになってきた、のだと思います。

元々、漫画も映画も作品を見る前や、見た後に評価や評論をチェックするのが好きだったその流れで、映画評論の書籍を色々と読むようになりました。

評論の面白いところは私は大きく分けて3つあると思っています。
まずは、映画(でも小説でも漫画でも)を単体の作品として捉えて、その作劇や演出なども含めた物語の「語り方の技術」を批評する部分。
二つ目は、映画の制作費とか、配給の事情、興行の結果やマネタイズがうまくいったのかいかなかったのか等、商品としての裏事情みたいなことも教えてくれたりする。
そして、三つ目はその作品はどのような社会背景や歴史の中で、どんな意味を持ち(持ってしまい)生まれてきたのか、そしてその後、社会や映画史にどのような影響を与えたのかという「文脈」の話。

評論、批評などを読むと、この三要素のうちどれかには必ず触れているはず。
読み始めた当初は、一つ目の「演出などの語り方や技術の話」を目的に読んでいたのですが、だんだんと二つ目、三つ目の話が面白く感じるようになっていきました。(そもそも、その三要素はそれぞれ独立できるはずもなく、全てが繋がっているものだと思いますが。)

元々、私は「エンタメ作品は『娯楽』であり、人を楽しませたり感動させるために存在していて、社会性を持たせたり、政治的なメッセージを込めることは野暮であり、もっと言えばそれはエンタメにおいて不純で不要なもの。」という考え方を(言語化はしていないながらも感覚として)持っていました。

しかし映画・小説・漫画の批評、評論を楽しむうちに「作品が作品単体として他と関係を持たずに、ただ独立して存在することはあり得ない」ことを知りました。
どんなものも生まれた瞬間に歴史の中に組み込まれ、意味や意思を持つし、誕生の背景には「社会」が必ず存在している。
(余談ですが「社会的、政治的な話題には触れるな。エンタメにそれを持ち込むな。」という態度を取る人間の多くは、その良し悪し以前にまず『「変革を望まない保守的(ここでは、辞書通りの「保守」の意)な意思・思想を持っている。」とても政治的な人間』だと思います。
その内容と中身ではなく『「政治的態度と思想の表明」自体をエンタメの中ですること』というアクションを否定をしているように見えて、その「否定」がすでに立派な一つの政治的表明に当たります。
つまり、この考えを持つ人が本来言いたい(言うべきな)のは「私は現状の制度や価値観に変革を望まない立場なので、エンタメ作品の中で変革を啓蒙したりするようなセリフ・話の筋を持ち込むな。何らかの方法(キャスティングなど)で現状のシステムや価値観の問題点などを指摘しようとするな。そうじゃないと私は自分の考えや感覚、価値観を否定されたように感じて純粋に楽しめない。特にビックバジェットのシリーズや、続きモノ、リメイクリブートでそれをするな。新しい小さい企画でそれをやられるより、「従来の価値観の否定」の意味合いがより強くなり、到底受け入れられない。今現在、広く定着した従来の価値観を補強するようなメッセージを打ち出せ、とは言わない。(すでに根付いてるんだから、これ以上補強する必要がないしね笑)だが、その否定を少しでも匂わせるな。」になると思います。
こう言ってくれれば、共感はできずとも理解はできる。そういう立場なのね、と。
とはいえ、保守的な考えを持つ人は「今、世間に広く根付いている価値観」を受け入れているが故に、その考えはただの「常識/一般」であり、まさか「思想」などと呼ばれるものに該当するとはつゆほども思わない。本人がどうだとか言うより その立場の性質上、当たり前と言えば当たり前です。)

長くなりましたが、 私の中に「作品の背景に、必ず「映画史(or漫画史他)」と「社会」があるように、すべてのものは社会や歴史と繋がりを持つ。」という考え方が根付きました。
そして(最新作や、その逆の古典名作だけではなく)「リアルタイムで自分が観てきた作品」の批評評論を楽しむことで、自分が生きてきた期間をも「歴史、社会史」として捉える感覚と知識が少しづつ入ってくるようになりました。

そんな中、自分が特に影響を受けた著作が河野真太郎の「戦う姫、働く少女」と「新しい声を聞くぼくたち」でした。

ジブリの少女やディズニープリンセスは何と戦い、どう働いたのか。それは現代女性の働きかたを反映していた―。『逃げ恥』から『ナウシカ』まで。現代のポップカルチャーと現代社会を縦横無尽、クリアに論じる新しい文芸批評が誕生!
目次
第1章 『アナと雪の女王』におけるポストフェミニズムと労働
第2章 無縁な者たちの共同体―『おおかみこどもの雨と雪』と貧困の隠蔽
第3章 『千と千尋の神隠し』は第三波フェミニズムの夢を見たか―?アイデンティティの労働からケア労働へ
第4章 母のいないシャカイのユートピア―『新世紀エヴァンゲリオン』から『インターステラー』へ
第5章 『かぐや姫の物語』、第二の自然、「生きねば」の新自由主義
終章 ポスト新自由主義へ

Amazonの商品説明文より抜粋

個人的にこれまで「ポストフォーディズム」「新自由主義」と言うキーワードを軸にポップカルチャー・映画作品の背景や、それが社会に与えた影響を読み取ろうと言う試みの著作に触れたことがなく(私が他のそのような本やコンテンツを知らない、というだけなので、むしろ他にもあればぜひご教えていただけると嬉しいです)大変な衝撃を受けました。
「フェミニズムの視点」を導入しているところも、河野の著作の主要なポイントだと思いますが、「ポップカルチャーをフェミニズムの視点から批評する」 と言う点では、私は先に北村 紗衣の「お砂糖とスパイスと爆発的な何か ― 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 ―」を読んでおり、こちらの著作にも、かなりの衝撃と影響を受けました。

興味を持っていただけたら是非、これらの本を読んでみて欲しいのですが、当記事の本題としては『「戦う姫、働く少女」などのポップカルチャー批評の書籍から、私は「ぼんやりとした しかし確実に社会が(私の世代に)要請する何か」を理解するヒントを得ることができた』ということ。

河野は、自著で扱う「現在・現代」についての認識の枠組みを、下記のようなものだと説明しています。

欧米と日本などの「先進国」における歴史として、1950年代から1970年頃までは福祉国家が花開いた時代だ、と。そこでは国家が手厚い福祉を国民に提供し、大量生産・大量消費を基調とする資本主義が好循環で回っているように見えた。
しかし、「政府を最小化し、市場の自由と個人の自由を最大化していくことでしか、資本主義のさらなる拡大を推進できない」という理論を根拠に、福祉資本主義は批判され、新自由主義の時代が到来した。
これは、まさに2024年現在でも広く倫理として定着して(しまって)いる「自己責任」という理屈、感覚と無関係ではない。
個人は国家やその福祉に頼ってはならず、自由市場における競争に勝ち続けることが求められるのだ、と。
そして、それぞれの時代での、生産体制としての特徴である「フォーディズム」から「ポストフォーディズム」へ、という変遷を見ることで、社会で生きる人々の働き方の変化と問題を。さらに、そこでフェミニズムの歴史を同時に追いかけることで現在まで続く、人々が直面する、経済的・社会的な危機を浮かび上がらせます。

私にとって何が衝撃的だったか。
どシンプルに言えば、「自己責任論」と「資本主義」が「『絶対の真理』ではない」と気づかせてくれたことです。
それは、複雑に絡まり合った社会が何の因果か産んでしまった、今現在、特に日本と、あと数えられる程度の数の国・社会で浸透しているだけのただの一つの偏った考え方・思想・信念・政策でしかない。
私は、もともと社会学に興味があったわけではないので、河野の指摘がスンっと頭に、体に、腑に落ちる感覚を伴って落とし込まれたのは、やはり「ポップカルチャーを論じる」というフォーマットで語られたからなのだと思います。何度でも薦めますが、本当に面白いのでぜひ。

私の中で疑念が生まれました。
自己責任論を内面化していた私は、多くのことを「私が選択してきたもの」と考えてきましたが、それは本当なのか?ということ。

「今のお前がそうなのは、あの時努力しなかったのはお前の選択によるものだ。生まれを嘆くな。それで何か変わるのか? もっと酷い環境から、選択と努力によりのし上がったやつはたくさんいるぞ。何かを変えたいなら、今この瞬間、新たな選択をするのだ。しかし、それが間違ってた場合、当然自分で責任を取らねばならない。賢く、効率的な選択をせよ。その自由はある。」

上記のような論理を伴って、頻繁に行われる啓蒙・啓発。

しかし、それは唯一絶対の真理などではなく、全体主義への嫌悪感から生まれた「資本主義拡大が人類の取れる最上の一手だ」という思想を補完するツール。

私が選択してきてないものが、確実に、私の人生の中にある。

この感覚を得たことそのものがまず「何故、俺はクリエイターになるべきだ、なって当たり前だと思い込めたんだ? 創りたいと思ってないのに、そんなものなくても生きていける人間なのに、なんでそう思い込めたんだろう?」という疑問を自分の中から見つけ出すことができたきっかけの一つとなりました。

現在の自分の全てが、過去の自分の選択だと考えなくてもいいのなら、と今までと違う視点を持つことができた。

そしてそれは、自分の家族がどうだったとか、友人などの他者からの影響だとか、通ってた学校だとか、そういう近場の狭い視点でだけで考えなければいけないわけではない。私が生きてきた社会は、私という人間にどんな影響を及ぼしてきたんだろう。

話がだいぶ戻りますが、私が美大受験予備校に通い始めた時や、デザイン科に入学した際に感じたことなのですが
「あ、クリエイターになりたいヤツってこんなにたくさんいるのか。」とちょっと驚いた記憶があります。
しかも、さらに美大以外にも多くのデザイン専門学校などが存在するという事実。もちろんクリエイターになる道筋には、学校に通うことだけでなく、もっと多種多様な様々なルートも存在する。

高校生ぐらいまでは「クリエイターになりたいのなんて、クラスでも自分含めて一人か二人ぐらい」と認識していて、つまりそうなりたいと願っている感覚自体がスペシャルなものだというアホみたいな思い込みをしていましたが、そんなのは妄想もいいところだったわけです。

めっっっちゃいる!

私が、河野らのポップカルチャーを社会学の視点で読み解く、という類の書籍の後に欲したのは、「私も含めた『クリエイターになりたいと願う人間』のことを論じている」本でした。

できれば、社会がその人間たちにどのような影響を及ぼしたのか、というところまで踏み込んだものを。ある種の否定的な側面にも言及のあるものを。

これも私の無知と、求めることが書いてある書籍を探し出すサーチ能力の低さが原因なのだと思うのですが、全然ないんですよ。
そういう本。
私が読めるレベル程度まで、わかりやすくやさしく書かれているものが。
あったら教えて欲しい!!

そんな状況で、あ これは、と思って手に取ったのが大野左紀子の「アーティスト症候群 アートと職人、クリエイターと芸能人」でした。

帯には「なぜ人はアーティストになりたがるのか?」の一文。

アーティストとして実際に作家活動を行っていた著者が、自身も身を置いていたアート業界に対して、批判的な視点を持つことを辞さず、経験を振り返りつつ論じています。さらにその業界を外側から見る人々が持つ「アーティスト」という単語に対して感じている魅力と、作用する力を解析しようと試みる。この本は、あくまで大野の経験や見聞きしたことがベース・メインとなっています。
しかし、同じテーマで社会・歴史の話にまで踏み込むという側面を、続編の「アート・ヒステリー なんでもかんでもアートな国・ニッポン」が補完してくれます。

アートの受容格差という話をするためにはまず、「この国、ニッポン」にとってアートとは何かを理解していかなければならない。
それは、本場である西欧においてのアートの変遷と、その土台となる思想の共有がされてこなかったという側面でのニッポンを。江戸から明治にかけて「文明開花」のかけ声とともに、西洋美術の受容期を特殊な環境下で経験したニッポンを。

そして、その明治以降から現在までに「日本の美術教育」というものは、輸入・インストールから始まり、どのような経緯を経ながら今、どんな形で教育現場の「美術」の時間での「指導」へと繋がっていくのかを辿っていきます。

「自由と個性」「平和と民主主義」というような、西欧では歴史を経て削り出されてきた価値観が、日本では美術の需要期と同時に急遽インストールされたという背景が美術教育の指導目的にまで影響を与えている。
技術的な側面よりもむしろ「人間性の確立」「生きる力」のような精神面での成長を促すことを過剰に期待されるようになった側面があるのではないか。

それは、(私の子供時代に施行された)「ゆとり教育」の学習指導要領の内容にまで直接的に繋がっているのだということを指摘します。

そして同時に、今日のアートを支えているのは紛れもなく民主主義(個人主義)と資本主義(自由主義)であり、それを理解しようとしない限りは「アート業界」を捉え、思考思索を始めることはできないのだということを、村上隆やバンクシーを取り上げる中で浮かび上がらせ、論じていきます。

この西欧の思想をインストールする際に、捻れ絡まって解きほぐすことが難しくなった「美術教育観」と、現在進行形で世界を覆う個人主義と自由主義のイデオロギーが、『「自己実現」「自己表現」することは「善」であり、そのための消費活動も至極当然である』という価値観を現代の生活 社会 文化の隅々にまで行き渡らせ、またそれが教育も含んだアートの制度と市場を成り立たせるという循環を生んでいる。

つまり、西欧の美術の歴史においては社会や文化に対する異物・アウトサイダーとして機能してきた瞬間もあった(むしろそれの繰り返しで歴史を紡いできた)「アート」は、現代においては、社会の中心的な優性価値である「民主主義(個人主義)」「資本主義(自由主義)」と何ら矛盾することなく一致しているのだと。

ここが私にとっての、最大の衝撃ポイントでした。

私は、記事の②③で触れてきたように、「アーティスト(クリエイター)になるべきだ」と思い込んでいた自分のことを「特別な感覚を持っている人間であり、ただその理由は自分自身でもわからない」という風に考えてきましたが、むしろ真反対だったことになるのです。

「民主主義(個人主義)」と「資本主義(自由主義)」が推奨する価値観を真っ直ぐに、ど真ん中で受け止めた、最も素直な類(たぐい)の人間だったのです。

私にとってのアート・アーティスト(クリエイター)の世界は、社会化や既存の価値観に抵抗したり疑問を投げかけたりする類の場所ではなく、むしろまさに社会に適合するために、ただそれが最適解に最も近く、クリティカルに優性価値の体現することに直結するものであっただけなのです。

だから私は、「クリエイターになりたかった」、いや「なるべきだと思っていた」 のです。
社会の要請にシンプルに応答・反応した、本当に愚直な子供だっただけなのです。

河野は「戦う姫、働く少女」「新しい声を聞くぼくたち」に続く著作である「はたらく物語」で、新自由主義は私たちに下記のようなことを求めるのだと説明しています。

「さまざまな配慮をし、他者の気持ちをおしはかりつつケアを忘れず、それに基づいて人間関係を調整できるコミュニケーション能力」を擁している「柔軟なコミュニケーション能力や感情管理能力の権化」であることを。

そこに大野によって解き明かされた「現代・現在においてアーティストを志向することは、時代の要請に純粋に従う方向性・思考・行動(なだけ)である」ことを組み合わせることで、私は私を理解することができました。

性格として「ええカッコしい」で「褒められたがり」であり、かつ「クリティカル思考を割と内面化している」。
その私は、「自分の生きる時代と社会」が本質的にそこに生きる人々に要請する優性価値を無意識に感じ取って、それに一番沿った具体である「アーティスト」になるべきだと思った。

そう考えると、私の目的は元々「社会の要請に素直に応える形で、褒められること」だったわけですから、何も物を造る必要はなかったことになります。
だから、造らなかったし造る必要性を真に感じることはなかったのでしょう。
私が目指すべきだった具体は、ただ「柔軟なコミュニケーション能力や感情管理能力の権化」であること。そういう人間(人材)になれば、時代は誉めてくれるのでしょう。

え?本当に?

時代が誉めてくれるってなんだ?

「柔軟なコミュニケーション能力や感情管理能力の権化」であり「自己責任」を内面化して、効率的で効果的な選択を続けることができるようになったら?

現代に生きる私は、この価値観で生きるべきなのでしょう。

きっとそれが経済的な面で、私の助けとなってくれる。
別にもう「クリエイターになりたい・なるべき」だとは思わない。

しかし「社会の優性価値に対してアウトサイダーの立場から批判する」という、かつてのアーティストたちが行ってきた活動や創造に対する憧れが、微かに自分の中にあるのを感じる。

私はこれから「社会が求める持つべき価値観」と、この「微かな異物への憧れ」という、矛盾する二つと、どう向き合って、付き合って生きていけば良いのでしょうか。

それはまだ、考え始めたばかりで、ぼんやりとして、姿も形も全く見えてこない。

誰か、一緒に考えてくれないかな。どこかで、誰かと、それについて話がしたい。

今はそんなことを思っています。

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