チョコレートでも癒えない寂しさ
チョコレートを2日間食べていないだけで、チョコレートを口にしたとき泣きそうになった。下手したらコーヒーより依存しているかもしれない。チョコレートを舌で溶かして自分を労うことは私が幸福でいるために必要不可欠だったらしい。
そんなこんなで「チョコレート控えてみようかな」という試みは2日で終わった。
自分がどうすれば正気を取り戻せるか、笑えるようになるか、心が軽くなるか、そういったことを知っていると多少は生きやすい。まあそんなことが何の意味も持たないほどしんどいときも容赦なくやってくるのだけれど。
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もちろん夏の暑さも嫌いだけれど夏が嫌いというより、お盆が苦手なのかもしれない。年末年始の集まりはわりと好きだけれどお盆の期間に人が集まるのはあまり好きじゃない。
たぶん、今は亡き人を思い出し、その場にその人がいないという事実をその度に自覚する必要があるからだと思う。蚊取り線香の匂いですら限りなく死に近いものがある。
情けないことに、もうこの世にはいない人に会いたいと思うことがいまだに何度もあって「でももう居ないんだもんね」と泣いてしまうことだってある。諦めが悪くてイライラする。居ないもんは居ないんだよ。
いい加減縋るのはやめてほしいと思うけれど、縋っているわけじゃないのと反論したくなる自分もいる。
縋っているわけじゃないんだよ。
「死んだ人に会いたいと何度も思うのは弱さだから」と私が言ったとき、彼は「思い出があることは弱さじゃないでしょ」と言った。
会いたいと思うのは私の中にその人たちと生きた思い出があるからで、それは決して弱さではないと彼は言う。
亡くなった人に会いたいと思う気持ちと、今を否定したい気持ちはまったく別物で、そうじゃなくてと必死に言葉を紡いで伝えようとしたことが、言葉にしなくても伝わったようで嬉しかった。
「弱さじゃないからと言って別に強さである必要もないんだし」と彼は躍るような声で言った。
こんな彼だから余計に思う。あなたに、あなたたちに会わせたかった。
もしも愛する人同士を会わせることができていたらと、穏やかで賑やかな時間を想像してはそれが叶わないことに寂しくもなる。でも虚しさはない虚しくはないよ。
自分の命が尊いものだと思えるようになる頃には、私は死んでいるのだろうし、なんなら死んだ後も尊いと思えているかは怪しい。長生きしたいと思ったことはないけれど、死にたいって意味じゃない。
冷たくなったあなたの身体を触ったときの絶望はいまだ消えず、でもいいやそれでいいの。私はその絶望ごとあなたを愛していく。どうやら私も愛された分の絶望だと思えるくらいには大人になったらしいから。
愛する人を失ったからこそ愛する人に出会えたのかもしれないし、でもそんな、何かを失わなきゃ何かを得られないなんて結論は窮屈すぎるからそんなこと思いたくはないかも。
あらゆることにおいて、「それがこの世の道理だとしてもそれが窮屈で寂しいことなら信じなくていい」と、あなたたちも彼もきっとそう言うのだろうな。
自由に伸び伸びと生きることを心から願ってくれる人がいたこと、今隣にいること、それがどれだけの僥倖であるかを忘れずにいたい。
珍しく0時すぎても全く眠気が来ない。このまま眠れなそうなら仕事でもしよう。
最近詠んだ短歌を投下しておわり。