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キャベツのはらわた 5

短編小説 はじまりへの旅

 1
 師走の重苦しい雲が垂れこめた下で、葉山真治はやましんじがバイクを走らせていた。
 北に延びるハイウェイはスムーズに流れていたが、葉山のすべては円滑ではない。すべてはこの冷風を浴び続けているためである。
 アクセルグリップを握る右手は、寒さですでに感覚が麻痺していた。クラッチレバーに添えた左手も、氷のリングでも嵌めたように冷たい。これはメタルバンドの腕時計のせいである。葉山は、革ベルトの腕時計にしてこなかったことを、横浜は港町のアパートを出た直後から後悔していた。ついでに言うと、もっと保温性のあるグローブにしてくればと悔いていた。冬用のレザーグローブなのだが、防寒はしてくれず、防風性能しか感じられないのだ。
 けれど、フルではなくジェットヘルを被ってきたことに反省はない。昔から、視界の狭いフルフェイスが嫌いなのだ。ジェットでもシールドがしっかりしているし、バンダナで顔も覆っている。だいたい、大きな事故ならフルもジェットも粉々になる。ならば好きなジェットが正解。と強がっても、この冬空にはやせ我慢にしか映らないが。
 進路変更するために、バックミラーに目をやり、周囲に視線を配る。この動作だけで、ひと仕事だった。
 首も肩も腰も、肘も膝も足首も、可動域が狭まっているのだ。冬用ライディングウェアの下に、さらに着込んだためもあるが、やはり寒気のせいである。履き込んだ革製ブーツも、まるで新品かと思わせる硬さであった。
 この各部の硬化は年齢も関係しているのだろうか。ふと葉山は考えたが、そんな思いはすぐに走行風で吹き飛んだ。三十八歳。すでに青年ではないが、気力体力とも上り坂にある。
 すると道路上の緩やかな勾配で、後輪が小さくスリップした。これもまた、寒さのなせる業である。
 タイヤは、グリップ力が弱いままだった。路面温度が低すぎ、ゴムが暖まらないのである。車体の各可動箇所も、注油してきたのに動きが鈍い。エンジンオイルの粘度も、今ひとつ柔らか味に欠けている気がした。
 それら支障のためもあり、速度計の針は百キロの目盛り前後をウロウロしていた。葉山にとり、この速度域は退屈でありストレスでもある。けれどこの状況では致し方ない。
 すべての憂いから、気を紛らわそうと周囲に目を向けてみる。だが見える景色は、たいして変わらない。雪を被った山々が彼方に現れては、徐々に脇に退き、視界から消えてゆく。するとまた新たな雪山が出現する。そんな繰り返しであった。
 唯一喜ばしいことは、年の暮れにしては道が混んでいないことだ。といって、空いているというほどでもないが。
 ともかくあと何時間、こうしていればよいのだろう。葉山は慎重に車体をコントロールしながら、車の間を縫うように走り続けた。
 追い抜く家族連れの車内からは、時折、子供たちから手を振られた。だがほとんどは、呆れ顔をした大人たちの視線がこちらに向けられた。
「そりゃあまあ、呆れるわなあ……」
 葉山が、凍てついた唇から言葉を吐く。途端にシールドが白く曇る。すぐに視界は晴れたが、気をつけなければ、と葉山が思う。冬場の吐息にはコツがいるのだ。
 道路脇に、電光の温度表示板が現れた。どうだとでもいうように、現在温度をでかでかと表示している。「1度」。といって、バイク乗りには額面通りに当てはまらない。寒風を切り裂いて走る乗手には、体感的にはマイナス10度にも、それ以上にも達するのだ。
 冷気による痺れが全身で痛みとなり、そして無痛となった。筋肉の硬直を示す、まずいサインである。葉山は、現れたサービスエリアにウインカーを出した。ボタンを操作するこの簡単な動作でさえ、かじかんだ指ではハンマーを振るうような作業だった。

 サービスエリアの駐輪場でバイクを降り、グローブを外しエンジンに素手を近づける。なんと、まったく熱くない。といって触ってみるほど、脳みそまで麻痺していないが。
「どこまでですか?」
 背後から、温もりのある声がした。振り向くと、そこには初老の男性が、笑みを浮かべて立っている。その、嫌みも好奇な目も持っていない声の主に、葉山は硬直した口の筋肉を動かした。
「ここからまだ、数百キロあります」
 やはり、思うように顎が動かない。だがそれは、寒さだけが原因ではない気がした。
「帰省ですか?」
 男性は、なおも訊いてきた。葉山は顎を何度か動かしてやわらげ、割れかけた唇と乾いた舌の上に言葉を載せた。
「いや、旅行です。友人たちに会いに……」
 語尾が弱まったのが自分でもわかった。これは確実に、寒さは関係していない。
「そうですか。じつは私の息子もバイクに乗っているので、つい声をかけてしまいました……。では、お気をつけて」
 寒さで小刻みに震えているこちらを気遣ったのだろう。話し足りないという表情を見せ、男性は立ち去った。しかし――。
「旅行です、か」
 嘘ではない。古い友人たちに会うために、関東から出発したのだ。だがその目的地は、生まれ育った故郷である。なので「帰省です」と返答したほうが素直だし正しい。そして、久し振りに級友たちに会いに、と付け足せば、もっと正確だし会話も和やかになっただろう。けれど葉山にとり、それらの言葉はしっくりこない。そんな、心が弾むツーリングでは決してないのだから。
 葉山は、灰色の冬空を見上げた。
 雲間はどこにもなく、陽射しはひと筋も見あたらなかった。



 葉山真治は、悪童であった。
 小学生の中ほどから粗暴になり、中学に入り飲酒喫煙をはじめ、間もなく夜の街を徘徊するようになった。上級生や高校生相手に、派手な喧嘩も繰り返していた。
 家庭環境が複雑だったという事情はある。また居住する地が、まわりから蔑まれていたということも要因であろう。だが、それら鬱積を社会にぶつけているというのでもなかった。ならばその衝動の理由はというと、自分でも説明できない。苛立ちは増し、粗暴さはエスカレートした。
 すると「焦るな、ゆっくり考えろ」と言ってくれる人物が現れた。いや、近所なので以前から見知っている。けれど会話するようになったのはグレだしてからだった。やつなみ、八波という名字の、両手の小指のない角刈りの老人である。皆は「ヤッパさん」と呼んでいた。
 ヤッパさんは、引退した侠客であった。葉山の苛立ちや葛藤に寄り添ってくれ、行き過ぎた行動をたしなめ、是正してくれた。葉山も老人の持つ独自の哲学を多く学んだ。「法より道理だ」「独りを磨け」などの教えは、意味がわからないまでも、彼の心に深く刻まれた。それもあってか、集団より単独を好むようになった。勉強机の前に座り、思索するようにもなった。
 とはいえ勉強には興味が向かない。当然、成績も悪い。「なにかありそう」と感じ高校進学を希望したが、彼の学力で入れるのは一校だけ。落ちこぼれの受け皿として有名だった、県内のワルたちが集まる工業高校であった。
 そこで彼は、新しいワル仲間を得た。そうして不行状がまた始まったのである。
 しかし葉山と彼らのワルは、不良のワルではあったが、非行のワルではなかった。
 飲酒喫煙はするが、シンナーや薬物には手を出さなかった。そして、やっている奴やグループとは付き合わなかった。ケンカはそれぞれ吹っかけられていたが、仲間の助けを借りるということはしないし、そんなことは恥だと感じていた。そのくせ、非力な知り合いがやられていたりすると、すっ飛んでいき助勢する。恐喝なども絶対にしないし、脅している奴を見かけたら放っておかない。個々で解決できない場合は力を合わせるが、基本、皆一匹狼。それぞれ個性が強かったが、一本筋が通った男たちだった。なので数こそ力だと、いつも徒党を組んでいた他のグループからは、とても不思議がられていたものである。
 ともあれ、葉山はこの仲間たちとの出会いに、運命のようなものを感じた。たった数人ではあるが、同じ匂いを持つ者たちと巡り会えたのだ。
 メンバーは、体格も性格も、育ちも女性の好みもまるで違っていた。けれどひとつだけ、共通した趣味があった。バイクである。いや、バイクが彼らを結びつけたのかも知れなかった。
 もちろん、高校生の身で新車や大型車は買えない。だいたい、メンバー揃って貧しい。集まってする話こそ「今度のホンダのナナハンさぁ」だったが、実際に跨っているのは中古の50㏄だ。しかし、彼らにとってはそれで充分だった。簡単に手に入らないからこそ、胸が躍るのだ。それに目の前の「羽根の生えた自転車」を、限界まで乗りこなすことに喜びを感じていたのだ。「より速く」を目指し、皆でよくエンジンをバラし研究したものだった。
 葉山もそうだった。アルバイトをし、中古の原付を手に入れ、改造して乗りまわしていた。だが、どうしても大型車に乗りたくなり、バイトをさらに増やした。
 そして葉山のこだわりは、「より速く」から「より遠く」へと徐々に変わった。「ここではないどこか」を、夢想するようになったのだ。
「それだよ、おまえさんのイライラは」
 ヤッパさんが、角刈りの白髪頭を掻きながら指摘する。葉山は、今まで抱えていた鬱積の正体を、とうとう突き止めた。古い慣習と狭い土地に縛られ、出口を探して苛立っていたのだ。ならば高校の卒業は、外界に出るいい機会である。
 仲間たちも、葉山のその思いに気づいていた。なので就職の時期が訪れ、葉山だけが県外で働くと決まった時も、仲間の誰もそう驚きはしなかった。

 卒業式が終わり、数日後。仲間たちは、それぞれが社会に出る準備で忙しそうにしていた。そんな中、葉山はひとり、中古のナナハンで実家を後にした。
 この出立を、葉山は仲間たちに黙っていた。見送りになんか来られたら、どうしていいかわからない。そう思ったからである。
 しかし、仲間たちは国道で待っていてくれた。よく夜中に集まっていた、街外れのドライブインの駐車場で。
 葉山は、手を振っている仲間たちを見つけた。だが、ブレーキはかけない。仲間たちも、無理に止めようとはしなかった。彼らもまた、友との別れに不慣れだったのである。
 バックミラーには、いつまでも仲間たちが写っていた。だが、やがてぼやけて見えなくなった。見えない区切りが、ついたように感じられた。
 そして、二十年。今、葉山は仲間たちに会いに、北の地に向かっている。
 この二十年、一度も会わなかったわけではない。実家にはほとんど帰っていないが、旅の途中で仲間を訪ねることはあった。それに仲間の結婚式には必ず顔を出した。しかし、あの頃のメンバー全員が揃うということは、一度もなかった。
 それは当然だ。あの頃とは違う。皆、忙しい大人になったのだ。それはたまにかける電話のたびに、ひしひしと感じられた。それぞれが社会の一員となり、家庭を持ち、責任を担った。同時に、余計なものをひとつずつ捨てていった。今では、バイクに乗っているのは葉山だけである。しかし、それが大人としてまっとうだと葉山は思う。そして、なぜ自分だけ、そういう大人になれなかったのかと、疑問を持つようになった。
 しょうが合い仕事こそ辞めずに続けているが、出世欲など欠片もない。暇ができるとバイクで旅をし、野宿しながら独りで酒を飲む。家庭を持つなども考えたことがない。こちらからは仕掛けないが、売られたケンカは必ず買う。集団より個を、いや孤を好み、いつだって一匹狼。これでは、あの頃と何も変わっていないではないか。つまり、当時から成長していない。それに比べて仲間たちは――。
 そんな悶々とした思案酒が、最近多くなってきていた。



「降るかもなあ……」
 葉山は、前方の空を気にしながら走っていた。垂れこめた灰色の雲が、どんどん重みを増しているのだ。すると、その時だった。バックミラーの奥で、ヘッドライトが瞬きをしたのだ。バイクである。しかも、かなり飛ばしている。
「……いいねえ」
 葉山の中の、白く凍えていたなにかに赤みが差す。笑みで頬肉が盛り上がったのが、バンダナのきつさでわかった。
 瞬く間に葉山の後ろについたのは、ヤマハのバイクだった。排気量は、たしか1300。葉山の愛車は、カワサキの900である。最高速では負けるが、加速では引けをとらないはずであった。
 ヤマハが追い越し車線に移り、隣に並んだ。友好的なモーションは何もない。むしろ逆の、威圧する気配がある。するとやはり、挑発するかのように空ぶかししてきた。そして左ウインカーを出してくる。「どけ」というサインだ。そんなことをしなくても、道は空いている。
「やっが……」
 葉山の口から東北弁が出た。「やるか」という意味だが、この言葉を吐いた時には、すでに行動することは決まっている。悪童の頃からの、無意識の口癖であった。
 胸の中で、金属音が鳴った。チャンネルを替えたような、ソケットレンチのコマを回したような響きである。葉山の中の、他人には説明し難い部屋の扉が開きはじめた。
 葉山が引鉄を引くようにギアを落とし、二台のバトルが始まった。
 葉山は、怒涛の勢いでガスをキャブに流し込んだ。パイロンと化した車をよけ、右に左に踊りだす。この世界にはもう、ヤマハしかいない。おそらく相手もそう。冷たさが増しているはずなのに、体が火照りだした。
 コンテナを積んだトレーラーを軽バンのように追い抜いた瞬間、葉山はスピードメーターに目をやった。時速200キロ超。ヤマハはすぐ後ろにいる。危機に対する防衛本能なのだろうか、心拍数が速まる。行く手のコーナーが、ぶつかる勢いで迫ってくる。速度を殺さなければ、確実に速度に殺される。心臓の音がやかましい。とにかく、どちらが正気に戻るかで勝負が決まる。ヤマハのタイヤが鳴いた。その麗しいスキッド音に、葉山の狂気が微笑んだ。そうして葉山も制動をかけるが、思うように減速してくれない。あきらかにオーバースピードでコーナーに突っ込んでゆく。フレームがよじれ、ハンドルも言うことを聞かない。石の壁が目の前に大写しになった。同じ馬鹿が前にもいたのだろう、壁にはえぐれた傷や付着した塗装痕が見えた。今度は俺かと覚悟を決めた時、ようやく制動がかかる。バランスを取りながら車体を押さえつけ、遠心力に逆らう。そのまま石壁の曲面に沿い、そっくりの弧を描く。もちろん離れたいが、壁は強力な磁石となっていた。永遠のような円弧が続く。
 すると死神のような磁力が、一瞬弱まった。その瞬間、葉山は全体重を内側に移した。ダメ元で舵を切り、アクセルを全開にする。呪縛から解放されたように、葉山はどうにか直線運動へと戻った。
 ヤマハは前方ですでに点となり、消えかかっていた。
 動悸が続き、全身のほてりが冷めない。心もどこか、あの世にでもいるように浮ついている。無理はない。たった今、「入り口」を覗いたばかりなのだから。
 葉山は苦笑した。
「こんなことばっかしてるガキに、大人は無理か」



 給油のため寄ったパーキングで、葉山は今日始めての食事を摂ることにした。といっても、施設内のフードコートに足を運ぶわけではない。そんな和やかな場所は大の苦手なのだ。
 売店でパンと缶コーヒーを買い、粗末な、けれど暖かい休憩所のベンチで葉山は食べ始めた。
「すごい走りをするなあ、アンチャン」
 背後から声がした。てっきり、先程のヤマハの奴かと思った。けれど振り向くと、ウエアが違う。薄汚れた作業着の上に、くたびれたダウンジャケットを羽織った、五十がらみの男である。小太りで白髪交じりの長髪を後ろで束ね、これも白髪交じりの髭を長く生やしている。手には緑茶の缶飲料。ともかく、この時期をバイクで駆ける格好ではない。
「てっきり、カーブの壁に貼りつくと思ったんだがな。トマトみたいにグシャッと。よく切り抜けたもんだ」
 酒焼けしたような声で男が言う。葉山はムッとした。どうやら先ほどの様子を見ていたらしい。葉山はこのオヤジを無視することにした。自制心のなさからくる衝動が、また頭をもたげるような気がしたからだ。けれどそのオヤジは、葉山の隣に強引に座った。葉山が横を向き、パンをほうばる。
「でも、この時期は最高だよな」
 オヤジが言う。
「なんといっても、バイクが少ない。走ってるのはオレらみたいなのばかりだから、すぐに仲良くなれる」
 葉山のパンを持つ手が宙で止まった。
「オレら?」
 葉山はオヤジを見た。オヤジは小首を傾げた。
「なんだ、『オレら』が気に入らないか。じゃあ、『わたくしたち』でどうだ? アッハッハッ」
 オヤジは愉快そうに笑った。バイク乗りには見えないし、だいたいどこが面白いのかわからない。だが邪気のない人懐こそうなその笑顔に、葉山は妙に惹きつけられた。

 オヤジが一方的に喋り始めた。なんとこの男は、バイク乗りだった。けれど妙なオヤジである。一週間前の大雪が降った日、この先にある山間の村に向かって、関東からバイクで出かけたというのだ。けれど山道で転倒し、村の手前でバイクは不動。修理しているうちに雪が降りだし、寒さで体温も低下してゆき、にっちもさっちもいかなくなる。たまたま通りかかった車に助けられ、村に運ばれ遭難せずに済んだと話す。それで放置してきたそのバイクを、これから軽トラで回収しに行くというのだ。
 葉山は聞いていて呆れた。
「あんな大雪の日にツーリング、っスか」
 半ば馬鹿にし、砕けた口調で訊いてみる。オヤジは、まるで熱燗でも飲むように、ちびちびと缶飲料を口に運んでいた。
「行くときゃ、降ってなかったさ。まあ、雪になることはわかってたがな。でもああいう日でないと、お目にかかれないんだ。大雪の降る直前でないとな。それで向かったというわけだ」
 雪の降る前にしか見られない? それを見るためにわざわざ?
「それってなんスか? 植物っスか? 雪中花とかいうヤツ?」
 すっかり話に引き込まれた葉山が、知識のないままに訊く。オヤジは無言で首を振った。葉山は腕を組み考えた。いつだかテレビで観た、北欧のドキュメンタリー番組が頭に浮かぶ。本州では無理だろうと思いながらも、口にしてみる。
「雪ウサギとかオーロラとか?」
 やはり熱燗で体が温まったかのように、オヤジが満足げに宙に息を吐いた。白髪交じりの髭面がこちらに向く。
「獣でも自然現象でもない。虫だ」
「ムシ?」
「ああ。雪虫」
「ユキムシ?」
 そうだ、と節くれた指で顔を撫でながらオヤジが言う。
「雪の降る直前に現れる、小さな白い羽虫だ。昆虫学的には、アブラムシに属するらしい。その村では、雪蛍とも呼ばれているな」
 葉山は首を傾げた。
「そんな虫、聞いたことがないなあ」
「北海道なら、普通に見ることができるぞ。東北でもな。オレも何度か見た。だがその村に出る雪虫は、それら雪虫とは違うらしいんだ」
「別の雪虫ってこと?」
「そう、別種の雪虫。というか、そもそも別の生き物かもしれん。雪虫とは違う特徴があるんだ」
「違う特徴?」
「蛍のように、発光しながら舞うらしいんだよ」
「それで『雪蛍』?」
 オヤジは頷いた。
「それをぜひ、自分の目で見たくてな。それで毎年、大雪になりそうな日を狙って出かけているというわけだ」
「でも、なんでバイクで?」
「なんでだと?」
 呆れた質問だとでもいう顔をし、オヤジは葉山を見た。
「そんなの、バイクが好きだからに決まっているだろう」
 葉山はオヤジをじっと見た。説明し難い、自分と同種の匂いを感じたのである。空咳をひとつし、話を戻す。
「雪蛍。そんな不思議な虫がいるんだ……。でも、やっぱり初耳だなあ。そんな虫がいるなんて。これでも結構、全国を走ってるんだけど」
「そりゃあ、そうだろうな」
 ごつい両手で缶を握り、オヤジは言った。
「その村でも、もう何年も、見たって話がないんだ」
「それは、自然環境が変わったとかで?」
「いや。過疎化が進んで、子供のいる家がなくなったせいだ」
 言っている意味がわからない。葉山は身を乗り出した。
「それって、どういうこと?」
「その村の伝承によると、大人には見えないらしいんだよ。雪蛍は。だからガキの頃に見た、子供たちが見たって話ばかりなんだ」
 葉山は再び腕を組んだ。
「……なんだか、おとぎ話みたいだ。あ、だったら見るのは無理っしょ。オヤジさんはもうガキじゃないんだし」
 オヤジは静かに笑った。
「育ちすぎただけだ。たぶん、アンチャンと一緒だよ」
 葉山は無言となった。

「じゃあ、気をつけてな。壁に」
 白い息を吐き、オヤジがスズキの軽トラ、キャリイに乗り込んだ。四駆モデルである。しかし驚いた。車体に有名な大学の校名がペイントされていたのだ。それで訊くと、なんとこのオヤジは、大学で文化人類学を教えている教授だったのである。とはいえ葉山には、単なるバイク好きのオヤジである。
 オヤジがエンジンをかけ車窓を開ける。といって、こちらに挨拶するためでないことはすぐにわかった。なにか臭いを嗅ぐような仕草をしたのだ。このキャリイは2サイクル車である。おそらく排気の匂いから、混合の具合を見ているのだろう。
 すると荷台から、鈴虫のような音が聴こえてきた。見ればラダーやワイヤー、レバーホイストが積んである。それらが擦れているのだ。バイク屋、いや工学部あたりから集めてきたのかもしれない。
 オヤジは上空に目をやり、葉山に目を戻した。
「オレの予感だがな……」
 白い息をオヤジが吹きかけてきた。
「もしかしたら今日、見れるかもしれない。舞う準備をしているように感じるんだよ」
「雪蛍が?」
 ああ、と再び空を仰いだオヤジの視線を葉山も辿る。相変わらずの曇り空であり、舞うのであれば雪以外にないだろう。
 すると、いたずら心が湧いた。オヤジにニヤリと笑う。
「さっきの話だけど、見れたとしたら、オヤジさんもガキだってことになるんだよね?」
 オヤジがニヤリと笑った。そして、あのな、と諭すような声で言う。
「ガキには三種類いるんだよ」
 訝る葉山に、オヤジは続けた。
「脱皮しようと、もがいている奴。あと、このままでいいと受け入れている奴」
「もうひとつは?」
「気づいてない奴。これが一番多くて厄介だな」
 面白い説である。となると、俺はもがいている奴か。そしてこのオヤジは、受け入れている奴に違いない。
 さて、とオヤジがシートベルトをセットした。
「どこに向かうか知らないが、いい旅をな、アンチャン」
「そっちもね。サルベージ、うまくいくといいね」
 軽トラックが、ゆっくりと走り出した。葉山が、視界から消えるまで見送る。2サイクル独特の排気煙の残り香が、いつまでも葉山の周りに漂っていた。
 葉山が、相変わらずの曇天を仰ぐ。寒い。見えないだけで、冷たくて細かいなにかが舞っているような気がする。
「……雪蛍か」
 駐輪場に向かい、葉山はカワサキに跨った。セルを回し、身支度を整える。外してしまっていた腕時計をポケットから取り出し、文字盤を覗く。別に急ぐ旅ではないが、雪の中を走ることは避けたい。
 シリンダーヘッドに載せておいた革のグローブをつかみだし、手に嵌める。束の間だが、幸せな気分になれる。
 太い排気音が葉山を包み、本線へと運んだ。



 ゆる路上に再び身を置きながら、葉山は数週間前の電話の遣り取りを思い出していた。
 仲間のひとりで、今は結婚して子供もでき、一戸建ても持った奴である。地元の大手企業に勤め、業績もよく人望もあり、将来を嘱望されてもいる。葉山の現状とは、まったく逆であった。
「やめとけよ、天気悪そうだし。だいたい寒いだろう。新幹線にしとけって」
「いや、バイクで帰る」
「そんなのにいつまで乗ってるんだよ。無理しないで電車で来いっての」
「無理なんかしてない。ただあそこは、バイクでしか帰れないところなんだ。俺にとってはな」
「……そりゃあ、ここでバイクを乗りまわしてたんだ。それでバイクでこの土地を出た。だから、なんとなく気持ちはわかる。でも、カッコつけ過ぎじゃないのか? バイクで凱旋だなんて。それとも、意地みたいなもんなのか?」
「意地なんかじゃない。俺に合った移動手段、というだけだ。それと、確認もできるしな」
「確認?」
「うん。うまく言えないが、俺が俺であることを確かめることができるんだ、バイクは」
「わからないな」
「ああ。わかってくれなくていい。俺個人の問題だから」
「……いや、ホントはなんとなくわかる。正直、うらやましい気もする。妬みすら感じるよ」
「うらやましい? 妬む? なんだそれ?」
「時々、こっちに残った仲間たちと会って飲むんだ。すると必ず、おまえの話が出る。あの時のまんまだよなって。でも、こっちに残ったオレたちには、もう無理なんだ。悪いけどな」
「おい、俺はなにもおまえらを責めてなんかいないぞ。だいたい、俺なんかをうらやんでどうする? 俺はいつまでたってもガキで、成長できずにいるんだ。そんな自分にうんざりして……なんか、話がずれてきたな。とにかくその日にバイクで帰るから。着いたら連絡するよ。じゃあな」
 葉山は、うろたえ気味で電話を切った。そして、不思議な感覚にとらわれたことを覚えている。
 凍てつく息吹の中で、再び思う。
 なぜ、こんな生き方をうらやましがるのだろう? もう四十近いというのに、財産と呼べるものが何もない。仕事は変わっていないが、いつも上司や先輩と衝突している。そのせいだろう、職級も上がっていない。「人間嫌い」「へそ曲がり」「孤独癖」と同僚から揶揄され陰口をたたかれているし、「協調性に欠ける」と書かれた人事考課表も覗き見た。自分としては、曲げられないもの、譲れないものが他人より多く、個人で成し遂げようという気持ちが強いだけだと分析しているのだが。
 たしかに、少し変わっていることは自覚している。飲み歩くのは独りだし、飲み屋でのトラブルなど、しょっちゅうである。まれに物好きな女性が現れ付き合いだすが、その物好きさえ離れてゆく。
 唯一仲良くなれるのは、バイク仲間。そして唯一心を解放できるのが、バイクの上。けれど性分は変わらない。行きつけのバイク屋の常連でも気に入らない奴とは口もきかないし、路上で悪さを仕掛けられたら、それが誰であっても容赦はしない。徹底的に追いまわし、手加減なしの制裁を加えるのだ。ヤクザの組事務所に逃げ込んだ暴走族を表まで引きずり出し、そこの若頭が仲立ちに入るまで折檻し続けたこともあった。
 そんな悪童のままでいる自分を、このままではいけない、と思うことはある。成長しなくては、と。でも「成長」がわからない。本人は成長してきたつもりなのだから。
 たとえば「座れ」と押さえつけられると、いつでも立ち上がってきた。それを他人は「反抗」や「反発」と見たが、自分では「成長」だと信じてきたのだ。まわりが言えないことを言い、やれないことをやるのだから。しかしその結果が、今の自分の姿なのだ。結婚もできず、安アパートに住み、いつまでも下働きのような仕事で油まみれになっている。稼いだ金はほとんどバイクと酒に消えるので、貯蓄もない。
 でも困ったことに、そんな生活や日常が不自由か、気性や生き方が厄介かというと、そうとも思えない。精神的には「豊か」になっている感じさえするのだ。
 じゃあ、これでいいのか?
 いいはずがないだろう。
 ならばどうすれば……。
 葉山は馬鹿馬鹿しくなり、考えるのを止めた。どうせいつもと同じで、答えが出るとは思えない。
 思索の世界から現実に戻ったためか、それともさらに北進したためか、背筋が一気に冷たくなった。いや、暗雲の向こうの太陽が沈みかけているせいだろう。気づけば前方を走るテールライトに輪郭ができている。
 すると、道が徐々に混みだした。車両のヘッドライトが作る光のクッションが、行く手で伸び縮みしているのだ。ともあれ、ここにきての、ようやくの帰省ラッシュである。いや、まったく嬉しくないが。
 葉山がハイビームにし、速度を落とす。そして緩やかな流れに合わせながらも、機を見て車間を縫い進む。
 やがて車の流れがまったりとし、しまいには完全に止まってしまった。高速道路が、長い縦列駐車場と化したのだ。葉山は舌打ちした。車間を縫って進みやすい状況に見えるが、実際は逆である。車線を変えようとハンドルをいきなり切ったり、運転を替わるためかドアがふいに開いたりすることがあるのだ。
 すると、行く手にICが現れた。こんな低速道路に、通行料を払う価値はない。
 葉山は料金所に降り、寂れた国道に進路を変えた。



 夕刻の国道を葉山が走る。
 それはいつ来ても変わらない、まるで時を止めたような国道であった。変化を拒んでいるというより、利用価値がなく見捨てられているといった風情である。
 街路灯はあるものの、照らし出すものはそうはない。農地と林、何に使われているのかわからない土地、そして思い出したように現れる家屋である。
 里山らしい黒影の麓に、人家らしき灯りがポツリと見えた。儚げではあるが、とても優しい橙色だいだいいろである。葉山が速度を落とし、その家の団欒だんらんを想像してみる。
 これでどうにか年を越せそうだと夫が笑い、そうねと妻も笑んでいる。そのかたわらには、リンゴのような頬をした幼児。今年こそ除夜の鐘を最後まで聞くぞと、密かに胸に秘めている。そして元日に貰えるお年玉に胸を躍らせている。よい子であり、よき家庭である。といって、決して裕福な一家ではない。だが、すべてが明るく暖かく、慈しみに溢れている。
 そんな光景を頭に浮かべたためだろう。凍えていた胸が、少しだけ、ほかほかとした。けれど同時に不思議がる。これは遠い記憶なのか。それとも、そんな家庭を持ちたがっているという隠れた願望なのか。いや、旅人の感傷に違いない。葉山は無理やり、そう結論づけた。
 ともあれ、あと百キロもない。すると拡張されたらしく、道が片側二車線となった。だが、相変わらず交通量は少ない。
 その時、忙しなく上下する光源が、行く手の脇道を移動しているのが見えた。葉山がその交差点を通過すると、タイヤを鳴らしながらその車が合流してきた。葉山がミラーで確認する。ヘッドライトに落ち着きがないのは、サスペンションを替えているせいだろう。耳障りな排気音は、抜けのよいマフラーにしているため。とにかく改造車であり、暴走族仕様である。
 うがいでもしているのかと思わせる品のない排気音が、葉山の真後ろにつく。ナンバーでよそ者だと確認したためであろう、加速し、追い越し車線に並んできた。助手席のスモークの窓が開く。女性というより小娘が、コーラの缶を鼻先にあて、だらしなく笑っていた。シンナーである。
 運転席の、これも男性というより青年、いや少年が、小娘越しにこちらに首を伸ばしてきた。
「カッコいいない。横浜がら来たのがい。寒いばい、キンタマ凍ってねえがい」
 懐かしい方言の響きだが、少しも美しくない。頭上を流れる街路灯が、黄ばんだ色で少年の顔を舐める。少年は、前歯が抜けていた。相当シンナーを食ってきたに違いない。小娘が黄色い声を上げて笑う。見れば車体色もイエローだ。
「この、カラシ色どもが……」
 葉山は呆れ声でつぶやいた。前方に直り、無視をする。
「ここいら走んだったら、挨拶ぐれえしてくんねえとない」
 前を見つめ、葉山は深呼吸した。冷気がありがたい。
「あらら、シカトがい。アタマくんない、オメちょっと止まってみろ」
 葉山は、なおも無視を続けた。
 小娘のバカ笑いが聞こえたと同時に、車は強引に葉山の前に割り込んだ。なぜにこうも絡まれやすいのだ、俺は。葉山は、げんなりとした。
 すると二車線いっぱいを使い、車が蛇行を始めた。そして急ブレーキをかけ、追突させようとしてきた。
 このあたりでは、バイクはこんな小僧に、されるがままなのだろうか。葉山は、無性に腹が立ってきた。またしても、例の扉が開こうとしている。
「やっが……」
 何度目かの急制動の煽りをくった時、とうとう葉山のドアが開いた。左のバックミラーに手をかけ、力を込める。そうして回して外すと、そのミラーをブーツに差した。ギアを二段落とす。
 タイミングをはかり、猛然と加速し、車の運転席側に並ぶ。窓が開いた。少年が、なんだよ、というような顔をした。
「よう」
 葉山が笑いながら言い、ブーツから取り出したミラーで、車のサイドミラーを水平に打ちすえた。パキッという気持ちのよい音とともに、キラキラとガラス片が闇に舞い、運転席へと吸い込まれてゆく。少年のあげた悲鳴を無視し、左脚でドアを蹴る。そして少年の顔にめがけ、ミラーを放った。
 ブレーキ音とともに、車は大きく道を逸れた。かたわらの空き地に、よろよろと向かってゆく。車はなにかに乗り上げたらしく、ヘッドライトの光が虚しく夜空を照らしだした。
 葉山も路肩に止まった。しかし、まだ許していない。というより、まだ始まりに過ぎない。こうなると止まらない男なのである。
 葉山は空き地に向けて舵を切った。

 そこはどうやら、どこかの土建業者の残土置き場のようであった。小山の黒い影がいくつかあり、隅に重機が置いてある。黄色い族車は、手前の低い土くれの上に乗り上げていた。葉山がバイクでそばまで進む。あたりを見まわしながら止めて降り、ゆっくりと車に歩む。暗いが、道路上の街路灯が、明かりをおすそ分けしてくれていた。ヘルメットはいつものように、被ったままである。もちろん武具と化している。
 葉山が運転席に夜目を凝らす。衝撃が足りなかったのか仕様なのか、優しいエアバッグの花は咲いてくれなかったようである。ヘルメットの首をあたりに巡らす。
 葉山は探していたものを見つけて近づき、両手で抱えあげた。石塊である。それを運び、頭上に掲げ、躊躇なくフロントガラスにぶち当てた。前面が、昼間うんざりするほど見た、曇り空となった。
 葉山は開いていた車窓から、車内を覗いた。助手席の小娘は呆然とし、状況を理解できていない様子である。というより、完全にラリっている。この現状も夢の中だろう。だが運転席の、ガラス片でキラキラしている少年は、よく事態を認識しているらしい。ガタガタと震えているのだ。
 無言で車体を一周しながら、葉山は蹴りを入れた。一発、二発、三発。先端が鉄でガードされたブーツであり、簡単にボディが凹む。なにかの電子音が車内で鳴りだしたが、六発目で止んだ。運転席に戻り、ドアを開ける。「ヒッ」という少年の短い悲鳴があがったが、やはり葉山は無言のままである。こんな時の葉山は、いつもそうだった。すべての感情は、目から吐き出されるのだ。その眼光を運転者に向ける。やはり免許取り立てであろう、幼い顔つきをしていた。
「な、やめっぺ」
 少年が両手で顔をガードするような仕草をし、怯えた声で言ってきた。葉山は素早くエンジンキーを抜き取った。
「や、やめっぺって」
 懇願する様子の少年を、葉山は睨みつけた。罵りや呪いの言葉を、雄弁に目で語る。その異様な圧を感じ取ったのか、「やめっぺ、やめっぺ」と、少年が防御するように喋り続ける。
「オ、オレが悪かった、すみません、このとおりですう」
 少年がペコペコと頭を下げる。謝るくらいなら、最初から仕掛けなければよい。ともかく、この程度では気が収まらない。葉山は少年を見据えた。
「……なにが悪かったんだ? 言ってみろ」
 ようやくの第一声である。そして穏やかな声音である。だがそれは、さらに少年を怯えさせたようだった。寒天のようなプルプルとした動きが加わったのだ。葉山が続ける。
「寒いから、短くまとめて言ってくれ。早くしろ」
 少年の情けない顔が、ニワトリの頭のように上下左右に動く。必死で思考し始めたのだろう。こいつは学校の試験でもそうだったんだろうなと思った時、そのニワトリ頭が止まった。
「……えーと。オレが、おとなげなかったんですう」
 それは誰が見ても、取り繕った言動だった。けれど「おとなげない」。思ってもいなかった言葉の出現である。するとパーキングで出会った、あのオヤジの顏が頭に浮かんだ。
 葉山は少年の襟首をつかみ、ぐいっと引き寄せた。
「おまえか? 気づいていない奴、てのは?」
 苛立ちや怒りが、瞬時に消えた。そして猛烈に可笑しくなる。堪えきれず、葉山は声を上げて笑い出した。少年がキョトンとしている。ひとしきり笑い、葉山は少年に向いた。
「これで三人揃った。ミラー返してくれよ。まだ使えるかもしれねえ」
 少年は、足元に転がっていたミラーに手を伸ばした。そして恐る恐るといった態で葉山に差し出し、さっと手で頭部を覆った。殴られると思ったのだろう。「やめっぺって」との言葉がまたもや出る。
「か、金なら、ちっとはあんだ。あ、この女、好きにしていいがら」
 少年が、助手席のラリった小娘の肩をつかむ。葉山は心底呆れた。いや、哀れんだ。
「おまえさあ。それって、男としてどうなのよ? 大人だガキだは別にしてよ」
 少年は押し黙った。なるほどな、と葉山が思う。
「たしかに、一番厄介だわ。とにかく今日はもういい。気をつけておうちに帰りなさい」
 葉山は車から離れた。バックミラーはベコベコではあったが、幸い鏡面にワレはない。
 ミラーをハンドルに仮固定し、バイクに跨がる。エンジンを始動させる。
 振り向くと、少年が気が抜けたようにこちらを窺っていた。葉山がギアを入れ、バイクでそろそろと少年に近寄る。少年の顔が、ビームの中で引きつっていた。
「おい、ガキ」
「は、はいっ」
「今年は、除夜の鐘を最後まで聞くんだぞ」
「へ?」
「『へ』じゃねえんだよ。おまえは、まずはよい子を目指すんだ。すべてはそこからだ」
 当然だが、少年は首を傾げた。「おまえなあ」と言いながら、葉山はバイクを降りる素振りをした。
「わ、わかりましたっ、除夜の鐘を最後まで聞きますっ」
 よし、と葉山は頷いた。
「じゃあ、早いがお年玉だ」
 葉山は、車のキーを少年に放った。



 信号の数が徐々に増え、左右から流入する車の量も少しずつ増してきた。距離計から見ても、目的地に近づいているサインである。
 たぶんあと数キロも走れば、あの場所が見えてくる。街外れに位置する、だだっ広い駐車場と、のっぺりとした平屋の建物。敷地内に建つ塔には、「いらっしゃいませ」との縦長の看板。夜はライトで照らされ、遠くからの目印ともなっていた。そう。二十年前、仲間たちが見送ってくれた、あのドライブインである。ただし、まだあればの話だが。
 しかし俺は、あれからなにが変わったのだろう――。
 襟元から忍び込む冷気が悪さをしたのか、またもや胸奥にしまっていた疑問がぶりかえす。もう考えるのはうんざりだが、「スタート地点」が近いためか、その後との対比が見えてくるような気がする。といって、やはり厄介な思索ではあるが。
「……なにも変わっちゃあいねえだろ」
 口のまわりの強張った筋肉をパリパリと砕き、ボソボソと言葉が出る。頭骨に伝わったその響きのためか、脳に明滅するものが現れた。
 その、青白く冷たい光を見つめ、気づく。
 あるではないか。変わったことが。「このままではいけない」と思うようになったことだ。
「でもなあ……」
 でも、今のままでは本当にいけないのだろうか――。
 またもやの堂々巡りに脳がショートしたのか、体が硬直しだした。いや、この寒気のためである。肩や腕、足首の動きが硬くなってきた。手指の感覚もなくなり始めている。このままでは操舵に支障が出て、転倒する恐れがある。
 すると前方に、常夜灯に照らされた空間が見えてきた。幅の広い路側帯である。正式名称は知らないが、路側駐車帯と多くの人が呼ぶ、仮眠やチェーンの脱着に使われている場所である。
 路側駐車帯に向かおうと、葉山は左ウインカーのスイッチを操作した。だが、なぜか点滅しない。理由はすぐにわかった。親指が、かじかんで動かないのだ。
 固まった反対側の手も使い、ようやくウインカーが瞬き始めた。

 もうどれほど経ったであろう。葉山がエンジンのかかったバイクに跨ったまま、路側駐車帯で静止していた。国道をチラリと見ると、走る車が速度を落として通過してゆく。こちらを訝っているのだ。たしかに、傍目からは異様に見えるはず。長くて広い路側帯の中ほどに、ポツンとひとり、おかしな格好で佇んでいるのだから。
 といって、こちらはいたって尋常である。バイクを覆う体勢で、革手袋を嵌めた手を、エンジンに伸ばしているだけなのだ。つまり火鉢を囲むようにし、エンジンから暖を取っているのである。当然、寒いのでヘルメットは被ったままだし、バンダナも外していない。転倒しないよう、サイドスタンドも出している。けれど傍観すれば、寒空の下の気の毒な様子に映るに違いない。
 また車のライトが、国道をゆっくりと通過してゆく。頑張れとの声援のつもりか、それともいい気味だとの嘲笑か、クラクションをひとつ鳴らしていった。
 すると葉山の体がブルッと震えた。ようやく暖まり、全身の強張った筋肉がほぐれてきたのだ。葉山に自嘲気味の笑みが浮かぶ。これではまるで、遭難した登山家が息を吹き返したか、はたまた冷凍食品が電子レンジで解凍したような按配ではないか。
 葉山がゆっくりと上体を起こし、丸めていた背筋を伸ばす。ポキポキという音がし、脊椎に潤滑油が流れ出したことがわかった。ヘルメットごと、首も左右に動かしてみる。こちらからも軽やかな音がし、可動範囲が広まったことが実感できた。すると後方から、トラックであろう車両が向かってくるのが視界に入る。そのまま見ていると、左ウインカーが明滅しだした。
 葉山がミラーにて観察する。やはりトラックであり、ロングボディが路側駐車帯にそろそろと入ってきた。そうして葉山のバイクの後方で停まったが、なぜかヘッドライトを消さない。しかもハイビームである。眩しくてキャビン内はわからないが、ドライバーが身を乗り出して、こちらを窺っているように感じられた。
 トラックが動き出した。ゆっくりと葉山の脇を通過する。11トンであろう大型保冷車である。派手な装飾はなく、側面のパネルには、「ミナト運輸」との表記だけ。同じ横浜ナンバーであったが、プレートは自家用登録の白である。
 トラックが葉山の前方で停車した。ぼんやりと眺めていると、運転席のドアが開いた。中肉中背のシルエットが降車し、こちらに歩いてくる。
 葉山は、動きのよくなった首を傾げた。
「……俺、なにかやったか?」
 常夜灯の下で、ドライバーの姿が明らかになった。六十前後と思われる、強面で角刈りの男性である。といって威圧する様子は見られず、攻撃的な雰囲気もまとっていない。葉山はとりあえずエンジンを切り、顔のバンダナを下げた。
 ほとんど白髪の角刈りドライバーが、葉山のそばまでやってきた。葉山はハッとした。雰囲気が、悪童の頃に世話になった「ヤッパさん」に似ていたのだ。もちろん当人のはずはない。人伝で、とうの昔に死んだことを聞いているのだから。それに生きていたら、すでに八十は過ぎている。
 ドライバーがポケットに突っ込んでいた手を出し、なにかを差し出してきた。缶コーヒーである。もちろん、小指はあった。
「やるよ。カイロ代わりだ」
 白い息を吐きながら、ドライバーは言った。人相はよくないが、声音に優しさがある。葉山は躊躇ったが、礼を言い受け取った。グローブを外してシリンダーヘッドの上に載せ、缶コーヒーを素手で握る。たしかにカイロのように温かい。その皮膚の温もりが、腕を伝い胸に沁みてゆく。そのためもあろう、この葉山にしては珍しく、殊勝な心持ちとなった。ドライバーも武骨ながら、真摯な、そしてどこか照れた様子を見せてきた。
 その角刈り頭がバイクを眺め、葉山の顔に目を戻した。
「じつは、わしも長い間乗っててな。この時期はきついよな」
 葉山は、思わぬ場所で理解者に出会えたような気がし、さらに胸の中が暖まった。コーヒー缶の温もりが、増したような気もする。ヤッパさんと初めて会話した時も、たしかこんな感じであった。
「で、兄さん。ここまで、何キロくらいかかった?」
 ドライバーが訊いてきた。葉山は速度計内のカウンターに目をやり、出発地からの距離数を伝えた。すると、やっぱりな、とドライバーは初めての笑みを見せてきた。
「ほとんどおんなじ距離だ。いやな、同じナンバーだし、もしかしたらと思ってな」
 勘が当たったとでもいうような顔をし、ドライバーの笑みが増した。しかし、すぐにその表情が引き締まった。
「でも兄さんと違って、こっちは暖房の中でハンドルを握ってきた。楽してきたようで、なんだか申し訳ない気がするよ」
 ドライバーは、本当にすまなそうな顔をした。葉山は首を振った。
「こっちは遊びなんだし、好きで乗ってるんですから。それに、比較しようがないじゃないですか。同じ距離を走ったとしても」
 少しの間を置き、そうだよな、とドライバーが頭を掻いた。
「比べること自体が無意味だわな。おんなじ距離走っても、こっちはこっち、そっちはそっちだ。わし、どうもバイク乗り気質が抜けんで困ってるんよ。バイクだと何時間だなとか考えたりしてな」
 ドライバーはそう言い笑ったが、葉山はドキリとしていた。脳内で明滅していた光の色も変わっている。青白かったのに、赤い暖色になっているのだ。そしてその頭を掻いた仕草。「ヤッパさん」とそっくりだったのだ。
「おっと……」
 なにかを思い出したような顔をし、ドライバーは左腕の袖をまくった。腕時計を覗いている。その顔が葉山に直った。
「じゃあな、兄さん。気をつけて走れよ」
「え? あ、はい」
 胸にまで広がってゆく光に戸惑いながら、葉山は頭を下げた。ドライバーが踵を返し歩き出す。しかし、その背が止まった。
「それとな」
 ドライバーが振り返った。
「それと、うまくいくといいな」
 葉山は訝った。
「なにがですか?」
「知らん」
 ドライバーが笑顔で首を振った。
「わざわざ寒い中、兄さんはここまでやってきた。バイクじゃなきゃダメな用事があるからだろ? それだよ」
 ドライバーは再び背を向け、片手を挙げてトラックに向かっていった。

 こちらは明らかに応援とわかるラッパを鳴らし、トラックが去っていった。そのテールライトが闇に消えるのを眺め、葉山が両手に握った缶コーヒーに目を落とす。なんとも、とてつもない、大きな贈りものを貰ったような気がする。
「比べること自体が無意味、か……」
 葉山は缶コーヒーをポケットにしまい、寒風に飛び立つ身支度にとりかかった。
 ふりかえれば今まで、意識無意識に他人と比較をしてきた。そうして現在の自分に「足りないもの」ばかりに目を向けていた。それらを得れば人並みになれる、大人になれる、と信じて。だが、それら「足りないもの」を、俺は本当に欲しがっているだろうか。
 セルボタンを押そうとしていた指が止まった。自分に欠けていると思いこんでいた、あれこれが頭に浮かぶ。
「……いらんなあ。どれもこれも」
 エンジンを始動し、さらに考える。
 ならば大切なのは、比較した「人並み」や「大人」ではなく、独自の物差しの「自分らしさ」や「己」であろう。
「ということは……」
 今、本当に自分に「足りないもの」は、その自覚ではないだろうか。
 アクセルをひと捻りする。排気系統に問題はない。だが、長年溜まって悪さをしていたカーボンが、ポンとマフラーから吐き出された感じがした。
 先ほどのトラックドライバーの言葉が、さらに蘇る。
「こっちはこっち、そっちはそっち、か……」
 故郷のあの仲間たちとは、同じ距離を、いや同じ時間を駆けてきた。だが、走っている道はそれぞれなのだ。気にすることはなにもないではないか。こっちはこっちの道なりを進むだけ。そっちはそっちで頑張れと応援すればよいだけだ。
 身支度が整い、暖機も済んだ。ヘルメットのシールドを下げる。サイドスタンドを外し、クラッチを握る。足首を曲げると小気味よい音がし、すべてが噛み合った。
 アクセルを大きく捻り、クラッチを離す。リアタイヤをスピンさせ、葉山が路上に発進した。
「よし、ガキでいよう」
 ヘルメットのシールドが一瞬曇った後、サッと視界が広がった。



「ないなあ……」
 道の行く手を気にしながら、葉山が国道を走っていた。ライトアップされた「いらっしゃいませ」の看板が、もう現れてきてもよい距離なのである。けれどそのようなものは、まるで見えてこない。もちろん、道は間違っていない。
 すると、塗りつぶしたような黒い広がりが見えてきた。建屋や塔がないのは街路灯からの光でわかる。だが葉山の直感が、ここだと囁いた。葉山はそちらにハンドルを切った。
 その敷地の前に葉山がバイクを停める。なんとなく覚えているあたりの景観と距離から、やはりここで間違いないと葉山は思った。
 葉山は溜息をついた。
「やっぱ、潰れてたか……」
 ドライブインは、更地になっていた。傍らにある看板に目をやる。「ショッピングセンター建設予定地」とあるが、色褪せて錆も浮き、まるでくたびれた老人のように傾いで立っていた。その様子だけで、計画がうまくいかなかったのであろうことはすぐにわかった。
 葉山が敷地内に首を伸ばす。冬枯れした雑草の上に、コンクリのガラや鉄筋が積まれた小山があった。奥は暗くて見えないが、やはり砂利が積まれたようなシルエットがある。計画が遅延したか頓挫し、当座の資材置場になっているのかもしれない。けれど、捨てられた古タイヤや家電なども見受けられた。
 葉山がさらに首を廻らす。木杭とトラロープで囲われてはいるが、根元から倒れた杭や、ロープが外れている箇所もある。そして眼前の出入り口らしい場所は、どうぞとでも言うように開け放たれている。目を下ろせば地面には複数のタイヤ痕。土地の関係者だけではなく、侵入し廃棄物を投棄する輩もいるのだろう。ともかく、なかば放置された土地になっているようであった。
 入ってみようか。ふと、葉山はそう思った。入ったところで何がどうなるわけではない。それに不法だ。しかし、ここがすべての出発点だったという気持ちが強い。そんな意味では、はじまりの地なのである。
「……まあ、長居する気はないし、咎められたら素直に謝ろう」
 葉山は、敷地内にバイクを進ませた。

 地面は意外に締まっていた。ハンドルをとられることもなく、タイヤも埋まらない。もしかしたら、重機を使い踏み固めた土地なのかもしれない。けれど、あのドライブインがこんな無様に、との思いが舵を重くした。
 やはり砂利であった小山を除けて進むと、そこはどん詰まりであった。葉山は跨ったままで、エンジンを切った。四方から、静寂と闇がひっそりと集まってくる。国道の街路灯からの灯りは、ほとんど届いていない。
 すると視界の隅の暗がりで、なにか動いたような気がした。葉山がそちらに目を凝らす。やはり、人の気配がする。凝視していると、クックッとの、嘲るような笑い声が聴こえてきた。ヘッドライトで照らすのならば、バイクを動かさなければならない方向である。ともかく、明らかに誰かいる。葉山は静かにサイドスタンドを出し、車体を傾けた。
「バカじゃねえのか、あれ」
 暗がりから声が聴こえてきた。
「んだなあ。この寒いのに、バイクなんか乗ってなあ」
 ふたりいる。いや、もうひとつ影が動いた。葉山は思い出した。このドライブインは、暴走族の溜まり場でもあったのだ。こんな土場のような場所になっても、輩たちの憩いの場になっているのかもしれない。そう思うと、懐かしいような気持ちになる。一緒に思い出話を語りたくなってくる。だが相手は、そんなフレンドリーな連中ではないだろう。
「まいったな……」
 葉山は呟いた。またもや厄介事の予感がする。しかも相手は複数。夜目を利かせ、あたりに得物がないか探す。こんな場所なのだから、なにかあるはずである。すると、あった。鉄か木かはわからないが、棒状のものが地面に転がっている。
「やっが……」
 葉山は、そっとバイクから離れようとした。
 するとその動きを制するようにエンジンを始動する音がし、複数のヘッドライトがこちらに照射された。暗順応していた目に光が眩しい。排気音から大型車ではないことがわかったが、数が多い。四、五台はいるようだ。ともかくすべて二輪のようである。二輪? ならば相手も、この寒い中でバイクに乗っていることになる。
「やっぱ、ここに来たない、ヤマシン!」
 懐かしい響きであった。ヤマシンとは、葉山真治の昔の渾名なのである。しかし、それを知っているということは?
 葉山はエンジンをかけ車体を反転させた。
 ヘッドライトに浮かんだのは、昔の仲間たちであった。二十年前のあの時のように、バイクに跨り、こちらに手を振っている。けれど、なぜ? ともあれ葉山はそちらに向けて発進した。ほんの数メートルだが、なんだかタイムトラベルしている気分である。
 そこにはやはり、二十年前の顔が揃っていた。といって、どれもこれも中年の面である。だが、笑顔は昔と変わっていない。
 ヤマシン、ヤマシン、との白い息と嬌声が葉山を包む。葉山は仲間たちを見渡した。
「おまえらこそバカだろう、この寒い中無理しやがって。でもいったいどうしたんだ? そのバイクは」
「今日だけ借りたんだよ、それも子供によ」
 さんざん親を泣かしてきた「向こう見ずのケン」が、オヤジの顔で言った。
「オレなんか、買うっつったらカアチャン実家に帰っちまったぜ」
 弱り顔でそう言ったのは、「パズル」。停学処分になるたびにジグソーパズルを買い込んでいたので、そんな呼び名がついた。
「でもいいな、やっぱバイクは。なんだか、眠ってたもんが起きちまったよ」
 そう言って笑ったのは、頭突きでは誰にも負けなかった「金太郎」。そんな名のプロレスラーがいたのだ。その隣で笑みながら頷いているのは、寡黙な「龍」。別グループのアジトにひとりで乗り込み、警察沙汰になり無期停学を食らった男である。
「しかし、こうやってまた会えるとはな。お膳立てしてくれたハクシに感謝だ」
 ジャコーポマードを使ってオールバックにしていた「ジャコ」が隣に言う。そこには本名の「博士」、ヒロシからハクシと呼ばれるようになった男がいた。名前どおり物知りで頭も切れ、皆で事に当たる時には緻密な計画を立ててくれた軍師である。そして電話で帰ることを伝えていた男だった。このハクシが皆に声をかけ、セッティングしてくれたのに違いない。
「……悪かったな」
 葉山はハクシに言った。ハクシが首を振る。
「オレはマッチを近づけただけ。そしたらみんな、火が点いたんだ。燃えるもんが、まだ残ってたってことだよ」
 葉山の鼻がツンとした。しかしよう、とケンが言う。
「オレたち、こんな寒い中、走りまわっていたんだよなあ」
 そうだな、と葉山は頷いた。
「寒い、寒いってブツブツ言いながら、走りまわってたよな。それで、ここのドライブインのうどん食って……あれ?」
「どうした、ヤマシン?」
 葉山が夜空を凝視した。
「……いや、今な、白くてピカピカしたもんが飛んでたような気がしたんだ。気のせいかな」
 そうなんだよ、とハクシが言った。
「オレたちみんなで、あれなんだろって話してたところなんだ」
 仲間たち全員が、夜空を見上げた。
 すると黒い空から、真っ白い粉雪が静かに舞い降りてきた。


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