自己肯定できるからこそ、自己否定をする
成長とか目標の達成とか、そういうものを追いかけようとすると、自己否定は避けて通れない。
自己否定とまではいかなくても、
・もっと良くできるはずだ
・本当にこのままでいいのか?
と自分自身や現状に対して疑ってかかったり、自己正当化バイアスをメタ認知できるような機会が少なからず必要だと思う。
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「自己肯定感」は、セーフティネットのようなものだ。
どれだけ苦しく、辛い出来事があっても、最終的には「それでも前に進もう」と思えたり、「自分なら大丈夫だ、何とかなる」と思える感覚が、自己肯定感だと思っている。
だから、自己肯定感は生きていくうえで大事なのは間違いないけれど、自己肯定だけを続けていても、いわゆる成長や目標達成には近づかない気がする。
自己否定を繰り返すことで自分の甘えに気づいたり、現状の自分を脱するヒントを掴むことができる。
もちろん最終的には自己肯定するのだけれど、その過程には幾つもの自己否定がある。
それができるのは、自分自身が最後には必ず自己肯定できると知っているからで、それを承知のうえで自己否定をする。
ただ、人格だけは自己否定してはいけない。
人格には、甘えとか改善点とかそんなものはなく、人格は人格でしかない。
自己否定の対象は、あくまで自分自身の姿勢や行動、表面的な部分に対してだ。
誰だって、
・自分はうまくやれている
・自分は真っ当な人間だ
と、心のどこかで思っている。
ここで言う自己否定は、要は「振り返り」なのだけれど、あえて「自己否定」という強い表現をすることで、そんな正当化バイアスに気づけるのかもしれない。
「自己肯定感」や「自分軸」、「多様性」といった耳障りの良い言葉を自分にとって都合よく解釈するだけに止まると、後々もったいない。
それすら、何らかのバイアスがかかっていて気づけないことの方が多い。
メタ認知って、ものすごく難しい。
だから、「自己否定」のように、強く、場合によっては棘のある言葉で自らに訴えかける必要があるのかもしれない。
ああ、まだまだ言葉を使い切れてないし、言葉の持つ力を引き出し切れてないな。
▼自己肯定ばかりの浮ついたTwitterアカウント
@yohacu_ogata