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誰かにとっての「ちょうど良い」でありたい

自分の書く文章に寄せられるコメントに対しては、無条件で嬉しさとありがたさを感じるのだけれど、その中でも特に嬉しいコメントがあった。

Eileen_あやの さん
おがたのよはくさんの文章、優しくてあたたかくてちょうど良い温度のお湯のような心地良さがあって好きです(失礼な表現であればすみません💦)。

「ちょうど良い温度のお湯のような心地良さ」

「僕の書く文章ってこうなんだよね」と今までうまく表現できなかったものが、一言でうまくまとめられていて、気持ちが良かった。

何よりも、しっくり来た。

後から言うのも偉そうだけれど、実は、漠然と「ちょうど良さ」みたいなのはずっと意識していた。

強すぎない言葉、かといって頼りなさすぎない言葉
言い切らない表現、かといってどっちつかずにもならない表現
肯定ではない、けれど否定でもない

そんな、一歩間違えれば曖昧でどっちつかずな表現を、頭の片隅で意識しながら書いてきたつもりだ。

実際、一歩や二歩間違えて取りとめのない内容になってしまった文章もたくさんあるだろう。

決して、万人受けしたいからそうしているのではない。

「自分にも分からない」
「自分もまだ考え中である」

自分が今表現できるありのままが、今はまだ分からないということだったり、まだ考え中ということだったりするから、ちょうど良さを文章に映し出そうとしている。

どうだろう、意図せずちょうど良くまとまっているとも言えるかな。

いや、違うか。

「ちょうど良いかどうか」を決めるのは、そもそも僕自身ではない。

僕の文章に触れた人が、その人なりに受け取って、それがたまたま「ちょうど良かった」時、僕の文章はちょうど良い文章に“なれる”。


「ちょうど良さ」に助けられる時があることを、僕は知っている。

白黒はっきりさせることが、必ずしも正解でない時があることも、僕は知っている。

僕は、ちょうど良い文章を書きたいのではない。

誰かにとっての「ちょうど良い」でありたいのだ。


▼ちょうど良い超短編小説


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