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#自分探し #自分らしさ #何者

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#自分の人生

すでに自分らしいはずなのに、それでも探す"らしさ"ってなんだ

“自分らしく生きよう” まるで、僕らが自分らしく生きることができていないみたいな言い方だ。 確かに、「自分らしく生きることができている」と胸を張って言えたもんじゃない。 けれど、同時に「自分らしくいられていない」と思う理由や要素を説明することもできない。 漠然としたモヤモヤに、漠然としたキャッコピーが刺さり、漠然とした思考と行動のまま、僕らは明日からも漠然とした日々を過ごす。 “自分らしさ”ってなんだ。 自分探しをしたら見つかるのだろうか。 それっぽいものは見つ

"自分を知る"だけじゃ、足りないんだよな

自己分析、自己理解、自分探し。 “自分を知る”という経験や感覚はすごく大切だ。 けれど、自分を知っただけでは、現状は大きく変わらないかもしれない。 自分の価値観、性格、物事への取り組み方など、あらゆる思考パターンや行動パターンを把握できても、一時の達成感やアハ体験で終わってしまうかもしれない。 “自分に集中する” 自分と向き合うなら、ここまで持っていきたい。 今迷っていること、一歩踏み出せずにいること、曖昧にしていること、それらと一つ一つ向き合って、意思決定をして

自分らしさだと思ったら、ただの憧れだった

自分が思い描いている“自分らしさ”は、結局誰かに対しての憧れだ。 SNSで見かけた他人の“その人らしさ”を、自分らしさに重ね合わせているだけかもしれない。 「パソコン1つで時間や場所に囚われない生き方をしたい」 「自分の好きなことで、趣味の延長のような感覚で、お金を稼ぎたい」 ありのままの、自然体の、そんな自分でいたい。それが、今自分が抱える生きづらさとの決別だ。 自分の望む生き方、あり方、それらを体現した姿は、本当の自分の姿なのだろうか。 今、自分の好きを片っ端か

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

ありのままで、本当に良いのだろうか

「ありのままで良い」 「あなたは、あなたらしくいれば良い」 すごく聴き心地の良い言葉。 実際、それらの言葉に救われたこともあったし、一歩踏み出せたこともあった。苦悩を抱える人に、そっと投げかけたこともあった。 けれど、常々思う。 「ありのままって、何だろう」 「私って今、ありのままでいられているのかな」 そもそも、本当にありのままでいて良いのだろうか。 ありのままでいることが、今の自分にとって本当に必要なことなのだろうか。 一歩踏み出せない自分、何かを変えたくて

「何してる時が楽しいの?」に答えられない

おそらく聞く人にとって深い意図はないのだろうし、それほど重たい質問ではない。 「何してる時が楽しいの?」 今まで何度か聞かれたことがあるはずなのに、「出身はどこですか?」みたく反射的に答えられない。聞かれる度にいつも「何してる時が楽しいかな?」と自分自身に問いかけてみる。 「んー、何ですかねぇ」とワンクッション挟んでみるけれど、たいてい、「散歩してる時ですかね」とか「YouTube観てる時ですかね」と答える。 答えた後に、「うわぁ、何かしっくりこない」と一人反省会が始

「普通」じゃ満足できないボクらは

「普通」という言葉に、どれほど振り回されているのだろうか。 「普通で良い」とか「普通じゃ嫌だ」とか、何でもかんでも「普通」が基準になっている。 そもそも、そういう基準になるものが「普通」なんだろうけれど。 「普通でいたくない」という欲求が行動のモチベーションになったり、何かのきっかけにもなってしまうくらい。 「普通」に満足できることなんて、あるのだろうか。 普通でない何かを手に入れたとしても、一度手に入れてしまったら、やがてそれは「普通」になってしまう。 そうして

本当の自分は、決して1つじゃない

「あんまり素でいられてないな」 「ありのままの自分が分からなくなった」 「自分自身が何者であるか知りたい」というのは、「素の自分とはどんな自分なのか知りたい」という欲求に近いのかもしれない。 地元の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、親に見せる自分、上司に見せる自分、部下に見せる自分、恋人に見せる自分。 どれも違う。 そう感じる度に、「本当の自分って何なのだろう」とモヤモヤする。 けれど、実際はどれも本当の自分だ。 「自分はこういう人間だ」 どうも、一

ずっと変わらないものが、自分らしさだった

仕事も、やりたいことも、生き方も、変わっていく。 僕らは、変わっていくものばかりに気を取られてしまう。 ・自分のやりたいことは何なのだろうか ・このままの生き方で良いのだろうか 不確実な時代を生きているからこそ、不確実なものに囚われてしまうのだろうか。 確実な未来を自分で創るために、不確実なものをはっきりさせたくなるのだろうか。 - 自分のビジョンとか、価値観とか、どうせ変わっていくのに、確固たる自分の意思を見つけ出そうと自己分析に必死になる。 そうして疲れて、

幸せは、手に入れた瞬間逃げている

今あるもので十分だと思いたい。 行きたかった場所に来れていること、住まいがあること、一人じゃないこと。 それなのに、どうしてもっと欲しくなる、新しいものを欲しがるのだろう。 自分がかつて欲しいと願ったものは、今目の前にあるというのに。 目の前のことが思うように進まなくて、自分よりもできる人の姿を見て嫉妬するどころか、もう辞めちゃおうと考えてしまって。 「自分に今の場所は無理だよね」 「理想を思い求めすぎたよね」 気休めにも言い訳にもならない、そんな思いを声に出す気

何もうまくいかない。いつも“大きく”考えてしまう僕ら

うまくいっていない時、何となく「何もうまくいってない」と思いこんでしまう。 「あー、恋愛と趣味と友人関係はけっこう良い感じなのに、今月の営業成績だけが悪くて仕事がうまくいかねぇ」 とはあまり思わない。 それくらい冷静に考えられる内は、むしろ「大丈夫」なのかもしれない。 「全然だめだ」、「何もできていない」、つい事を大きくしてしまう。 それ自体はよくある話だけれど、度が過ぎると不毛な自己嫌悪や自己否定に陥ってしまう。 何か失敗をした時に「もうこれから先何をやっても失

万人受けしようとすると、誰にも受けなくなる

マーケティングやブランディングといったビジネスに限らず、人間関係や生き方にも同様のことが言える。 みんなに好かれようとすると、広く浅い関係値になってしまうかもしれないし、ツッコミどころのない生き方をしようとすると、無難になってしまうかもしれない。 自分が周りに合わせていくことも大事だけれど、どこかで“わがまま”にならなければいけない。 誰にだって、譲れない何かが一つや二つある。 それを譲ってまで維持したい人間関係、生き方、果たしてそれは本当に自分が欲しいものなのだろう

結局、自分のことを一番よく分かっているのは誰なんだ

過大評価されても何だかモヤモヤするし、かといって、過小評価されてもそれはそれでモヤモヤする。 私のモヤモヤは… 公私ともに、周りからの評価と自分自身での認識の噛み違い です!よろしくお願いします! (たんせんさん) 「公」の話で言えば、評価者と被評価者の構図が存在する以上、ギャップを埋められるよう努力するしかないと思う。 ギャップを感じるなら、「ギャップを感じていること」を評価者に具体的に伝えて、擦り合わせる必要がある。 評価の仕組みそのものに不満があったり折り合い

「他人の期待」に依存していただけかもしれない

他人の期待に応えるのは楽だ。 分かりやすく自分自身の存在意義を実感できるし、期待に応えようとすることですべきことが見えてくる。 期待に応えると感謝されて、それが嬉しくてまた応えようとする。 ただ、それを続けた先には「依存」がある。 他人の期待に応えられないと満足できなくなったり、期待に応えられなくなった時、自己嫌悪に陥ってしまう。 だから、期待に応えられない時の苦しみは大きい。 「これまで期待に応えてきた自分」というレッテルが少しずつ剥がれていくような感覚。 そ