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自分らしさだと思ったら、ただの憧れだった

自分が思い描いている“自分らしさ”は、結局誰かに対しての憧れだ。

SNSで見かけた他人の“その人らしさ”を、自分らしさに重ね合わせているだけかもしれない。

「パソコン1つで時間や場所に囚われない生き方をしたい」
「自分の好きなことで、趣味の延長のような感覚で、お金を稼ぎたい」

ありのままの、自然体の、そんな自分でいたい。それが、今自分が抱える生きづらさとの決別だ。

自分の望む生き方、あり方、それらを体現した姿は、本当の自分の姿なのだろうか。

今、自分の好きを片っ端から実現したとして、好きな服を着て、好きなものを食べて、好きな時間に好きなことをして、それが仮に普通でないことだったとして、周りの誰かから何を言われても、そんな自分を貫けるだろうか。

そもそも、これは“自分らしい姿”なのだろうか。

SNSで見かけたのか、どこで影響を受けたのかは分からない、そんな憧れや羨ましさによって作り上げられた、自分らしい生き方。

期待値の高すぎる、ただの虚像になっていないだろうか。

「自分ならなれるはずだ」
「本気を出せばきっと」

今の自分は、“過去の自分の行動の結果である”ということを決して忘れてはいけない。

何もできない、何もやらない自分がそこにいるのなら、それは昨日までの自分の結果だ。残酷だけれど、過去の自分の意思がそうさせたのだ。

人はそんな自分を「怠惰だ」と嘲笑するかもしれない。自己責任論を押し付けてくるかもしれない。「どうせ無理だ」と言ってくるかもしれない。

けれど、そんな自分の生き方も、今となっては“一つの”自分らしい生き方となっている。

受け容れたうえで、これからもそんな一見怠惰な人生を望むなら、それが自分にとっての正解だし、「変わりたい」と願うならそれもまた正解。
乗り越えられそうなハードルの低い目標からまずは挑戦してみることも、もちろん正解だ。

自分自身や人生に対して願うものが、必ずしも“自分らしいもの”である必要はない。

他人への憧れや羨望が混ざっていても良い、ただ、それだけでは決して成り立たない自分が望むもの、そこに自分らしさはある。

どういうわけか、自分らしさに囚われず、思考したり行動したりした時の方が、案外自分らしさが出ていたりするんだよな。

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おがたのよはく
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