母の置き土産(上)
これは私の母が亡くなった年のお話。
全然関係ない記事を書いていた時、ふと急にその話を書こうと思い立って、ああ、今月は母が亡くなった月だからかと腑に落ちました。
でも、今日のこの記事エピソードが、私の中での書道愛再燃のきっかけになったと思います。
後になって思い返してみれば、あれは母が土に還る約3か月ほど前のこと。母が急におかしな事を口走りました。
「ああ~確か李白やったと思うがいけど、一杯一杯 また一杯って。どこやったかな~~~💢」
思い出せない事に半ば癇癪を起しながら言いました。
その年の年頭、それまで抗がん剤治療をしていた母が急に少し痴呆が入ったみたいになり、検査で脳にまで転移しているのがわかると、物忘れ、記憶の混乱から、少しずつ感情のコントロール、身体のコントロールもできなくなっていきました。
でも、その記憶の混乱には波があって、調子のいい時にその李白の詩が自分が習っているペン習字の月刊誌のどこかに載っていたと思い出して、それを探し出して来ました。
この詩がどうしたのか、と思っていると、どうやらペン習字を習い始めてから毎年出展している書道展に今年も出品したいと考えているようでした。
私が、子供の頃習っていた習字と違い、母が父を失った寂しさを埋めようと60を過ぎてから習い始めたペン習字は、今どきの時代の流れなのか、展示会に見に行くと、色々と趣向を凝らして、書道なのに「書」だけでなく模様や絵まで書く人もかなり多く見受けられ驚きました。
母はその時点で結構病状も進行してケアマネジャーもついて自宅介護に突入して、それどころの話ではありませんでしたが、母は急に目標を見つけたかのように心の張りを取り戻して、書道展への出品の意志を固めたようでした。
そして早速練習し始めましたが、認知能力が低下していて、テレビで話している事と私が話している事の区別がつかず、話をごっちゃにしてしまうような状況でしたので、そこに書き出した詩も、李白の詩ではなく、背表紙に載った紹介文をそのまま詩の一部と思って書き出していました。
そして、書きながら段々と字が小さくなっていきました。私はそれを見て、母の左右の脳の中で何が起こっているのかと大いにショックを受けました。
しかしそれまで毎年出品してきた作品には絵や柄などは入れていませんでしたが、今回に限って何故か絵まで入れたいと思ったようでした。
・・・・・。
多分、一人酒を飲む李白と、酒の入ったヤカン?急須?っぽいモノ?日本の三々九度で使う的な?
「お母さん、この後ろの四角いものは何?」
と聞くと、「窓から花が見えとるが」と母が答えました。
そ、そうか・・・。
「アンタ、これでどんな感じにするか大体のデザイン考えてみてよ」
と言われて、とりあえず中国の漫画や挿絵によくありがちなキャラで下書き。
母はコレを見て、これが正解!と思ったらしく、
「ええ、コレコレ!これをミナ(姪っ子の仮名)に書かせるが。」
と言い出しました。
なぬ!?大人の書道展に出品するのに孫に書かせると?
ちょうどG.W.の連休で母の見舞いに来ていた妹ファミリーに突如、ミッションが課せられました。
母の一方的な要求に妹はカチンと来たところもあったようですが、母の願いを叶えるべく、子供達に練習をさせ始めました。
書道展はいつも8月末~9月の頭にかけて展示され、締め切りは確か6月一杯くらいだったか(記憶が定かではない)とにかく、この連休の帰省中に仕上げようと思ったらしいです。
孫たちは、二人とも小学生で、突如降って湧いたミッションを、最初は言われるままに練習していましたが、すぐに嫌気がさし始めました。子供なのでムリもありません。
普段は、孫二人の字や絵を「あら~上手やね~、大したもんやねえ」と褒めちぎっていた母でしたが、感情コントロールができなくなっているので、全く忖度する事もなく本音100%で「あら、何ねコレ?ちゃんと練習しられんか!こんなもん全然ダメやわ!」と子供相手に厳しいダメ出し。
妹は怒鳴り返しこそしませんでしたが、かなり腹を立てているようでした。
そして母のいないところで
「アンタ、現物大で見本書いてやってくれんけ?なぞらせるから」
「・・・・・。」
それ、見本って言う?
そうして連休で実家に戻ってきている間、書道展の練習をさせられた甥と姪は、何とかミッションを完成して(大人たちはこの書道展に向けて、2か月ほどみっちり練習して仕上げるのに、もちろん自宅に帰ってまで完成度を高めようとは思わなかったらしく、G.W終了と共に終了。)
それから、母本人は脳腫瘍の仕業で、歩行がおぼつかなくなって来てベッドで過ごす時間が増えました。すると、多くの時間を寝て過ごしているわけなので、夜になって睡眠導入剤を飲んでも、昼間から横になりっぱなしなせいで全く寝られないのです。
母は病院に入りましたが、元々暇を持て余す事が全くない、常にフル回転で生きていたので、何もすることがない状況が耐え難く、しきりに何かをしたがりました。
そして、ある日いつもの通り、母の様子を見に行くと、病院は母に塗り絵をさせていました。
母は、よく勉強する人だったので、新聞もいくつかとって、毎朝どれも隅々まで読む習慣がありましたが、まるで新聞を読むかのように、きちんとメガネを掛けて、背筋をピンと伸ばして、とても真剣に塗り絵に取り組んでいました。
当時その母の母(私のお婆ちゃん)が痴呆で長年施設に入っていて、母が病気になる前は、週に二回その施設にお婆ちゃんの様子を見に行っていましたが、その施設で比較的元気な他の老人たちがロビーに一堂に集められて、塗り絵やパズルをしているのを見て、母はよく「こんなくっだらん事させられても、ここにおるしかないもん、可哀相やねぇ」と言っていました。
それが今、自分が同情していた老人たちと同じ事をさせられているのを見て、母はどんな思いでいるんだろうと、私は何とも言えない気持ちになりました。
また別の日。こんな単純な絵柄でも、何だかアーティスティックな塗り方に私は素直に塗り絵も悪くないかも、なるほど大人の塗り絵ってのも流行るわけだと思いました。
でも、母はその後、書道展に出品した作品をとうとう目にすることなく旅立っていきました。
大人の書道展の中に、一つだけ子供の字で書かれた作品。
この時の書道展、私には母から別のミッションが出されていたのでした。
(母の置き土産 (下)に続く )