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弱者が生き残る方法


本日の言葉。

「さまざま苦難を乗り越えてこそ、
 立派な人間になれる」
 (ことわざ)


最近、気になったこと


身近なことであれば、リアルの世界やSNSで攻撃的な人たちが目立っているということです。

攻撃的な人たちは、他人の欠点を挙げて、自分自身の正当性を主張します。

攻撃的になる背景として、その人自身の置かれた立場の不安定さからくる不安や恐れがあります。

だから、不安を他人に悟られないように、常に戦わざるを得ないのです。

攻撃的な行動は、不安要素が多くなればなるほど過激になります。

増して、自分自身が不利な立場であれば、身を滅ぼす可能性があります。

弱い立場にある場合、攻撃的にならずに済むためには、どのように生き抜けば良いのでしょうか?


弱者が生き残る方法


群雄割拠の戦国時代から平和な江戸時代を築いた徳川家康の歩みを例にお伝えいたします。


1  強制より共生を重視する


徳川家康は、豊臣秀吉から三河から関東への転封を命じられた後、関東地域の領主だった北条氏のしきたりを尊重しました。

理由は、他家の家臣まで完全に滅ぼすと遺恨による反乱や裏切りなどにより国の統治が上手くいかなくなることを織田信長や豊臣秀吉の行動を見て学んでいたからです。

例として、信長も秀吉も公家のしきたりを無視して武家を上位に置き、公家から反感を喰らいました。

いつの時代も、地域の習慣や文化といった「多様性」の尊重は、様々な人たちの共生を可能にし、平和な世界を築く重要なキーワードですね。


2  革新性


家康は、武田軍との三方ヶ原の戦いで多くの損失を受けました。

しかし、家康のすごさは、自軍の負けについて何が欠けていたのかを謙虚に学んだことでした。

家康は天正期に、物見の改良に始まり、軍団間での情報共有、効率のいい指揮命令系統、軍団の編成、築城術の改善などを進めました。

さらに長篠の戦いで敗戦を喫した武田勝頼の家臣を自軍に入れました。
そして、井伊直政をつけた前衛部隊「井伊の赤備え」を配備しました。

敵であっても、優れたことは躊躇なく取り入れる「革新性」により、家康は天下を取ることができたのです。


 

3  相手の行動パターンを分析する


戦国時代最強と言われる武田軍に徳川家康が勝った理由の一つに、武田軍の戦術を分析していたためとされています。

信玄亡き後に棟梁となった勝頼は、家臣団からの信用を得るため、武力により誇示しようとしました。

勝頼の焦りを見抜いた家康は、進軍後、武田軍が不利になって退出できないよう挟み撃ちする形にした戦略を織田軍とともに取りました。

その結果、武田軍は数々の重臣を失うなどの敗戦を喫しました。

家康が過去の敗戦から学んだことを実践した事例でもあります。


参考資料
磯田道史「徳川家康 弱者の戦略」文藝春秋


最後まで読んでいただきありがとうございます。




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