2つの「理想の保育士像」
保育士の皆さんには、それぞれ「理想の保育(士)像」があるかと思います。その抱いている保育士としてのアイディンティテーについて、是非、自分で再確認してみると、今の問題の解消につながるかも知れません。そのような研究が、アイデンティティーの経済学として進められています。
2つの保育士像
<保育者養成コース3年次生の幼稚園実習の実習簿の「感想」欄に書かれた内容の分析>
※各カテゴリーに分類される記述の回数
注)出典元論文の表に、表頭の項目名を筆者が追記している。
(出典)「保育士を目指す学生の保育観 ―実習簿の記述から読み取れるものー」
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10905779_po_ART0003299125.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
上の表は、幼稚園の保育実習の際に学生の「感想」欄の記述を、表頭の分類で分類して、その数を並べたものです。出典元の論文では、この結果を「多くの学生は保育を実践する際、子ども集団全体を捉え、その形をいかに整えていくかということを主眼にしているといえる。」と整理しています。
また、「保育者の持つ“良い保育者”イメージに関するビジュアルエスノグラフィー」という論文では、保育活動のビデオクリップを作成し、そのクリップに対する現役の保育士のコメントを分析しています。その分析結果は、
「“良い保育者”イメージを探る中で、保育者は『子ども中心』を重視していることが示唆された。一方で、保育者は保育者中心志向をやや“良くない保育”としてとらえていることがうかがえたのである。」
とまとめられています。
この2つの論文を比較してみると、「理想の保育士像」には、大きく「子ども中心志向」と「リーダーシップ(保育者中心、子ども集団)志向」の2つのタイプがあるようです(あるいは、そのようなタイプで研究や観察がなされているようです)。
ここでは、この2つの「理想像」の優劣を比較することや、そのような理想像を持っている割合を考えることは目的とはしていません。そうではなく、「理想像、すなわち保育士としてのアイデンティティが一つではないということ」を確認しておきたいのです。
アイデンティティの経済学
ある職業、性別などの社会的属性についての理想像、社会規範といった「アイデンティティ」の(経済)行動への影響を明示的に分析枠組みに組み入れていこうとしている、比較的新しい経済学の分野に、「アイデンティティの経済学」があります。
この発想では、意識的、無意識的に自分の「理想の保育士像」=アイデンティティに沿った振る舞いをすると、その保育士には一種の満足感という効用が生み出されると考えます。逆に、自分の「理想の保育士像」と異なる保育をしたり、強制されたりすると、マイナスの効用が生まれると考えます。
この発想の重要なポイントは、施設の保育士像と個々の保育士のアイデンティティとのミスマッチによって、保育士の処遇改善の効果が減殺されてしまう可能性が出てくると思われる点です。
となると、保育士の意欲向上、離職の抑制、それらの結果としての保育の質の向上のためには、求める「理想の保育士像」について、施設集団のもつアイデンティティ傾向と、個々の保育士ごとのアイデンティティを把握して、保育士に向かい合うことが重要ということになります。
アイデンティティを把握するテクノロジー
保育士のアイデンティティを把握する方法としては、今回紹介した研究にあるように、「文章分析」や「画像分析」といった方法があります。
文章分析については、昨今発展の著しい機会学習(AI)を用いた自然言語処理(NLP)技術の発展が著しく、大量の文章から特徴的な語彙をスピィーディーに抽出することが可能となっています。
また、画像分析を支援するITの例として、「ELAN」という画像分析システムがあります。画像分析システムでは、動画像の細かいシーンに注釈、アノテーションを付加することが簡単にできます。そのため、画像の解釈や意味合いの分析、その結果の蓄積、情報共有が簡便にできるものとして、言語学や行動分析の分野で広く用いられています。
<参考>
ELAN_マックスプランク研究所の公式ページ
https://tla.mpi.nl/tools/tla-tools/elan/elan-description/
公式マニュアル
https://www.mpi.nl/corpus/html/elan/index.html
ARやVRの技術の進歩により、保育士の行動を、別のアイデンティティが支配的な環境に反実仮想的に挿入することで、どのようなミスマッチ感が醸成されるかを確認することもできるようになるかも知れません。逆にそのようなミスマッチ感を確認することで、その保育士のアイデンティティを再確認できるということもあるでしょう。
ITの進歩によって、人の行動選択の核にあるアイデンティティ確認のサポートを得られるようになっています(とはいえ、タイプ認識の最終決定は人間が行うべきでしょう)。そして、そのアイデンティティに対応して、施設は個々の保育士に何をどのように求めるのか丁寧に検討することができるようになるだろうと思います。
「文章分析」や「画像分析」といったITを、保育実践に展開させる意義は、そういったところにもあるのだと思います。
熟達者の理解に向けて
目下、保育士の保育実践中の視線遷移であったり、保育士が記録する各種のテキストであったりの分析を進めています。この中で、保育士の個性や施設ごとの差異、さらに新人と中堅の保育士の行動の差というものも、具体的なケースとして浮かび上がってきます。
このような行動や記録の分析を進めていくことで、個々の保育士が実際のところ、どのような行動をしているのかが、より解明され、そこから更なるアイデンティティについての理解が深まっていきます。
ただ、注意しなければならないのは、保育士の行動をデータ化して分析することが、「標準」を志向するテイラー主義に陥らないようにすることです。保育士の行動やテキストを丁寧に分析することが、現象学的に「熟達者への理解」を深めることにつながるという方向に持っていかなければならないと思っています。