彼女の老後の姿に重ねてしまったホームレス風のお婆さんの安否を気にするのはこんな日。
私たち夫婦がまだ若かった頃の思い出話をひとつ。
鹿児島生まれで18歳まで郷里で育った私は、高卒で上京して4年間東京で暮らしたあとに一旦鹿児島に帰郷しました。
そのあとの30歳から32歳までの2年間を、またもや転職したために大阪に住んでいたんですが、その頃の印象深い出来事を書き残しておきたいと思います。
それは昭和59年頃の話ですが、九州から大阪の会社に転職した私は、吹田市にある桃山台駅から、地下鉄御堂筋線という電車で淀屋橋にあった会社まで通っていました。
正確には、桃山台駅から御堂筋線の江坂駅までを「北大阪急行電鉄南北線」といって地下鉄御堂筋線とは別なんですが、そのまま電車を相互乗り入れしていて、新大阪駅を途中駅に持つこともあって、大阪都心部への幹線鉄道として利用者が多かったんですよね。(^_^)b
今でも大阪入りするときに新幹線を利用するときは、当時のことを懐かしく思い出すんですよ。
当時の仕事と言えば、勤務時間は9時~17時で残業も少ない職場で、所属していた部門も「新規事業企画部」という名称の、新たな事業のタネを探す部署だったんですよ。
そこでもっぱら、自分が経験してきた知見を元にしてクレジットシステムの新企画立案をする、というのが自分の担当職務だったもので、ポッと出の田舎者としてはちょうど良いあんばいの仕事でしたね。(^_^)b
その日の仕事が終わると、先輩たちとぞろぞろ一緒に連れだって会社から心斎橋までぶらぶら歩き、ぼったくられそうも無い安心できそうな飲食店を物色しては、適当な店を見つけて割勘で飲んでいたんです。
そういうときに桃山台に住んでいた私は、一人だけ帰りの方向が逆方向になるので、お先に失礼することが多かったんですが、2次会を北新地でやるときにはみんなが逆方向になるわけですね。
そしていつものように北新地で2次会まで飲んで、大阪梅田駅から御堂筋線に乗車して帰宅しようとした私は、ある人物を見たときに目が釘付けになってしまいました。😨
そのときの衝撃は、突然やって来て私の胸を鷲づかみにしたんです。😧
今でもそのときの衝撃の場面を思い出すことができるのですが、しばらくは胸にそのときの衝撃が突き刺さったまま残っていました。
地下鉄の梅田駅には自動券売機がずらりと並んでいるのですが、キップを買う乗客の間をうろうろしながら、釣り銭の放出口に手を突っ込んでは、隣の券売機に移り、同じようにまた手を突っ込んでは隣に移る、という行為を緩慢な動作で繰り返しているお婆さんがいたのです。😥
ホームレスなのか、帰る家があるのかはもちろんわかりませんが、近くに来ると例の異臭が確かに漂ってくるのです。
その異臭に顔をしかめて呼吸を止めているのか、急いでキップを購入しそそくさと足早に立ち去る乗客の中に突っ立って、私はこみ上げるものがあってその場からしばらく動けなかったんですよ。
じっと立ったまま胸の動悸も激しくなる中で、何度も何度も同じことを繰り返しているホームレス風のお婆さんが、緩慢な動作で釣り銭をあさっている姿に目を釘付けにされたまま、動けなかったのですね。😢
よくよく見てみると、最初に感じた相当な年寄りという年齢が、肌のハリ具合や顔のシワシワを観察してみると、見かけより案外若そうであることに気づいたんですが、なぜ衝撃を受けたのかが私の心にジンワリと染みこんできました。😢
一見してホームレス風のお婆さんにしか見えないその髪型が、頭のてっぺん付近でタマネギみたいに括ってあったのですが、この髪型と頭部の形が私の彼女が年老いたときの姿に重なってしまったんですね。😭
そこにいるのは、年老いた私の彼女じゃないかという気がして、胸が締め付けられるようで目頭が熱くなり、涙が滲んでしまったのです。
私の彼女もいつもタマネギのようなアップの髪型にしていたので、自分がもし先にあの世に逝ってしまったら、残された彼女がこんな風になるかも知れない・・・そういう彼女の年老いた姿が浮かんできて、涙が止まらなくなったのです。😭
どれほどの時間が経過したのか、思い出せないくらい立ち尽くしていた私は終電のアナウンスに我に返りその場を離れたのですが、その日以来、私は梅田駅を利用するたびに、そのタマネギさんを探すようになっていました。
タマネギさんといつも会えるわけではないのですが、会えない日が続くと「もう死んじゃったのかなぁ?」とか「ご飯はちゃんと食べられているのかなぁ?」とか「どこに住んでるのかなぁ?」とか心配で、心に棘がひっかったままだったんですよ。😅
そうやってタマネギさんと出会えた日でも、直接声をかけるわけでもなければ何かを援助するというのでもなく、お金や食べ物を持参するわけでもないのですが、そういう行為がタマネギさんのプライドを傷つけやしないかと心配で、行動に移せなかったんですよね。
だからただ、じっと見守っているだけの関係で、それも1時間程度の時間だけの見守りをしているだけという、勇気の無い立ちんぼでした。
今でも私の胸を鷲づかみしたタマネギさんの後ろ姿に、彼女の老後を重ねてしまった私は当時を思い出すことがあるんですよ。
当時のように「今、目の前で券売機の釣り銭をあさっているこの女性は、私が先立った後に残された、私の大切な大切な、妻の姿じゃないだろうか?」そういう思いで振りかえると、元気でいて欲しいとか、万一のことがあっても幸せに暮らせるように手立てをしておかなければ、ということを強く抱くのです。
髪をタマネギのようにアップにしヘアスタイルだけじゃなく、後ろ姿の頼りなげな、か細い感じも、私の彼女にそっくりだったんですよ。
きっと似ていたから未来の妻の姿に重ねてしまったのだと思います。
タマネギさんを初めて見たときに涙が流れ出して止まらなかったのも、私が死んだら悲しみに暮れて狂気の世界へ踏み込むかも知れないとか、現実から逃れようとして認知症になるかも知れないといった不安が、そうさせたのだと思います。
ずっと駅の構内をうろうろと、釣り銭あさりをしているタマネギさんの後ろ姿を見守る日にも、やがて終わりがやって来ました。
私たちは大阪に、2年間しか住まなかったのです。
大阪から上京する日に梅田駅まで会いに行ってみたんですが、タマネギさんの姿はどこにも見つけることができませんでした。
しばらくうろうろして探してみましたが、どこにも見当たらないのです。
タマネギさんの見守りは、そんな風にして終わりを告げました。
どうせ最後に見かけたとしても、無言のままの別れになるに違いなかったと思うのです。
タマネギさんとの別れの儀式は、出会えないままで終わってしまい、そのまま新大阪駅に向かって東京行きの新幹線に飛び乗りました。
それから何十年も経つのに、ふとしたときにタマネギさんの後ろ姿を思い出しては、当時の想いまで蘇ってきて哀しい気持ちになるのですね。
今もまだ私は生きています。
生きているから私の彼女も笑顔で横にいるわけですが、彼女をタマネギさんにしなくてホントに良かったなぁ・・・と、つくづく思うのです。
彼女を絶対に、タマネギさんなんかには、しない!
そう踏ん張り続けてきたから、今があるのだと思います。
タマネギさんのおかげで、今も仲良く暮らせているのだと感謝しています。
最後に見かけたあの日から、タマネギさんはどこで何をしてるのだろうか?
三十数年の歳月というのは、タマネギさんには厳しすぎたというのは言うまでも無いだろうけど、今でもタマネギさんのその後が心配なんですよね。
時折、思うのですよ。
あの日に出会ったタマネギさんの姿は、その当時、新しい生活環境で不安を感じながら、淋しい想いに駆られていた妻の心が生み出した、幻影だったのではないだろうか、と。
あの日の幻影と出会えたから、今タマネギさんと同じような年回りになっても幸せそうな笑顔を見せてくれる彼女が、今の私の横にこうやっていてくれるのじゃないだろうかと・・・。
今もきっとタマネギさんが、どこかで幸せに暮らしていることを願って。
ってことで、今回は
「彼女の老後の姿に重ねてしまったホームレス風のお婆さんの安否を気にするのはこんな日。」という今でも胸がキュンとする思い出話でした。🤗
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。
では!
哀しみを 笑顔でつつみ のほほんと
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