相撲史に名を残す名横綱双葉山が70連勝ならず打った電報”未だ木鶏たりえず”
大相撲好きの方なら誰でも知っておられるだろう名横綱双葉山は、第35代の横綱なんですが、双葉山は戦前の人気力士で彼の偉業は、いまだに破られていない69連勝という記録を打ち立てたことですね。(^_^)b
この69連勝という記録を打ち立てたのは、1936年(昭和11年)の1月場所の7日目から、1939年(昭和14年)1月場所の3日目までの、丸3年の間を無敗で勝ち続けて国民的人気を得たとのこと。
この双葉山は、入幕するまでは目立った力士では無く「誰とやってもちょっとだけ強い」という評価をされていた平凡な力士だったようです。
それが小結で迎えた1936年1月場所の7日目の白星から、3年間の連勝街道が始まったわけですが、この場所後に関脇に昇進し、新関脇で迎えた5月場所では11戦全勝で初優勝しています。
5月場所の新関脇での11戦全勝の初優勝を果たし、場所後に大関へと昇進しています。
1937年1月場所も11戦全勝で優勝し、5月場所も13戦全勝で優勝すると場所後に第35代横綱に推挙されることになりました。
ちなみに、この当時は現在のように1年間6場所という開催では無く、1年間に1月場所と5月場所だけの、年間2場所制でした。
また取り組み日数も現在のような15日制ではありませんでした。
それまで11日目が千秋楽だったのを、その後の双葉山人気が凄まじかったために、それまでの11日の取り組みを1937年5月場所から13日に増やし、さらに1939年5月場所からは現在と同じ15日の取り組みになったのです。
そういう点でも現在と単純に比較はできないわけですが、年間2場所制で丸まる3年間を勝ち続けて国民的人気を博したのが、横綱双葉山なんですね。
さて、ここまで横綱双葉山の実績を紹介しましたが、この双葉山が70連勝をかけて取り組む1939年1月場所は、前年の満州・大連巡業でアメーバ赤痢に感染して体調を崩し、体重も激減してたので休場を考えていたようです。
でも、力士会長だった横綱玉錦が前年に急死したことや、休場続きの横綱武蔵山の休場も決定していたために、責任感の強かった双葉山は強行出場することにしたのですね。😓
結果的に70連勝ならずで、69連勝で連勝記録はストップしてしまったわけですが、負けた後に体調や体重激減のことや病気のことを口にせず、言い訳らしいことや強がりなども一切言わなかったところなどが、流石ですよね。
その双葉山が、69連勝で連勝記録をストップさせた取り組みで敗れてしまったときに友人にあてて打った電報が「イマダモッケイタリエズ」でした。
木鶏たりえずの故事についてはウィキペディアを引用すると、以下のような解釈ができるので参考にして下さい。
70連勝を阻まれた横綱双葉山は、敗因をとやかく言わずに、ただ自分がまだ最強の境地では無かったことを自戒を込めて、友人への電文に託したんだろうと思います。
私はこの双葉山のエピソードから、未だ木鶏たりえずという言葉を知ったのですが、双葉山は片方の目を失明しており、そのハンディを誰にも言わずに相撲を取っていたものの、連勝を阻んだ安藝ノ海はそこを狙ったのですね。
この「未だ木鶏たりえず」という言葉を思い出すときに、双葉山という横綱の偉大さを思い、あわせて柔道界で「最強の男」と称された、山下泰裕日本オリンピック委員会会長の顔が頭に浮かぶんですよ。(^_^)b
今でも美談として語られるロサンゼルスオリンピックで、柔道男子無差別級金メダルをかけた決勝戦の、モハメド・ラシュワンとの闘いの様子が目に浮かぶわけですね。
いや、どっちがいいとかではなく、闘いのありようとして、なぜか対になって思い出すという話です。
あ、この記事は6月8日(木)に投稿したこちらの記事。
上記の記事でいただいたコメントに誘われて、未だ木鶏たりえずのネタで書いた記事になります。😅
ってことで、今回は
「相撲史に名を残す名横綱双葉山が70連勝ならず打った電報”未だ木鶏たりえず”」という故事を引用して心境を語った横綱のエピソードの話。🤗
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。
では!
木鶏の 心境遙か のほほんと
<昨日投稿のサブアカの記事がこちら!>
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