海鮮丼/生シラス!お菓子の神様とスサノオファミリーと仏像巡り★和歌山⑧【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
10月1日と18日限定の仏像を目当てに和歌山の有田市で!あっお菓子の神様がいる海南市の南部通るな!話題の海鮮丼、そして、また食べたいと思っていた「生しらす丼」がある湯浅町へ!!そして前回漏れた京都・醍醐寺(私のNOTE)に移築した(と言われている)金堂@国宝の寺!スサノオとイタケル親子の「須佐神社」など出雲が香る神社巡り!
次のじゃらん旅行記の北側なので続きという感じですね。
▼ルート
#橘本神社 (きつもと)→ #福勝寺 → #善福院 → #海南サクアス → #加茂神社 → #粟嶋神社 → #長保寺 → #正善寺 → #有田市郷土資料館 #みかん資料館 → #浄妙寺 → #宮原神社 → #糸我稲荷神社 → #くまの古道歴史民俗資料館 → #得生寺 → #西法寺 → #早和果樹園 → #円満寺 → #鮎茶屋ホテルサンシャイン
鮎茶屋ホテルサンシャイン→ #立神社 → #須佐神社 → #國津神社 → #施無畏寺 → #深専寺 → #湯浅駅 #かどや食堂 → #勝楽寺 #久米崎王子跡 → #顯國神社
カットしたところや追加したところがあるので記事と地図は一致していないです。
▽2023年11月18日(金):
→お菓子発祥「橘本神社」レアなお菓子の神様!熊野古道九十九王子社
全国的にも珍しい「みかん」と「お菓子の神様」がいる神社は、毎年4月には菓子まつり、10月に「みかんまつり」が開催されている。1689年創業の京都・八ツ橋で知られる聖護院八ツ橋総本店やグリコも奉献していた。ちなみに、500円玉に、橘の実と葉のマークが入っている。
私のNOTEは次の通り。
お菓子の神様は次に纏めています!
→岩から流れる瀧裏にGO「福勝寺」空海修行!徳川家所縁の厄除け【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
本堂左には、瀧の裏側に行ける「裏見の滝」がある。そこが絶景ポイント!!道は狭いし不安な道だが行くべきだ!ただ、ここに来るまでの階段キツイ・・。
804年、弘法大師・空海が31歳の時、藤白峠を越えて岩屋山の瀧本に着き、この地を修行の場と定めたのが始まり
本堂と鐘楼は国の重要文化財に指定されている
滝の裏側に行くことができる「裏見の滝」がある
1062年以前に創建
室町時代に本堂が建立
本尊は千手千眼観世音菩薩
本尊・千手観音は、唐へ渡る直前の弘法大師が『旅立の観音、厄除の観音 、雷除の観音』と3つのご請願を立て安置された
加茂川沿いでのどかな場所だが、江戸時代には紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣からも篤く信仰を受ける
1650年、紀州藩主の祈祷所・求聞寺堂が建立され、その後は紀州藩主縁の厄除けの名所として現在に至る
現存する日本最古の求聞持堂のよう
1664年、彗星が出現し、不吉の前兆として星供養祈願を厳修した(『岩屋山旧記帳』より)
江戸時代後期から大正、平成と度々の改修をする
橘本神社から県道159号を少し西へ走り、加茂川に架かる橋を渡ってすぐのT字路(左側に海南警察署橘本駐在所があります)を右に曲がって山を上がって行くと左側に福勝寺に着く。
瀧はいずこへ・・・。私のNOTEは次の通り。
→鎌倉時代の本堂が国宝「善福院」【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
京都、奈良、滋賀には神社仏閣の国宝は多い。ただ、和歌山も見逃せない!!京都・醍醐寺の金堂@国宝は和歌山の移築したものなど、京都所縁のところが多いのである。そして、ここにも国宝が!!
1214年、栄西禅師によって創建
廣福寺五ヶ院の一つとして創建され、「廣福禅寺」という寺号であった
明治初期の廃仏毀釈を経て「善福院」に改められた
1327年、禅宗様式の釈迦堂に建てられた
禅宗様式の建物では、山口県下関市の功山寺仏殿に次いで、全国で2番目に古い建物
鎌倉の円覚寺(私のNOTE)舎利殿、山口の功山寺仏殿などとともに、鎌倉後期の禅宗様を代表する建築とされる
安土桃山時代は加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を有していた
数々の伽藍を備えていたと伝えるが現存するのは釈迦堂だけ
釈迦堂は正面3間・側面3間・寄棟造で屋根は一重裳階付の唐様仏殿で総本瓦葺の国宝である
駐車場です。ナビは違う道を案内しますが、右手の坂を登るよう掲示されているので、そちらに従うと駐車場です。後ろがゲートボール場ですが、草草が生い茂っています!?
私のNOTEは次の通り。
→道の駅 海南サクアス:〒649-0141 和歌山県海南市下津町小南51番地1
昼食です。私は海鮮丼で妻はしらす丼です。11:00には列になっていました。食後は妻が有田みかんを買う。
→和歌山多い足プル参拝「粟嶋神社」太鼓橋スゴッ「龍泉寺」神仏習合【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)
古くは加太の粟島(淡島神社(私のNOTE)より勧請し、社殿も壮麗だったとか
1264年~1275年、風浪激しいため、現在の社地に遷座
真言宗御室派総本山・仁和寺(私のNOTE)から寄進され、広い社地に荘厳を整えたとか(『仁和寺古文書』より)
1358年、征西宮懐良親王が西海に赴いたときに、海難を克服できたのは、侍臣が粟嶋さまの御加護をお祈りしたからだとして、分祠したと伝えられている
1797年、現在の太鼓橋が架かる
現在のところから加茂川に行くと元宮跡がある
境内に旧別当寺院「淡嶋山龍泉寺」があり、神仏習合時代の名残をとどめている
摂社は、八幡神社「應神天皇」 、蛭子神社「事代主神」 、百拝神社「祭神不詳」 、浜ノ宮神社「天照皇大神」、戎神社「事代主命」 、浜戎神社「事代主命」 、牛神社「祭神不詳」 、道祖神社「猿田彦命」 、厳島神社「市杵嶋姫命」 、辨天神社「市杵嶋姫命」 、八坂神社「祇園天神」 、傳神社「祭神不詳」、稲荷神社「倉稻魂神」 、金刀毘羅神社「崇徳天皇」と多い・・・。
私のNOTEは次の通り。
→国宝3つ復活待ち「長保寺」
またの機会に行きます・・。そうなんですよね~国宝になると修復も大変なんですよね。神社には20年に一度場所を変えて社殿を新しくする式年遷宮があるのですが、これも国宝になるとできないんですよね~。ということで、国宝の本殿って「式年造替」なんでしょうね。
→美仏秘仏公開「正善寺」
2023年10月1日と18日限定で秘仏公開!市の管理のようで、正善寺収蔵庫床の本堂も公開していただいた!
寺の裏側に駐車場があります。駅や寺の表から車出来た方は、どこかわからないからテキトーなところにおいて来たとのことでした。面白かったのは近所の子連れが3組ぐらい来ていました。地域密着で愛された寺ですね。
交通機関で行く人は次の動画をどうぞ!
境内裏側から入ります!秘仏公開は次のNOTE参照です。
一目見て過去に見仏したなと思い出した。そして、本来は少し上に安置されることを前提に設計されているんだなと確信した。
やっぱ見る角度は大事ですね~。良い金剛界式大日如来ですね。運慶作の金剛界式大日如来坐像(円成寺(私のNOTE))と快慶作の金剛界式大日如来坐像(石山寺(私のNOTE))と並べても見劣りしないかも。と、言うといいすぎかもしれないが、良い形です。
私のNOTEは次の通り。
→有田市郷土資料館・みかん資料館「魅惑の初島 流転のみほとけたち」
以下に纏めています。宝物リストはこちら(https://www.city.arida.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/410/2023olist.pdf)。
→自然と調和する「浄妙寺」宝物多し【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
この地域の寺でお堂が揃っている寺ですね。多宝塔もありますね。道は細く心配になりますが気にせず車で上まで行くと駐車場があります。
806年、平城天皇の御母乙牟漏皇后とも阿波の尼僧西阿弥の建立
開山は唐僧如宝和尚といわれ、もとは七堂伽藍の名刹であった
1169年、宮崎定範がこの地方を領してから70石の寺領を受ける
1585年、兵乱によって堂舎及び縁起など焼失するが、薬師堂と多宝塔だけは密林の中にあったため、兵火を免れることが出来た
薬師堂に安置されている薬師如来、両脇侍像、十二神将立像は国指定の重要文化財
私のNOTEは次の通り。
→伏見稲荷より60年前「糸我稲荷神社」【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
糸我社の創建は「37代孝徳天皇白雉3年壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とある
652年、伏見稲荷神社の創建より約60年も前に遡るので糸我稲荷神社を本朝最初の創建とし、社前鳥居に「本朝最初稲荷神社」の額が上っている
御祭神は倉稲魂神、土御祖神大姫神
紀伊続風土記には「荘中三箇村の産土神なり、古くは殿社も宏麗に神田も多く云々」とある(三箇村は現在の糸我地区と須谷(すがい)地区)
境内には樹齢500年~600年の3本の大楠がある
有田市糸我町にある日本最古とされる「糸我稲荷神社」の隣りの民俗資料館には、藤原定家の愚痴日記!?など、熊野古道に関する資料を展示している
熊野詣マニア!?白河法皇についての説明がある。『古代から中世、熊野信仰盛んなる頃に上皇方が熊野参詣されて楠の古木が生い茂る当神社に「かご」を止め休憩した証として有名な「白河法皇みくるまをよせたまひし旧跡」』とある。
伏見稲荷大社より創建は古いとする。そのため、鳥居には「本朝最初稲荷神社」とあるのだが、これは1810年の当時の神官・林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」から来ているようで、もしかしたら違うかも・・。
糸我稲荷神社には元宮がある。神社の方と話しているときに2月くらいには桜が奇麗と言っていたかと。社務所の説明書きです。
530年代に凶作で高山に登り榊を植えてしめ縄を曳き神を祀ったのがはじまり。神は降臨し、ウカノミタマと名乗ったようだ。その後、みんなが知る伏見稲荷大社(私のNOTE)に降臨したようだ。
私のNOTEは次の通り。
→有田市立 くまの古道歴史民俗資料館
有田市糸我町にある日本最古とされる「糸我稲荷神社」の隣りの民俗資料館。主に藤原定家の日記等熊野古道に関する資料を展示している。館内には糸我峠にかつてあった茶屋を再現したコーナー、藤原定家が熊野詣をした際、京都から熊野までたどった328kmを記した絵巻などが展示されている。入口付近には休憩スペースと自動販売機、トイレなども備わっており、熊野古道歩きの休憩所としても活用されている。
許可を得て神社の駐車場に車を置いたまま入館。
まずは先ほど参拝した神社尾元宮ですね。確かに桜が奇麗ですね。
というか、文句ばっかり言っているな・・・・。
→中将姫の命日練供養「得生寺」【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
毎年、中将姫の命日に当たる5月14日に執り行われる来迎会式で、小学生たちが25菩薩に扮して、開山堂より本堂へ山内を練り歩く「二十五菩薩練り供養」がある。
中将姫とは次の通り。奈良・當麻寺が有名ですね。
747年、右大臣・藤原豊成卿夫妻が、長谷寺に祈願して誕生したのが中将姫で、姫が3歳の時に母の紫の前が亡くなり、7歳の時に父の豊成卿が照代の前を後妻に迎えた
姫は成長するにつれ容姿端麗で聡明その上何事にも優れていたので、継母は次第に姫を憎むようになり、姫13歳の時に密かに家臣に命じて、紀伊の国雲雀山で姫を殺害しようとする
春時はかえって姫の徳に打たれ、都より妻を呼び寄せ夫妻で姫を守り育てる
761年、豊成が猟に来て姫と涙の再会を果たし、都に帰るが17歳の時に当麻寺で剃髪して法如と名乗り、有名な当麻曼荼羅を織り上げたが
775年、25菩薩に迎えられ、29歳で波乱に満ちた生涯を閉じた
→西法寺
早和果樹園へ!!運転しながら寺を発見!さっき行った郷土資料館でも紹介された寺だなということで寄ってみた。
→早和果樹園
妻がみかんパフェが気になるとのことで寄った。残念ながら、この時期はやっていなかったが、みかんの試食があり、JAF会員はミカンジュースも頂ける。
ジェラードなども惜しみなく試食させていただけた。ということで、結構買ってしまう・・。
→有田川温泉 鮎茶屋 ホテルサンシャイン
エレベータはなく、建物は古いが部屋は奇麗です。広くてゆっくりできますね。トイレもきれいで、風呂も無駄に広い。風呂場から部屋の間がガラスだったのかと思わせる痕跡が・・もしや元ラブホと思ったりww
風呂は横の日帰り温泉ですね。一度外に出る必要があるのが残念ですが、風呂はマンがあり、居酒屋風の店もあり賑わっています。女性風呂は人が多すぎてゆっくりできなかったようです。男性の方はサウナ目当てが多そうで水風呂が多い・・。
夕食の焼肉は部屋が煙だらけにwww
太刀魚(タチウオ)が名物のようです。久しぶりの熊野牛!
サービスでロストビーフ握り頂きました!!
ごはん早めに頂く!
みかんじゃなかった。
▽2023年11月19日(日):
朝食です!
→スサノオの息子・イタケル!本殿左に磐座「立神社」名は体を表す【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
立神社と須佐神社を一気に巡ります。なぜなら親子なんですね~。スサノオは出雲のイメージがあるが紀伊・熊野でも色濃く残している。
有田川の河口近くの御殿山の北麓に鎮座
背後の剥き出しで屹立する岩盤を御神体としている
創建時期などは伝わっていない
『紀伊国続風土記』は、この岩盤に有田川の流れる川水が当たり、北側へ流路を変えていたと記されている
その岩下に深淵があり水主明神が祀られていた
主祭神である大屋彦神は「五十猛神」であり
南東1km余りに鎮座する「須佐神社」に対して御子神・五十猛神を祀る社としたものか、純粋に樹木をまつる大屋彦神を祀る社としたものかは不明だが、水の神説もある
→桃×スサノオ「須佐神社」餅撒き鯛投げ!?【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
餅撒きだけでなく「鯛撒き」がある!?出雲・スサノオを代表する「須佐神社」は高台にあり、社殿が素晴らしく、桃、榊、清めの塩など今でも神社神社している古社。そして、車で5分以内の「立神社」には息子・イタケルを祀る磐座の神社が!!
和歌山県有田市千田(ちだ)に鎮座する
由緒ある式内社で、鎮座地名にちなみ「千田宮」とも呼ばれている
参拝は階段上る系で高台に鎮座
地元の方は階段の下から祈って、私たちに挨拶してくれた
713年、山頂に吉野郡西川の峯より移されたというが、どこだ??吉野にスサノオ??
海上を通る船舶が帆を下ろして敬意を表さないと難破をしたので、間もなく現在の地に移した
もともと剣難除の神として信仰が篤い
豊臣秀吉の紀州攻めで戦火にあい、古文書は残っていない
徳川時代は紀州藩の擁護を受けており、吉宗奉納の因州住景長作の大刀@重文がある
神社の紋は全国でも珍しい夏桃
毎年10月14日に行われる「千田祭」には、神前に供えられた6枚の鯛を奪い合う祭りで、鯛を手にすると一年間大漁といわれている
古事記に『大名牟遅神が須佐能男神が坐す「根の堅州国(かたすくに)」に向かう際に、まず木国(紀国)へ向かった』と記されています
またその時、出雲国から追ってきた八十神から大名牟遅神を伊太祁曽三神が逃したとある
御神馬像の近くにある歌碑は、江戸時代の1794年(寛政6年)に、国学者の本居宣長が須佐神社を訪れた際に詠んだもの
碑には「いたけるの 神のしきます 紀の国と いはふかぶろの 神の宮これ」と宣長の真筆が刻まれている
五十猛命はスサノオの御子で、日本に木を植えてまわった神であることから「木の神」とされている
このため参道には、五十猛命を祀る「伊太祁󠄀曽神社(私のNOTE)」の遙拝所がある
実は、須佐神社と伊太祁󠄀曽神社はいまでもつながっている
須佐神社の神戸が伊太祁曽神社の神戸の隣にある
須佐神社の祭りに伊太祁曽神社の神官が参加(伊太祁曽神社から神馬1が奉納されたりしていた)
拝殿の前に「鈴門」があり「れいもん」と読む
鈴門にも、桃を彫った扇形の扁額や桃を描いた提灯が掲げられている
太い鈴緒は「蛇」をイメージしておりヤマタノオロチなのかも
江戸時代には紀州藩主・徳川家の崇敬の社として崇められ、現在の社殿は、藩主・徳川頼宣が復興を図り元の姿に戻したもの
平唐門の中門が建ち、さらにその奥には一間社春日造の「本殿」が建っている
本殿は、第五代紀州藩主・徳川吉宗の命により1711年に造営されたもの
かつては山の上に社があり、海を望む西向きに鎮座していた
海上を往来する船が敬意を示さないと転覆させるなどの神威が発動したため、707年から715年に、海から見えない現在地に遷座した(『紀伊続風土記』より)
旧御鎮座地へは、神楽殿横の登山道から徒歩で約20分で行くことができるよう
社紋の桃をモチーフにした「桃みくじ」がある
おみくじは、部屋に置いておくと、災難除や交通安全など運勢を良い方向に導いてくれるとか
では、写真をどうぞ。
私のNOTEは次の通り。
スサノオの末裔が宮司の出雲・須佐神社は次の通りです。本NOTEは和歌山です。ついでに、スサノオの御子で日本を木々を生い茂らせた神様を祀るところをどうぞ!
→天然盆栽「國津神社」有田から湯浅へ【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
有田から湯浅へ!なんか車幅が1.5台から1.7台ぐらいなのでご注意を!ただ、トンネルが出来ていたりしています。
それはさておき國津神社(国津神社)に惹かれて参拝した!三重の名張や津の北三重で多い神社で、神様がバラバラなんですよね。和歌山と比較すると何か見えてくるのではないのかなと。あと、湯浅で「生しらす」食べたかったのもあるけど・・。
祭神は大己貴命
配祭神に少名彦命、天照大神、伊弉冉命、速玉之男命、奇御気野命、事解男命
(948年、三輪大神の神託で紀伊の海浜に大己貴命を祀ったことから三輪氏が噛んでいる
『紀伊国続風土記』には、「國主大明神社」の記述として、かつて「久豆呂の宮(くずろのみや)」と称していたとあります
ということで参拝です。一応、3台くらい止められる駐車場があります。
私のNOTEは次の通り。
→湯浅の熊野古道「深専寺」唸る御神木【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
久しぶりに湯浅中心地に行って思い出した。道が狭い!!!ということだが、湯浅駅駐車場は2時間無料で、駅でレンタサイクルもあるので、それで回るのも良いかも。
法皇や上皇も訪れたと言われ、行基が開いた
熊野街道沿いにある行基開基の寺院で、当初は「海雲院」と称されていた
明秀上人が再興し「深専寺」と改称
上皇らの熊野参詣の際には宿泊地として定められていたとも
何度も焼失したが、紀州徳川家の援助もあり再建
現在のお堂は江戸時代のものがほとんど
アチコチに熊野古道の看板がある。
私のNOTEは次の通り。
→湯浅駅、かどや食堂
↓の10:30ぐらいに湯浅駅の模様があります。
↓の14:00ぐらいにある「かどや食堂」で昼食!!!
→醍醐寺の国宝はこの寺の移築「勝楽寺/久米崎王子跡」【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
平安時代末期に建てられた熊野古道沿いの寺
平安時代末期~鎌倉時代前期に造られた荘厳な仏像が並ぶ
萬願寺の奥院にて、別所山薬師院勝楽寺が正式名
昔は、塔頭も6坊あったとか
1585年、豊臣秀吉による紀州征伐により衰退
世界遺産である京都の醍醐寺にある金堂は、豊臣秀吉により勝楽寺から移築されたものであると言われ、国宝に指定されている
国道42号線の南から攻めると道は狭いので北側からアプローチが良い。北側も狭いけど・・。一応、駐車スペースがある。
私たちは生シラスで有名な店のところから左に曲がり「萬願寺」経由できたのだが、こちらも道幅は狭いです。
私のNOTEは次の通り。次の神社も一気に書いています。
→湯浅の代表「顯國神社」【和歌山シリーズ】【和歌山紀中シリーズ】
祭神は、オオクニヌシ、スサノオ、イナダヒメ、タケミナカタ、ヌカワヒメと出雲一家ですね
801年、坂上田村麿呂が正殿を造営してオオクニヌシを祀ったのがはじまり
1144年、土豪湯浅権守・藤原宗重が神殿を遷して顯國明神と改称した
1668年、紀州徳川初代藩主・徳川頼宣より顯國大明神の社号を授かり、度々参詣され今に続く
明治に、若宮神社、若恵比須神社、神明神社、稲荷神社、諏訪神社、久米崎神社、天神社、金比羅神社、疱瘡神社、住吉神社、妙顯神社を合祀
鎮守の森は、「一夜の森」や「暁の楓」と呼ばれている
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