★仏像展★世界遺産『建立900年「中尊寺金色堂」』奈良/京都満載『本阿弥光悦の大宇宙』in東京国立博物館
ずっと行きたいと思っていた平泉・中尊寺がトーハクに来た!!建立900年に伴い「中尊寺金色堂」がそのままやってきた!!会場内に入ると大型ディスプレに8K映像によって金色堂を原寸大で再現された仏像群映像が!!凄く期待が膨らむ見せ方!!
映像を観て展示物を見て行くと展示物は少ない・・・。ただ、国宝だらけで、平泉を京都並みに栄えさせた「藤原4代」が眠る金色堂の中央壇の国宝仏像11体が展示されていた。11体すべての仏像が寺外で公開されるのは初めてなんだそうな。かつ、通常はガラス張りで距離が遠いところから見仏するので、近くで360度見られるのは最後かもね。
やっぱ買うべきだったかも。。
変更履歴
2024/03/24 『東京国立博物館 建立900年 特別展「中尊寺金色堂」は信仰と美の耀き』追加
2024/02/12 NHKの特集メモ追記(▼NHK番組「中尊寺金色堂 デジタルで解き明かす900年の謎」)
以降、特別展『建立900年「中尊寺金色堂」』、平常展、特別展『本阿弥光悦の大宇宙』の順で書きます。
▼博物館
▼▼建立900年「中尊寺金色堂」
▼公式HP
▼中尊寺 ※中尊寺の公式HPはこちら
850年、比叡山延暦寺の高僧・慈覚大師円仁により「中尊寺」ができる
※史料はなく、考古学も道半ばであるので厳密には推定前九年合戦、後三年合戦により、藤原清衡は家族を処刑された
1124年、藤原清衡(1056〜1128)によって平和であるように!と建立し、金色堂が完成
→1897年、修理の時の棟札の墨書より年代確定
→木材の年輪からも年代は合っており、地元の木材で出来ていることも判明
→1117年の文書には「金色堂」と記されていた
→棟木の墨書より初代は妻の安倍氏・清原氏・平氏とともに物部清国を大工として雇い金色堂を建立させた
→金色堂の技術は奈良・京都にもないものがあるようで、それほどの力があった
→当初は中央壇のみだったが、その他の須弥壇を追加(専門家で討論中)金色堂は内外は金色で、螺鈿蒔絵の漆工技法を駆使した装飾が施された絢爛豪華な姿を持つ
1126年、藤原清衡により主要な堂塔が完成
戦争のない理想郷を造りたいという趣旨の願文を読み上げたとか
藤原清衡が亡くなると遺体のまま金色堂内に安置された
→その後、棺からミイラが出てきたとさその後、二代目の基衡が引き継ぐ
1157年、「吾朝無双」と称された金堂円隆寺が完成
その後、三代目の秀衡により、基衡の代から造り始めた毛越寺が完成
現在の柳之御所遺跡付近の再整備を行い、無量光院、加羅御所、平泉館を設ける
京都に並ぶぐらい政治・行政上の拠点として栄えた
金色堂は、3つの須弥壇内に「奥州藤原氏4代」の遺体を安置している
「奥州藤原氏4代」は、初代・藤原清衡から、2代目・基衡、3代目・秀衡、4代目・泰衡を指す
金色堂は、厳密には平安時代「阿弥陀堂」であり、東北地方で現存する最古の建造物
今私たちが見る金色堂は昭和の大改修のものである
昭和の大改修までは金の剥落があったようだが、保存状態が良かったのは1288年には覆堂で守ったことが大きな理由のよう
→近畿・中国地方の日本海側は本堂や本堂を覆屋に囲われているところは多いですよね
→松尾芭蕉は「光堂」と呼んだらしいので、「金」は少なかったのかも浄土思想の考え方に基づいて造られた多様な寺院・庭園が残る
1189年、源頼朝により平泉藤原氏滅亡
→私見だが、この時に中尊寺を見て、その後、運慶工房を鎌倉に呼んだのでは?とか見仏しながら思った
→1192年、平泉を模した「永福寺」を建立しており、義経や奥州藤原氏を弔うこの時に平泉の成り立ちなどを纏めさせて、今の平泉と中尊寺の歴史を『吾妻鏡』に記している
(若干、歴史の勝者の脚色はあるかも。吾妻鏡と同年の書物・遺物と違いがあるよう)ちなみに今回展示された11の仏像はこの時からチームであったことも書かれており、仏師は「定朝」とも記されている・・。
(後述するが、見仏した結果、定朝には見えなかった。運慶の父・康慶あたりかなと思ったのだが、慶派ではなく円派の可能性大とのこと。ちなみに仏師集団といえば慶派・円派・院派が有名だが、祖は定朝である。慶派・円派・院派は袂を分けただけ)
→専門家曰く「定朝」が造ったではなく「定朝様式」という意味と解釈されていた1337年、火災でほとんどの御堂や塔や宝物がなくなった・・・
2011年にはユネスコの世界遺産にも登録
現在でも、仏像群と棺などの調査が継続的にされ新発見があるようだ
延暦寺(私のNOTE)の「不滅の法灯」は山形の山寺こと立石寺にも移されているのが、実はここにもバックアップされている!!
▼仏像感想
▽展示リストなど
▽見仏
さて金色堂の仏像フォーメーションは時代とともに変わっていることは判っているようだ。阿弥陀三尊と地蔵菩薩・二天は具材が異なるようで、様々な観点より、西北壇の地蔵菩薩と二天が本来の中央壇のもので、具材、技術、表情などから正しいと識者は想像しているよう。それが分かるように図録には今回展示されていない仏像群も写真が載っていた。納得!!見仏の違和感はなくなった!!
写真は以下のサイトが良い感じですかね。仏像の写真を見ながら読むと良いかも。
※近年、興福寺あたりが本来の仏像チームに戻す傾向にある。もしかしたらここもそうするかもね。
→阿弥陀三尊@国宝(阿弥陀如来坐像@国宝、観音菩薩@国宝、勢至菩薩@国宝)
奈良か京都の仏師作(以降、京仏師)だろうと100%確信する。どれだけの金(カネ)を積んだのだろうか・・・?
たぶん共感してくれる人多いのではないのだろうか?そう、運慶に繋がりそうな阿弥陀如来坐像ではないか?顔の頬のふっくら感は運慶、湛慶、肥後定慶の運慶工房に続きそうな感じがする。(快慶、行快ラインの快慶工房ではない気がする)
この認識が正しければ、慶派の始まりはこの平泉なのかも。仏像の大きさから京仏師(みやこぶっし)が造り、ここに運んだのかもしれない。なぜなら大きさが小ぶりなので、運べる大きさにしたのではないかと。現地で造ったなら慶派の祖であり、運慶の父・康慶世代はここに移ったのかもしれないとか。運慶繋がりを感じたのは仏画「曼荼羅@国宝」の塔の中に如来坐像の印相が鎌倉時代に運慶が造った阿弥陀如来坐像@国宝に繋がっている気がするんです。仏画から仏像を作るのはよくある認識で、この仏画を基に造ったのかもと。
◆阿弥陀如来坐像@国宝:平安時代
仏像の解説には、鎌倉時代で活躍する円派と慶派の技術が入り込んでおり、鎌倉時代の主流技術の最古のものとなっている。ということで、鎌倉時代に修復したとも解釈できるが、識者は、変化を嫌がる保守的な京では無理だった技術が、平泉では受け入れられたと解釈している。なるほど!!
では、仏像の箇条書きです。
定印で蓮華座上に結跏趺坐
円満な姿から京仏師・円勢あたりではないかとのこと
(確かにいわれてみれば円派のような気がする。なぜ慶派と感じたかはこ後述の二天ですね。)寄木造
初代が没した1124年から1128年の作
あと「阿弥陀如来坐像@国宝」の後ろに、藤原清衡の遺体が収められた金箔が貼られた木の棺があった。
◆観音菩薩立像@国宝/勢至菩薩立像@国宝:平安時代
本尊と異なり割矧造だが、本尊と同じ時代の作
仏像の技術も同じものがあるので同時期としている
公式図録でも、京仏師を呼んだか、仏像を水運で運んだかのいずれかと記されていた
→地蔵菩薩立像@国宝×6体
ここまで金が残った地蔵菩薩は珍しい。なおかつ、6体も保存状態が良い。この仏像群はカツラの木のようで阿弥陀三尊とことなることから、他の壇より移されたものとする。(前述の通り、当初から今までに仏像群の組み合わせは変わっている)
三尊とは1世代後に造ったと解釈されているのは、初代とは別に女性も葬られていることからも、後追いとなると整合性は合うということらしい。(やっぱ、専門家は違うな。)
この6体には意味がある。そう「六道」を指しているとの認識だ。六道は人々が死んだ後に行く世界を指し、「(天国)天道>人間道>修羅道>畜生道>餓鬼道>地獄道(地獄)」である。京都の「化野念仏寺(私のNOTE)」「法金剛院(私のNOTE)」「二尊院(私のNOTE)」にも地蔵菩薩6体がいるが、多くは変化六観音(詳細は大報恩寺参照)で表現することが多い。
左手に宝珠、右手は垂下で錫杖は持っていない
一木の割矧造
袈裟に彩色を施している形式がある
所謂「六地蔵菩薩」信仰のようだが、阿弥陀三尊とセットにしたのは謎のよう
(前述の通り)袈裟が一時代後の形式・具材などから、元々は西北須弥壇の阿弥陀三尊とセットだろうとのこと
後述の二天とはセットのようで、二天の造りから鎌倉時代作に近いとも
→持国天立像@国宝、増長天立像@国宝
阿弥陀三尊×二天の組み合わせになるため天台宗とも。鎌倉時代でしょ?と思ってたが平安時代のようだ。京都・浄瑠璃寺(私のNOTE)相当で、ぎゅっと小さくした感じ。東大寺大仏殿の幻の四天王は大きく、小さなモックアップがあったようで、平泉にも、どこかの二天のモックアップがここに流れたとも妄想できるのでは?(ちなみに東大寺の幻の四天王のモックアップは京都・海住山寺(私のNOTE)説がある)
時代的に運慶・快慶より先なのか・・?運慶より前の慶派なんじゃないかなと思わずにはいられない・・。ただ、邪鬼は平安時代だな~という感じですね。
ということだが、図録によると、中央壇以外にあったようだ!ということは平安末期から鎌倉なんじゃないか?慶派の始まりはここか?
妻と私の共通感想が半丈六ぐらいかと思っていたが、小さかっただった(笑)展示室入口の動画を観たら、おっ?小さいと思う人多いような気がする。
▽仏像以外
金と銀を一行ずつ書いた「金銀一切経」「漆塗経箱」などは豊臣秀吉により持ち去られたので5300巻のうち25巻のみ残っている
→そのほかは、和歌山・金剛峯寺(私のNOTE)、大阪・観心寺(私のNOTE)に所要されている
→この紙は京都から調達したことは分かっていることからも、(前述の通り)造った後に仏像も運んだのかなと
→金光明最勝王経@国宝/金字宝塔曼荼羅@国宝
「金光明最勝王経」は金と銀を交互に書かれたもの。
「金字宝塔曼荼羅」は「金光明最勝王経」10巻を一巻一幀として塔の形に書写し、塔の線をお経で描いたもの。宝塔曼荼羅としては京都・立本寺や奈良・談山神社(私のNOTE)の法華経宝塔曼荼羅が有名なようですね。日本最古のものなんだそうな。
オマケです。大阪大学の方が「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図の再検討」を書いています。
→金色院(阿弥陀堂)と金剛堂
模型は写真OKでした。金色堂の中央須弥壇は正面幅が233cmで、奥行が166cm、高さが33cmである。
阿弥陀堂は西を背に東を向いている
平面正方形で内陣と外陣から構成
京都・平等院、奈良・薬師寺も中尊寺金色院並みの金ピカ具合だったとか
ただし、金色堂は昭和の大改修まで金が剥落していた
1962年、今の煌びやかな金色堂の姿に戻る
国宝で「
復元復原」は資料など確実な場合のみできる
→天災・災害で国宝が被害を受けると復興までの時間はかなりかかる。原型を崩せないのが理由の1つだったかと
→重要文化財や国宝のデメリットの1つは、簡単に修復や復原できないことである
5分の1の縮尺で造られた模型なようなので、やはりイメージするより小さいのかなとも。模型と言いつつ金色堂がガラス張りになっていないなと思うのだった・・・。
▼NHK番組「中尊寺金色堂 デジタルで解き明かす900年の謎」
これだけの保存状態が良いのは、母屋、ガラスケースで金色堂を覆い、湿度なども一定にしているためだとか。今回の展示会に際して最新カメラにより金色堂や仏像をあらゆる角度から記録・分析などをしたのが「デジタル金色堂」である。
金色堂の中は、中央、向かって左が西南壇、右が西北壇の3つの須弥壇があり、それぞれの須弥壇は阿弥陀如来、脇侍には聖観音・勢至菩薩、左右に地蔵菩薩6体、手前に二天の計11体の仏像チームで構成されている。
専門家も悩ます「金色堂の建立の謎」
なぜ金色なのか?
初めから金で造られたのだが、これほどの金をどうやって入手したのか?京都・平等院(私の2024年内公開NOTE)、醍醐寺薬師堂(私のNOTE)と比べても、すべて金なのはここだけである。
諸説によると、壮絶な戦いにより亡くなった人々を供養するため40以上の御堂、300以上の禅院を建立したようで「建立願文」には、朝廷・奥州にかかわらず戦で亡くなった人たちを供養したいという思いが記されていることから、この金色堂にしたとも。
この時代背景から「末法思想」が広がり「阿弥陀信仰」が流行るため、それを意識したとも
太陽が沈む日差しが仏像の背後からさし、金が映えることから「西方浄土」を表したとか(今でも兵庫・浄土寺(私のNOTE)にはこの風景が見られるので納得感がある!NHKサイトでそれが観れますね。)
黄金の国ジパングとは東北と聞いたことがある。奈良・東大寺「奈良の大仏」も東北から金を得ていることから、奥州では金に困らなかった?
金色堂美しさの秘密
工芸家は須弥壇に鳳凰ではなくクジャクとなっているのに注目する
クジャクは極楽成就で、チョウや草花は「やまと絵」で表現していると考えている
建築家は金色院に守られている屋根に注目する。瓦や檜皮ではなく「木瓦葺き」なのは耐久性など構造観点ではなく、金色堂の優雅さを優先するためにデザイン重視したのでは?と推測していた(瓦は重みで時間とともに形が変わるなどあるようだ)
歴史家は金色堂で使われている具材に注目する。「螺鈿細工」の凄さに圧倒するという。これは奥州が砂金を持ち、大陸・宋などと独自貿易をしたので、日本にない「夜光貝」を入手し利用したと解釈していた
なぜ?ミイラの棺を納めたのか(昭和の調査より)
須弥壇内にミイラの棺を堂内に納めるのは珍しい(通常は床下などである)
防腐剤などはなく自然なミイラで奥州藤原3代を葬っているとする
棺は外だけではなく内側も金になっており、これは釈迦と同じであることから極楽浄土に導くためと解釈する人もいる
専門家は棺の中にある「曳覆曼荼羅」から、自身の極楽浄土を祈ったのかもという
また、生身往生の思想に従うべく、ミイラになったという専門家がいる(って、空海がこれに近い気がするのは私だけ?)
この棺から見つかった蓮の子孫が、様々な寺に渡っているとか
てな感じですが、短い・・2時間ぶち抜きでも行けそうな感じだったのだが・・・。
▽お勉強セット:平泉と中尊寺へGO
この展示会後に現地に行く方は参考にどうぞ!!
▽メディア紹介(リンク)
中尊寺展の間の金色堂は、配置を変えた姿のようです。
▽オマケ:そうだ平泉、行こう
▽ニュースメモ
▼▼通常展示:仏像ゾーン「京都と奈良の仏像たち」習合していた
→奈良 #子嶋寺 「十一面観音菩薩立像@重文」
『「十一面観音立像@重文」は2メートルの大きさの一木造りで室生寺風の顔である(こちらは東京国立博物館で見仏可能)。』と10年前以上に記している。やっと見仏できた!!
私のNOTEは次の通り。
→奈良 #薬師寺 「十一面観音菩薩立像@重文」
私のNOTEは次の通り。
→京都・亀岡 #大宮神社 「天王立像@重文/吉祥天立像」
→京都・京丹波町 #長楽寺 「阿弥陀如来坐像@重文」
→福島 #勝常寺 「広目天立像@重文」
下の写真の通り写真NGですが、説明書きは撮って良いか?確認したらOK出ました!!
→「千手観音菩薩坐像@重文」
→和歌山 #道成寺 「毘沙門天立像@重文」
おお~エキゾチック毘沙門天ですね。仏像展で何回かお会いしていますが、今はココなんですね。
→不動明王立像
→島根 #赤穴八幡宮 「不動明王立像@重文/息長足姫坐像@重文/八幡神坐像@重文」
▼▼『本阿弥光悦の大宇宙』展
はい、仏像展ではないので入っていないですが、京都の紅葉の名所なので京都来る人はセットで行ってみては?
私のNOTEは次の通り。
▼親と子のギャラリー 中尊寺のかざり
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