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神武東征は東部開拓フロンティア

やまとみずほの国に生まれて  第十八話

前回「神武東征旅立ちは阿波倭国内の蜜月旅行」にて、神武東征の九州編は第6話の「黄泉比良坂は墳墓ハウツー物語」を辿ると記載しました。今回は中国編です。多家神社の東南の外れに、神武天皇聖蹟埃宮・多祁理宮顕彰碑
「たけ」は無理矢理、元々は「おおけ」、太安万侶の多氏を祀る、多神社が本家でしょう。古事記にはきっちり安芸国ではなく、阿岐国と記されます。

阿岐とは阿波の境界、讃岐の岐と同じ意味。阿讃山脈は阿波と讃岐を分岐、分けています。讃岐の讃は倭の五王の「」。そして、安芸の宮島の元宮は自然の山では日本一低い弁天山の頂上にある厳島神社源義経屋島の戦いに急ぐ頃は、眉山の前に鎮座する小島と社の由来は語ります。阿波倭国時代海上交通の安全祈願に最適。そして新居を構えたのが、眉山麓の宅宮神社

第十四話「神武は瓊瓊杵の子?瓊瓊杵は台与の子?」に「出雲歌」が残ると紹介しました。7年過ごしたのは新田開発かもしれませんが、海を渡るのはやはり辰砂若杉山の新坑道は直ぐ枯れました。土地が足りないぐらいで、御子が海を渡りません。ニニギ矢野で実権を握るので遷都ではないです。古事記は吉備国高島宮で8年滞在したと記しますが、吉備は元々和歌山

児島半島は江戸時代まで小島でしたから、神武天皇聖蹟高嶋宮顕彰碑が建つ高島は当時海中でしょう。奥宮に多祁理、いやタテリ岩ある貴志川八幡宮神功皇后三韓征伐の後立ち寄ったことにして、岸宮があった不思議を消しています。貴志は「きし」だけでなく「たかし」と読めます。そして紀ノ川の先に、水銀確保のための東征説を裏付ける丹生都比賣神社が鎮座します。

事代主本拠の岩橋千塚古墳群に近く、ロマンス生まれるのは、当然?必然?

#日本史がすき

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