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【映画感想・後編】当たり前じゃないと思ってた昔の生徒から観た今の当たり前でじゃないこと|大きな家
正月休みの続き
2025年も何か新しいこととしたい…思っていたら、特に何も思い浮かばなかったので、とりあえず、1月2日に映画館に行き、立て続けに2本観てきました↓
今回は、2本目に観た大きな家を取り上げます↓
毎度のことですが、特に前提知識もなく、鑑賞しております点のみ、御承知おきください。
敢えて記事にする理由
本作を映画館で観るときに、こんな感じの注意書きが配られます↓
この映画に登場する子どもたちや職員は、これからもそれぞれの人生を歩んでいきます。
SNS等を通じて、出演者個人に対するプライバシーン侵害やネガティブな意見、各家庭の詮索や勝手な推測、誹謗中傷を発言することはご遠慮ください。
また、近所にお住まいの方は、施設名や地名の言及をお控えください。
どうかご協力をお願いいたします。
…。
まー、SNS等が発展している時代ですから、私と同程度以下の大馬鹿者リテラシーしかない人間が、施設であったり、出演者を晒す危険性はゼロとは言いません。
ただ、その注意書きがありながら、私が本作を敢えて記事にしたいと思った背景に、
①同日、同じ映画館で
②「小学校〜それは小さな社会〜」を観た後すぐに、「大きな家」を観賞した
③作品の性質上、配信・パッケージ化はしないらしいが、
③よく見たら、その映画館で上映最終日だったので、再演の時期も不明だった
自分の中で記録として残したかったというものです。
私の中では、↑↑の注意書きに沿っての記述を心がけている"つもり"ですが、お願いに抵触しているようでしたら、御教示いただければ幸いです。
「日常」を観る中の「偏見」
まず、語弊がないよう申し上げるならば、
映画館で観て、自分で考えてみる
のが好きな方には、良い作品だと思います。
ただ、
上映後に涙を流すほどでもない
とも感じました。
こういうと誤解を招くかもです。
しかし、私から見ると、本作を観て、施設と関わりがなかった人物が涙を流すカタルシスの様子をみると、非常に胡散臭さを感じてしまいます。
本作の、
児童養護施設≒"ふつう"の日常
という主張や考え方には、私の中では、相当程度肯定し得るものです。
ただし、スクリーンに映る"ふつう"の日常というのは、観ている側が、
ほとんどの人が児童養護施設を体験しない
×
出演者の全ての思いが必ず出ている
という前提で成り立っているとも感じます。
穿った見方をすれば、私の中にもあり、多分映画を観る or 観たい方にもあるかもしれない、
拭いきれていないであろう児童養護施設に対する偏見や差別
を前提にして、映像化している…。
加えて、出演者が確かにホンネでは語っているだろうとは思いながらも、
あくまで撮影したソースから切り取られて編集された断片
を観ている…。
この関係が私の中であるからこそ、施設の関係者でもない人物が
"ふつう"の日常という映像を観て涙を流す"行為"
に対して、上から目線的な嫌な感じを覚えてしまうんだろうと考えています。
「日常」を傾聴する価値
カタルシスの話は抜きにして、本作で"語られている“話は、映画館で鑑賞…というよりは、傾聴した方がより作品に入り込みやすいと考えます。
本作では殊更に日常を美化するわけでもなく、それぞれが限られた選択肢を自分で選んでいる姿が、淡々と映し出されています。
出演者が置かれている「相対的な」状況を鑑みれば、いかに竹林亮監督をはじめとする製作陣が、出演者に対して、心を開き、共にしてきた時間があった…。
結果として、撮影できた出演者の「絶対的な」日常の映像だと思います。
「絶対的な」日常だからこそ、いい悪いの判断ではなく、俗っぽい言い方をすればプライスレスの価値があると思います。
プライスレスのものに対して、属人があれこれ品評するのは失礼でしょう。
となると、当事者からお話を伺うという態度でこの作品を観た方が、価値もあり、適しているかなと感じました。
成長の記録の違い
この作品を観た数分前に、小学生〜それは小さな社会〜を鑑賞しました↓
大きな家にしても、小学校〜それは小さな社会〜にしても、集団生活を映しているという乱暴な括り方は可能かと思います。
敢えていうと、
大きな家→ほとんどが経験しない集団生活をストップモーションで観る
小学校→ほとんどが経験する集団生活を早送りで観る
でしょうか。
どちらも、
成長途中にある子ども
を観ることができる点では、どちらも興味深い作品です。
ただ、観た順番も、また作品で主張したい内容の違いも影響してるんでしょうが、
大きな家→無理に開こうとしている空間、淡々とした食事風景、圧迫感を感じない児童養護施設の内部と周辺
小学校→自然と開いている空間、子どもが泣く風景、近隣のマンションの圧迫感を感じる小学校の校舎
が強く印象に残っています。
どちらも舞台は東京なんですが、同じ時間を過ごしているとは思えない感じに襲われました。
大きな家では、子どもたちへのインタビューで大きな家での生活を聞かれ、
家族ではない、施設
と答えている中で、
小学校に登場する子どもは、確かに公立小学校に通っていますが、場所柄(東京都世田谷区の住宅街)を考えれば、日本でもかなり上位の階層に当たる世帯と言っても過言ではないでしょう。
そんな子どもが
小学校の入学前の準備をする親子
の雰囲気とはまるで違う感覚…。
子どもは同じように生きている、しかし、なんともいえない乾いた感じ
が、大きな家にはあったと私は思います。
もっとも、同日視聴しなければ、違う感想かもしれませんが。
思考実験の中で
ということで、正月休みに観た映画の話を記事にしてみました。
立て続けに観たおかげで見えたもの、特に小学生について考える機会があったのも自分にとっては収穫でした。
大きな家にはあって、小学校〜それは小さな社会〜の中に出てくる"大きな家"にはないもの。
もしくは、
"大きな家"にはあって、大きな家にはないもの。
同じ子どもでありながら、生命や後の選挙権では1人のカウント、でも、同じ空の下で違う世界にいる住人のようにも見えてくるもの。
社会的養護は、頭でわかっていながら、実際の「こどもの最善の利益のために」と「社会全体でこどもを育む」が進んでいない気もするモヤモヤ感。
このモヤモヤ感は言葉にしづらいけれども、親が無くとも子は育ってしまう日常。
このあたり、自分の考えを未だに上手く言語化できていません。
確実に言えるのは、大きな家も、また、小学校〜それは小さな社会〜も、実際に映画館で観る…これは本当に薦めたいと思いました。
(了)
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