えれな

2児の母。都会の片隅でぽちぽち文章を打ってます。

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最近の記事

PIERROTとわたし

久しぶりにライブへ行って「やっぱり好きだ」と思ったので、彼らとの出会いから今の気持ちを正直に書き記しておきます。  あれは2000年だったか2001年だったか、正確な年号は思い出せない。中学生だった私は、友人から教えてもらいPIERROTに出会った。  PIERROTは自分でも驚くほどすぐ馴染んでいった。思春期真っ盛り。当然のように中二病疾患済み。鬱屈とした生活を送っているなかで、世相に抗えず負けそうになりながらも人間の可能性を信じていることを歌う彼らを好きになるのにそう

    • 発達障害を持った弟を持つ姉がおいたちを振り返ってみた

       今から30年以上前、発達障害がまだ親から遺伝すると揶揄されていた頃。2つ下の弟に「自閉症」という診断が下された。脳のキャパシティが非常に狭く、こだわりは強く、パニックを起こすとところ構わず暴れた。  弟が迷惑をかけるたびに各方面へ謝る両親の姿が脳裏に媚びりついて離れないし、今もフラッシュバックする。そんな両親を極力見たくないし辛い思いをさせたくなくて、自分自身を「聞き分けのいい子である」と言い聞かせ、強く律した。その結果、大人になった今でも大なり小なり何か失敗をすると自分を

      • 病床に伏す大好きな父の話

         前立腺にがんが見つかったと聞かされたのが今から4年前。前立腺から脳に転移することは珍しいそうなのだが、あろうことか脳へ転移したと聞かされたのは3か月前のこと。  父は、緩和ケア病棟で最期を迎えようとしている。  その前から何度か入退院を繰り返していたものの、家族には辛さひとつ見せずに今年の春まで過ごしてきた。    6月、病院帰りに突然膝から崩れ落ち、歩けなくなった。緊急入院になり、それから一度も家に帰ってこれていない。  8月末。母が焦燥しきった声で電話をしてきた。

        • 所謂「放置子」に出会った。

          放置子は、ネット上で主に使われている言葉で、明確な定義はありません。 「子どもがどこで何をしているのか、親が関心を持たず、ほったらかされている状態の児童」などを指すようです。 (読売新聞記事より) 公園で子供を遊ばせていたら、そこにやってきた三兄弟。 共に遊んでいたお友達のお母さん曰く、離婚して母親不在、父親は昼間から飲んだくれていて子供を放置、よくここの公園に遊びに来ている、ということらしい。子供と共にその子たちを注視してみた。 とてもいい子で、遊びにきた子供の面倒をみ

          自宅で珈琲、始めました。

          ずっとこう思っていた。 「珈琲を自宅でいれる人は本当に珈琲が好きな人がすることで、私なんかがやることじゃない」と。確かに珈琲は好きだ。けれど私に味の違いなんて分かるだろうか。うまく淹れられる自信もない。そうやって敬遠していたのだけれど、少しずつ意識に変化が出てきたのはある珈琲屋さんの存在だった。駅から離れたところでコロナ禍にオープンしたその珈琲屋さん。おいしい珈琲とマフィン、果実ソーダ。私にとって癒しの存在となった。 そして楽しそうに会話をしながら珈琲を淹れる店主のたまさん

          自宅で珈琲、始めました。

          今も大切にしている母からの教え

          小さい時から母に言われてきたことがある。 「人間、眠い・寒い・お腹がすいた。この3つがとにかくダメ。暗いなにかがすぐ手を伸ばしてくるから、自分がちょっと調子悪いなと思ったらまずはここから疑ってみるといい」と。 母は私の顔をみて、すぐれない顔をしているとどこかからチョコレートを持ってきて、毛布で私をグルグル巻きにした。夏でも。 暗い考えを持ちやすい人がちょっと調子が悪いなと原因を探るため心をのぞくとあっという間に奥まで引きずり込まれ、過去の失敗や他人から受けた嫌な事とか、今

          今も大切にしている母からの教え

          丁寧に生きたい。

          新型コロナウイルスの煽りで自分だけじゃなく家族そして世の中のリズムが崩れ、正直精神が参ってる、困った。そんな中で必死に「いつも通り」を作り出そうとしている自分に苦笑いする。それがいままで通りを願っているのか新しい今まで通りを作ろうとしているのか今はまだ判断がつかない。そんなことをじっくり考える暇もなく日々を奔走しているわけだけれども、突然がらりと変わってしまった生活の中で叶えたい願いがあることに気付いた。 「丁寧に生きたい」 普段仕事家事育児の三本柱で奔走し、空き時間を趣

          丁寧に生きたい。