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「杞憂」を再考する / 「杞の国の人」の名誉を回復する文章

TVに「杞憂」の人のコスプレをしている人が映っていた、ハロウィンでのマイナーコスプレ会らしい、変わった会だ。この(女)子曰く、杞憂の凄いマイナス思考が強く印象に残ったらしい。

「杞の国の人が天が落ち、地が崩れたらどうしようか思い悩み、寝ることも食べることも出来なかったということからこの語ができた。」

自分は高校生の頃にこの文を読んで凄い想像力だと思った、現代人と世界観、宇宙観が違う事は分かる。昔だからこそこんな風に想像出来る、でも改めて読み直すと凄い!寝食を忘れる程の想像力と心配症だ。

恐竜が巨大隕石で滅んだのなら、まさに天が落ちて来る様に見えただろうと思う。「杞の国の人」がこれを知ったら、ほら言った通りじゃないか!だから俺の心配を「杞憂」と呼ぶんじゃねぇと言うかも知れない。

調べてみると「列子」だった、記憶違いで「荘子」だと思っていた。でも荘子なら杞憂を良い意味で使いそう。だから調べ直し文章を書くキッカケを与えてくれた、杞憂コスプレ女子の視点には感謝している。

杞憂と言う言葉が長い年月を経て、中国から現代日本で未だに残っている理由を、実は誰も杞憂を「杞憂」だと思えなかったからだと、自分は思っています。
おそらく杞憂コスプレの人も、「凄いマイナス思考が強く印象に残った」と言っても、内心どこかに「寝食を忘れる程の想像力」の杞の国の人に、惹かれるナニカが有ったからだと思います。

まるで、空中に漂う過去にあった生命の記憶か何かを察知したのか、もしくは何かそう言う仕組みが生命にあるのでは無いのか?なんて、考えもする。「杞憂」と言う言葉には想像力を刺激する力が有る。
こう言うのを、スピリチュアル、ニューエイジ、電波、等と言うのには余り賛成したくない。たまたま自分が生まれた時代にインターネットが有り、全ての答えが出ていると勘違いした事による、想像力の欠如だと思う。人類は未だ答えに到達した訳では無い。
どうだろうか?2000年以上の時を経て、「杞の国の人」はこの文章を喜んでくれるだろうか?