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【創作】パパのパッパルデッレ

 妻のことを「ママ」と呼ぶようになって、もう何年経っただろう。最初は照れてたママもボクのことをパパと呼んだ。ボクの作るご飯で特に褒めてくれたのが「パパのパッパルデッレ」だ。パパとパッパルデッレの響きの似ているのを喜んだ。
 ママが帰ってくるのが21時くらいだから、そろそろかなと思って、ボクは牛すね肉の具合を確かめた。
 最初のうち、IHコンロは、火の加減がわからなくて嫌厭してたが今では慣れた。鍋は小さな気泡を膨らませ、スネ肉をぐつぐつと煮ている。蓋を開けると、赤ワインの香りが鍋裏に閉じ込められていた。記念日に二人で飲んだものの余りだった。開けるのは惜しい気もしたが、スープの味を確かめた。
 レードルですくったラグーソースは、トマトの自然なとろみをまとい、味見皿に流れた。その皿もレードルも、付き合っていた頃に彼女が使っていたものだった。彼女の調理道具を使うと、彼女がそばにいる気がして、寂しさが少しだけ薄れる。
 ラグーを啜ると、ママの好きな味に仕上がっていた。
 早く帰ってきてほしい。
 あの時と変わらないこのソースに、ママは飛び跳ねて喜ぶだろう。付き合いたての頃の、あのキラキラした笑顔が今も瞼の裏で輝いている。
 時計を見ると21時を過ぎていた。
 忙しくても、前は手が空いたときに連絡をくれたのに。
 二日目のカレーも美味しいけど、二日目のラグーソースも彼女の大好物だった。
 本当はもう食べ頃のはずなのに、とIHのタイマーに目を落とすと、すでに止まっていた。あれ、いつからと思う。
 ママがいたら、「もう火を止めていいよ」とケタケタ笑ってくれただろう。そんな思いも鍋蓋を閉じるのと一緒に閉じ込めた。
 ママの好きなラジオ番組が23時を告げた。
 ママに「先に食べるから、残りはお弁当にするね」とメッセージを送る。既読がつかないことは、見なくてもわかっていた。
 湯を沸かす間に、昨日彼女に作った弁当の蓋を開けた。一口も手をつけられなかったのは、ママが帰ってこなかったからだ。お昼頃にふらっと顔を出すかと思ったけれど、結局来なかった。
 ハンバーグにカビが生えていた。思わず、しばらく蓋を閉じられずにいた。
 「もしかしたら、明日くらいには食べてくれるかもしれない」
 そんな期待を抱く自分が嫌になって、残飯と呼ぶには綺麗な塊をゴミ箱に落とした。
 沸騰した湯に、二掴みのパッパルデッレを落とす。
 ボクが食べるだけなら、何のパスタでもいい。でも、急に帰ってきて何もないのも可哀想だし、最初にパッパルデッレを振る舞ったとき、ママが「モチモチしてて美味しい」と笑っていたのを思い出した。
 お弁当箱を洗いながら考える。
 もう、何回目だろう。こんなの。
 ママからの連絡は、もうずっと帰ってきていない。
 それを認めたくなくて、毎日お弁当を作り続けているのかもしれない。
 そんな気持ちをもう伸びることのないパッパルデッレで誤魔化しているのかもしれない。思い出が伸びて千切れないように。
 鍋に塩を入れるのを忘れたことに気がついたが、ラグーが包んでくれるだろうと、そのままにした。
 茹で上がったパッパルデッレにラグーを絡める。
 「いただきます」も言わずに、台所で一口食べた。
 やっぱり、塩が足りない。
 でも、今日はいつもよりしょっぱく感じる。
 何が足りなくて、何が多すぎるのか。
 まだ固いパッパルデッレを噛みしめ笑った。ほんとにこんな味だったのだろうか。ママの居ない今となっては、分からない。彼女とよく食べたはずのラグーソースのパッパルデッレの味も思い出せなかった。何も分からないままいっぺんにかき込んで完食した。
 ママの好きだった10分間のラジオ番組のDJが閉会の挨拶を陽気に告げた。

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