『アイ・フィール・プリティー』を観て②カラダとココロのあれこれを考える
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
今回は、前回に続いて「アイ・フィール・プリティー」を取り上げます。パート2です^^
前回は、自己受容とセルフ・コンパッションについて書きました。
この映画は総じて「元気をもらえる」「ポジティブな気持ちになった」などの感想が多く「自己肯定感が上がる映画」として広く取り上げられることも多いようです。
ちなみに、わたしxyzが選んだ自己肯定感が上がる映画はこちらで読めます^^
わたしは、この記事を書いた時「アイ・フィール・プリティー」は敢えて入れませんでした。なぜか。
たしかに面白いのだけど、後味何かもやもやが残る…。
もやもやの正体は?
一見ハッピーなエンディングのようですが、ラストでレネーがまたジムでエアロバイクを必死に漕いでいる姿(相変わらず周りは細い人だらけ)を見て「うーん……」と思ったのです。
結局ソコに行き着くのか、と。
やっぱり、痩せることが正義なの?
モデルのようなナイスバディ体型が理想なの?
きれいになりたい、ステキな自分になりたい、というレネーの向上心にまでケチをつける気はないのですが、なんだろう、このもやもやとした気持ちは……?
表向きポジティブ、実は「ボディー・シェイミング」?
映画の制作者がどこまで意図して描いているのかはわかりません。
でも、結局のところ……理想の姿は「痩せてかっこいいモデルのような女」なのですよね。
だから、最後にまたレネーにエアロバイクを漕がせるシーンを作るわけです。
この映画の笑いのツボのほとんどは「気のいいおデブちゃんが勘違いして、かっこいい女気取りでやけに自信たっぷりに振る舞ってる」ことが滑稽で可笑しい、にあります。
この「勘違いして、いい女気取り」「外見と行動のギャップ」を笑い事にしているところが何とももやもやするのです。
デブが自信満々じゃダメなの?
カッコいい服を着たりカッコいい振る舞いはスタイル抜群の美女にしか許されないの?
許すって、誰が?
理想の「いい女像」は誰が作ったの?
ヒロインのおデブちゃんへの憐れみ(の裏に隠された嘲笑)の目線。
この制作者側の目線こそが「ボディー・シェイミング」ではないのかなと感じました。
英語のWikipediaしか見つけることができませんでしたが、一言で表現するならば「外見を値踏みし、相手を馬鹿にしたり批判する行為」を指します。
この「ボディー・シェイミング」に批判的な流れを受けて、やがて生まれたのが「ボディー・ポジティブ」です。
自信満々でいいじゃない!
ファッションだって自分の好きなものを堂々と着ればいい。
自分がどうしたいのかをもっと大切にしてもいいんじゃない?
他人がどう思おうと、自分のしたいことをすればいいんじゃない?
「ボディー・ポジティブ」という考え
一見この映画は、「ボディーポジティブ」を謳っているようではあります。
「ボディー・ポジティブ」とは、従来の「美の基準」から解放されて、体型にも多様性を認めようというムーブメントです。
自分のありのままの姿を認め、向き合おう、という考えです。
ボディー・ポジティブというと、プラスサイズモデルのことばかり、そして女性ばかりが取り沙汰されますが、本来のボディ・ポジティブは肥満体型に限定していませんし、もちろんジェンダーフリーです。
最近では、身体的特徴や障害、人種や年齢、ジェンダーの多様性なども含めて、自分の身体や外見をまるっと肯定する……そんな広がりを見せています。
美は見る人の目の中に
そもそも「美の基準」は誰が決めたのでしょう?
美とその基準ほど、主観的なものはないとわたしは思います。
見る人の主観、意識、生きている時代、文化的背景によっても違う、それが美です。
たとえば、以前インドでは太った、豊満な女性が美しいとされていました。
ふくよか=富のイメージ、と認識されてきた影響もあります。
このように、様々な美の基準が世界には存在し、それらを受け入れることは、多様性を尊重する姿勢、「ダイバーシティ&インクルージョン」にも繋がりますね。
このテーマに触れている記事はこちらから読めます。
そして、時代は「ボディー・ニュートラル」へ
最近では「ボディー・ポジティブ」からもう一歩進んで「ボディー・ニュートラル」へシフトしています。
一言で言えば「無理にポジティブにならなくていいんだよ!」ってことです。
「ボディーポジティブ」が「世間が何と言おうとわたしは自分の体がすき!ありのままの体が美しいのだから!」というメッセージだとすると、「ボディーニュートラル」は「自分の体がどうしたって気に入らない時もある。でも、それでいいじゃない!どんな体でもわたしの価値は変わらない」というメッセージです。
自分の体(体型)への意識が、より自然に、ニュートラル(中立的)になってきており、無理にポジティブになる必要はないと伝えてきます。
「こういう見た目であるべき」という考え方は、人々が作り出した幻想であるということを認識すると同時に「自分の身体を愛すべき」「ポジティブでいよう」という考え方もまた、人々が作り出した幻想であり圧力であると知る必要があります。
「世間」や「流行」といったカタに無理やり自分をあてはめなくていいのでは?
その姿は、本当に自分のありたい姿?
ポジティブでいなければ、と無理していない?
自分でコントロールができないことは、あるがままに受け入れる。どんな形であれ、自分を偽る苦しみから解放されよう……そんなムーブメントなのかな、とわたしは理解しました。
行きすぎたポジティブは毒
トキシックポジティビティ(toxic positivity)という言葉を聞いたことはありますか?
直訳すると「有害なポジティブさ」です。
以前Twitterでもこのことを呟いたことがありました。
自分の本当の心の状態を無視し、否定してまでも、ポジティブであり続けようとする(また、周りにもそれを要求する)……それは毒になるポジティブです。
もっと自分を、他人を大切にしよう。
もっと自分を、他人を解放しよう。
だからこそ、セルフ・コンパッション(自分への慈しみ)が大切なわけで。
この部分を、是非映画で丁寧に描いてほしかった!
そうすれば、もっとたくさんの人を勇気付けられたと思うし、すべての人に救いになる映画になったのではないかなぁと、個人的には思います。
「ブリジット・ジョーンズ」との違い
わたしは「ブリジット・ジョーンズの日記」が大好きです。
主人公ブリジットも、レネー同様、アラサーぽっちゃり系女子です。
ブリジットのすごいところは、どんなに最悪な自分からも目を逸らさずに、正直に日記に書き留めておくことです。
これ、自己内省ですよね。
毎日書くことによって内省は深まり、自分の一挙一動に一喜一憂しながらもどんな自分も見捨てないブリジットです。そんな素直で自然体なブリジットだから、周りに愛されるのだと思います。
ブリジット・ジョーンズの映画からは、制作者側のブリジットへの「ありのままでいいんだよ」というあたたかいエール、ボディー・ニュートラル的なメッセージを感じるのです。だから見終わった後にわたしはもやもやを感じなかったのだと思います。
「アイ・フィール・プリティー」も、制作者側のレネー(のスタイル)への尊重や心からのエールが感じられたならば、もやもやを感じなかったのかな。
今日のところは、この辺で。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました^^