評論について僕が語ること
✳️本記事は2021年11月に投稿したアメブロを大幅に改訂したものとなります
僕自身は評論家でないばかりではなく、目指してさえいないのだが、執筆中に頭の片隅で常に思考し続けているのは「評論」そのものの必要性である。
ブログでもツイッターでも「評論」までいかないが、感想や意見が(時に忌憚なく)語られることがある。人は表現する生き物だから、音楽を聞いて湧き上がってきた感情や感想を自分の中にそのまま落とし込んでおくことは基本的にできないであろうと思う。これだけ簡単に個人が発信できるようになった世界では特にそうだ―。
最近僕は、NHK-FMのクラシック番組でのツイートを心から楽しんでいる。常連の方々に混じって即興的に感じた点、閃いた言葉を自由にツイートしている。「いいね!」の反応は確かに自己肯定感を高めてくれる。承認欲求を満たすべく、多くのリアクションを引き起こすツイートに専念する人々の気持ちもわからなくはない。ある時、ツイートの内容をさりげなく窘められたことが一度あった。その方は実際オケで活躍されている方のようなので、内容が荒唐無稽に思われたのかもしれない。そういう方々によって「清浄化」されている感があった一方で、素人の妄想ツイートを許容する「器」も必要なのでは?と感じたのも事実だ。
音楽ブログをそんなに見ているわけではないが―ブログ執筆するようになったら益々見なくなった―、大体は(失礼ながら)「感想」に留まるものだと認識している―僕自身のブログも含めて。最近感じるのは長文化が著しいこと。それに文章よりも動画に頼る傾向も見られてきた。語彙力や感性を磨き上げるために、読書や鑑賞に励んでいきたいものである―。中には読んでて「目から鱗」の経験をすることもあるし、豊かなパースペクティヴで全体を語る文章も見られる。この記事のような稚拙な内容でも嬉しいコメントを頂くこともあり恐れ多いことだ―。
さて「音楽評論」はいつから行われるようになったのだろうか―。
「評論」と結びついている要素の1つにメディアがあると思う―受容する側がいて初めて成立するものであるからだ。というわけで恐らく、作品初演の状況が新聞などに書かれるようになってから、定着していった分野ではないかと推測している(調査したが、はっきりとしたことはわからなかった)。それを職業的に行う人たちもいただろうが、現代ほど多くはあるまい。
むしろ「当時」は(僕はベートーヴェン以降の時代を念頭に置いている)、作曲家や演奏家による評論が一般的だったと思われる。ある意味、実際に音楽に関わっている立場からの評論にはかなりの説得力があるように思うが、その分シビアな内容になることは避けられない。「モニュメント的大作」となれば、こぞって多くの言葉が費やされることになる(「第九」はまさにその一例であろう)。ウィキペディアをはじめとして、ライナーノーツにも当時の評判なり批評なりが引用されることもある。とても貴重な情報といえる。
面白いのは評論により、評者の人となりや価値観、立場が明るみにされることだ。結局のところ、人は何かを語るとき、その対象は自らを語るための媒体に過ぎないのではないか―と思わせられることもあれば、極力客観性を重んじ、データのみを語るケースも見受けられ、奥の深い分野だと痛感させられる(それもまた、ひとつの「立場」を示すものだ)。
これまで数多くの賛辞が捧げられてきた「バイロイトの第九」。作品についても、この演奏についても、最も評論されてきたものかもしれない。数年前、BISレーベルからスウェーデン放送音源盤がリリースされ、話題を呼んだのも記憶に新しい―。
これもまた多くの批評というか騒動となった有名な「ハルサイ」。福間洸太朗が2台ピアノ版でわかりやすく説明―。
スキャンダラスなダンスが批判された作品であったが、現代ではむしろ無限の可能性を秘めていて、様々な新アプローチが登場している。その中でも、このプロジェクトは純粋に音そのものから導き出されたアプローチをとる。
過去そして現在の音楽評論家たちによるガイドブックに再三お世話になった方々は多いことだろう(もちろん僕もその1人である)。彼らはビギナーの、そしてクラヲタたちの音楽観を導き、時にはアドバイスを示すものとなっている。彼らの評論が「感想」でないのは何故であろうか―。
一番わかりやすい線引きは「専門知識」であり、社会的信用に基づく「立場」である。評論家の中にはスコアを注意深く研究して説明できる方々もいる。示唆に富み、リスニングにも役立つ知識だ。もちろん、主観で語る(ように見える)評論家もいるし、様々だ―。
僕の知人のリスナーはCD1万枚を超えるコレクションを所有しているが、ビギナーの頃に指針としたのは音楽評論家・志鳥栄八郎氏によるガイドブックで、まずは紹介されている音源をすべて入手し、聞いたという。年数と共に(評論の切り込み等で)分厚くなったそのガイドブックには、克明にその後に購入したアルバムがメモされていた。僕は御多聞に漏れず、宇野功芳氏の評論を楽しんだ。その断定的な言い回しには、何やらカリスマ性が潜んでいたのか、惹きつけられるものがあった。吉田秀和氏はかなり後になってから、評論やラジオで親しんだ。月刊誌「レコード芸術」は毎月楽しみにしている音楽誌であるが、個性的な評論家が相次いでこの世を去ってしまったので、かなり常識的というか、平凡な批評に留まってしまっているのは仕方の無いことなのかもしれない―それでも「古典派」に強い安田和信氏の評論には影響を受けた方かもしれない。今となっては懐かしい話である。
宇野功芳/大阪po.の一期一会のライヴ。彼が信奉する往年の指揮者へのオマージュに満ちている。トンデモ演奏には違いないが、「評論家」という名のクラヲタの夢を実現してしまった感があるといえよう―。
宇野氏への貴重なインタビュー。上記の演奏会についても触れている。
時に演奏家の中から、批評に関する「本音」が聞こえることもある―つまり「だったら演奏してみたら?」というものだ。特に演奏実践を伴わない評論家が大半となった現代においてはそうで、さらには(前述したように)素人でも気軽に発言できる現在ではまさにそうなのだ。確かに一理あるが、「演奏できること」と「評論すること」はジャンルが違うし、もっといえば「演奏すること」と「聴くこと」もイコールではないと思う。それぞれは別な才能だと感じている。そして素人の意見は貴重だと思う―なぜなら、演奏家の向こうにいるのは聴衆だからであり、その大半は素人であるからだ。仮に音楽的素養は限られていても、聴衆はきちんと音楽を聞き分けられる。彼らの直感を侮るべきではないのだ。
以前ブログで取り上げた、サー・アンドラーシュ・シフの著書「静寂から音楽が生まれる」の後半のエピソードの中に、批評についての項目があった。彼は「現代の音楽批評が大変な課題を抱えている」と述べる―かつては新聞をにぎわせていた音楽批評が今では、限られた範囲でしか載せられなくなった。世界を見ても「ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥンク紙」と「ニューヨーク・タイムズ紙」のみ、と彼は言う(前者はシューマンが1834年に創刊以来続いている。僕は調査するまで、シューマンが最初の音楽評論家だと思っていたが、違うようだ)。しかも人々はコンサートの批評が出るまで「判断保留」にしてしまっている、と嘆いている。一般的に人々は批評を重んじる傾向にあると思う―人々からどう思われているかを気にするのと同じだ。ブルックナーが批評に敏感で、言われる度に作品の改訂を施していたことを思い出す。音楽関係者にとって、大きな影響力があった評論家エドゥアルト・ハンスリック (1825-1904)、現在ではヨアヒム・カイザー (1928-2017) といった評論家の意見を鵜吞みにしないということは難しいに違いない。先程の本の中で、シフは1つのエピソードを紹介している。
指揮者のイヴァン・フィッシャーがある時酷評され、悲しみに沈んでいた時、アンタル・ドラティがこう励ましたという―。
結論としてシフは「批評を読まない音楽家はいない」と断言している。
先日、県立図書館に行った時、ふと目に入った本があった―。
この種の本は昔からあったが、今回の内容と重なるところがあったため、つい借りてきてしまった(本当は1つの記事として扱っても良いのかもしれないが、あまり悪口だらけのものを扱うのには抵抗があったので、ここでまとめて扱うことにした)。
「ゴシップ」や「悪口」には魅力がある(と感じる部分が人には必ず存在する)。「酷評」は(場合によって)アンチテーゼにもなれば、時に固定観念を改めさせられる機会ともなろう。そして真剣に向き合わなければできないケースもある。これらを読んでいて感じた点である。この本にはベートーヴェン以降の43人の作曲家への酷評が載せられているが、特に多かったのはどの作曲家だろうか?因みに、酷評が載せられていないメジャーな作曲家が1人いるが、誰だろうか?
(答えは最後に)
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最後に、現段階で僕が感じている「評論」の在り方を語ろうと思う―。
僕は「評論家」が絶対必要だとは思っていないが、書かれている内容を有効活用するのが良いと思う。自分の感性に合った、あるいは驚きと発見をもたらしてくれる批評に出会えたとしたら、それは財産の一部となるはずである。
自分が感想を述べる、ないしは評論する時はどうだろうか?
「表現の自由」を振りかざして、何でも語れば良いというわけにはいかないが―最低限のマナーは「人」として必要である―、僕はできるだけ「ジャッジする」ことを控えている。作品について語ることは有益かもしれない。だが、演奏家について語るのは難しく感じている。(往年の演奏家ならまだしも)実際の演奏会の場合は特にそうだ。時折、些細なミスを指摘する人々もおられるが、その発言にほとんど実質的意味はないと感じている。生産性がない発言だからだ。
ただ、商品としてのアルバムに対しては少し異なるかもしれない―自分のコレクションに含めるかどうかの判断を僕は慎重に行ってきたし、これからもそうするつもりだからだ。そして厳選した所有CDについて引き続きブログにしたためてゆきたいと思う。
ツイッターで発言する機会も増えたが、他の誰かが愛聴しているアルバムやアーティスト、演奏を否定することはしない―というかできない。その根底にある「(アーティストや作品を含む) 音楽への愛」に共感するからだ―それに比べれば、演奏の違いは些細なことである。
前述の本「クラシック名曲酷評事典」には望月京氏によるエッセイが掲載されていた。その中で「村上春樹/村上さんのところ」(2018)について触れられ、「優雅に生きることが一番の仕返しになる (Living well is the best revenge) 」という諺の引用とともに、批判に強くなる唯一の方法として「批判を目にしないこと」、見てしまったときには「おまえは評論家になりたいのか、創作者になりたいのか」と自分に問いかけることだ、と提案している。「どれだけこっぴどく批判されても、何も作り出さずに批判だけする側に回るよりは、何かを作り出して批判される側に回るほうが、まだいいよな」と思えるはずだ、とも述べている。「創作者」ならぬ演奏者の方々はどう思われるだろうか―僕が演奏する側であったなら、おそらく共感すると思う。
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前述の問題の解答―。
ベートーヴェン、ドビュッシー、シェーンベルク、ワーグナーの4人が群を抜いて酷評が多かった(想像通りだろうか)。ストラヴィンスキーが割と少なめだったのが意外だった。
「載せられていなかったメジャーな作曲家」というのはシューベルトである。何故かは明らかにされてはいない―勿論それは彼が全く批判にさらされなかった、という意味ではないだろう。愛されはしただろうが。
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