聖徳太子と秦河勝 〜もしかしたら宗教戦争はキリスト教も絡んでいたのでは?〜
聖徳太子の側近だった秦河勝その時代は、飛鳥時代であり、
仏の力を使って国を収めようとした蘇我氏VS神道がこそが日本の形だとした物部氏。
どちらかと言うと聖徳太子のお母さんは蘇我氏の一族、なので蘇我馬子はおばあちゃんの兄弟。
蘇我馬子は仏教で国を収めるために、聖徳太子を利用したのでは。
聖徳太子は高句麗から来た恵慈、恵聡の元仏教を学び「三経義疏」を完成した。
その聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋との戦いで四天王寺に誓願。
蘇我馬子が物部守屋に勝利した。
そこまで仏教派の聖徳太子。
その聖徳太子には逸話も多い。
太子は、母の体内にいる段階ですでに言葉を発し、4ヶ月で会話ができた。2歳の時に釈迦入滅の日に東に向かって手を合わせ「南無仏」と唱えた。
4歳の頃に鞭を受け入れ私を叩いてくださいと逃げずに親に伝え関心されたなど。
やはり、一番気になるワードは、日本書紀に記載された馬小屋で生まれた厩戸王とのことでキリスト教との兼ね合いを示唆する場面だ。
仏の道一筋の聖徳太子が日本書紀のところであえてかどうか、
馬小屋で生まれたと書かれていると言う。
また、622年聖徳太子が亡くなる前日に妃の膳部大郎女がなくなっている。暗殺されたのだろうか、糸は不明、病で亡くなっているとされる。
その後、623年太子の命日に恵慈が死去。
626年蘇我馬子が死去。
643年蘇我宗家の関係が悪化し蘇我入鹿が斑鳩宮を攻撃し山背大兄王など太子の一族が滅亡する。
この山背大兄王がキーワードにもなってくる。
これで、聖徳太子と一族が滅亡した。
秦河勝は、
聖徳太子の側近である秦河勝は、太子の矢が当たった物部守屋の首を切ったとされる。
秦河勝は、聖徳太子に仕えた。
その関係性を表すものとして、
603年秦河勝が聖徳太子から賜った仏像として広隆寺の弥勒菩薩があるのも有名。
一時期、蘇我氏、聖徳太子と共に物部守屋を打ち仏教を主体として、国造りに貢献した秦河勝。
ちなみに蘇我氏のバックには東漢氏、東漢氏も帰化人である。東漢氏と秦氏はこの時代の帰化人としての2代勢力であり、東漢氏の方が有力だったとの記載もある。
後に秦氏が有力となって行く。
しかし、聖徳太子を失った秦河勝は蘇我氏に追われて兵庫県赤穂市坂越に流れ着いたと言う伝承あり。
ここで気になるのが、なぜ蘇我氏に追われたのか?
聖徳太子と共に行動していた秦河勝、蘇我入鹿に滅ぼされた太子の一族、山背大兄王。
太子の側近だった蘇我入鹿が追ってを放った可能性がある。
そして、秦河勝は兵庫県赤穂市に流れついた。
秦河勝と関係がある神社に大避神社がある、その神社や祭りにはユダヤと関係があるのではないかとされている。
それについてはネットで調べると色々出てくる。
もしそうであれば、聖徳太子の伝説や秦河勝の野望的な部分も見えてきそうだ。
ここからは僕の考察ですが、
物部氏(神道)VS蘇我氏(仏教)・・・聖徳太子(仏教)ー秦河勝(景教)
秦河勝は聖徳太子を仕えて、その側近として活躍し、山背大兄王になった時に景教も取り入れようとしたのではないか。
なぜ、そう考えたか。
蘇我氏の側近であった東漢氏は漢民族の末裔とされ仏教を信仰、蘇我氏が東漢氏を丸め込むには、仏教を推し進めるしかなかった。
もしかしたら、蘇我馬子を操ったのは東漢氏?
それを見ていた秦河勝は、蘇我馬子の孫、聖徳太子に付き、次期天皇となるものに寄り添い景教の布教を伺っていたのではないか。
その次期天皇候補が、山背大兄王、
山背大兄王は蘇我入鹿により自害する。
山背大兄王は平和主義であり、天下争乱は悪であり、平和が善とする考えであった。
さらに、自害することで多くの人々を救うために自分の命を投げ出したとも考えられています。
この行動と思想はキリストの行動にも似ている気がします。
そこには、山背大兄王をバックで支えていた秦河勝の存在があり景教の側面もあったのでしょうか。
気になります。
山背大兄王の死後、それを見破られたのか、仏教派の蘇我氏が秦河勝を追いやったのではないでしょうか。
そして日本書紀に記された聖徳太子の馬小屋伝説。
古事記は国内。日本書紀は海外向けとされていること。
海外向けとなると、日本はこの時代から景教、キリスト教もあったよ。
と、
全ての宗教も受け入れていたよ。
といいたかったのでしょうか。
その裏のメッセージに、秦河勝がいたことも事実。
まだまだ、なぞなぞは尽きません。
何かヒント等あれば今後の考察の手がかりになりますので、コメント欄等で教えていただけるとありがたいです。