
女衒(ぜげん)とは何か、その歴史的背景
女衒(ぜげん)とは何か、その歴史的背景
女衒とは、歴史的に遊廓(公娼施設)や花街に女性を斡旋することを業とした人々のことである
。江戸時代後期には既にその存在が確認されており、当時の文献には「貧しい農民の家から娘を買い取り、遊廓に売る人買い稼業」として女衒が描かれている
。女衒は「嬪夫(ぴんぷ)」とも呼ばれ、売春労働に女性を仲介する専門家であった。彼らは女性の容姿や素質を瞬時に見極め、遊女としての価値を査定する技能を持ち、契約のための書類作成や証文の取り交わしといった事務能力にも長けていたと伝えられる
。こうした能力から、遊廓や貸座敷営業にとって女衒は欠くことのできない存在であり、娘の身売り額の一部(およそ1~2割)を斡旋手数料として収受していた
。女衒の歴史的起源は明確には定まっていないものの、江戸以前からの人身売買や遊女制度と深く結びついて発展してきたと考えられる。
花街文化の起源と発展
「花街(かがい)」とは、芸妓や舞妓が所属し、料亭やお茶屋など宴席の場が集積する特定の区域を指す。日本各地の都市で江戸時代から発達した花街は、遊興と芸能の中心地として独自の文化を育んできた。京都の花街はその代表例であり、中でも祇園は江戸時代初期(寛永年間)に八坂神社門前の茶屋町として発祥し、明治以降も京都を代表する花街として繁栄してきた
。祇園では明治5年(1872年)に第三世井上八千代によって創始された「都をどり」に代表される舞踊公演が行われ
、芸妓・舞妓による高度な芸能が地域の観光資源ともなっている。また、京都最古の花街とされる上七軒は室町時代中期に起源を持ち、安土桃山時代には豊臣秀吉によって茶屋営業が公許されて以降、格式高い歓楽街として発展してきた
。このように、京都には歴史的経緯を異にする複数の花街が存在し、それぞれが地域の伝統文化と結びつきながら発展してきた。花街文化は江戸時代の遊郭制度や都市の社交需要を背景に成立し、明治以降も形を変えつつ日本の都市文化の一翼を担ってきたのである。
女衒の制度と役割(明治・大正・昭和・現代)
女衒の社会的役割
女衒は上述の通り、女性を遊廓や芸妓屋へ仲介するブローカーとして機能した。社会的には、都市の歓楽業を下支えする人材供給者としての役割を果たし、特に近代以前の地域社会では貧困家庭が娘を手放す際の受け皿ともなっていた
。一方で、その実態はしばしば人身売買と紙一重であり、経済的困窮に付け込んで少女を売買する悪徳な面が強調されることも多い
。明治・大正期の資料でも、「純潔な娘が自ら望んで娼妓になるのではなく、必ず陰に女衒という悪魔の手が動いている」といった表現で、女衒が若い女性を娼妓に誘い込む張本人であると非難されている
。すなわち、女衒は都市の遊興産業に労働力を供給する存在であると同時に、女性の人格や人権を踏みにじる存在として社会問題視されてもいたのである。
明治・大正期における公娼制度と女衒の関わり
明治維新後、政府は近代国家建設の一環として公娼制度の整備と性風俗の統制に乗り出した。しかしその過程は矛盾を孕んでいた。1872年(明治5年)には「芸娼妓解放令」(人身売買禁止令)が布告され、芸妓・娼妓などの年季契約による拘束を禁止し、前借金の無効を宣言した
。この布告により名目上は娼妓や芸妓の人身売買は禁じられ、彼女らは自由の身となったはずであった
。しかし実際には、同年中に「当人の望みによる稼業ならば許可する」との趣旨の布告(東京府令第704号・707号)が出され、娼妓たちは「自らの意思で」稼業を続ける形で営業が継続された
。結果として解放令は骨抜きにされ、旧来の遊廓は名称を「貸座敷」と変えただけで存続し、公娼制度は事実上温存・再編成された
。その後も貧困家庭による娘の身売りは後を絶たず、法の目をかいくぐって女衒による人身売買が明治期を通じて続行された
。明治政府が進めた富国強兵政策の中で、海外に渡って外貨を稼ぐ「からゆきさん」と呼ばれる日本人娼婦も登場し、彼女らを送り出す際にも女衒が深く関与した
。国家は公娼制度による税収を得つつ、一方で国際的な人身売買禁止の潮流に対処する必要にも迫られ、政策は揺れ動いたのである。
大正期に入ると、女衒に対する統制が強化され始めた。1920年代には女衒による少女誘拐や詐欺まがいの勧誘が社会問題化し、「芸娼妓酌婦紹介業者」という名称で公的な免許制の下に女衒を組み込む試みが行われた
。1917年(大正6年)には警視庁が「紹介営業取締規則」を定め、女衒業者に免許を与えて仲介手数料の上限を設けるなどの制度整備に乗り出した
。全国的にも1927年(昭和2年)に内務省令として同様の規則が制定され、官営の職業紹介所では娼妓の斡旋をしないことなどが定められた
。これにより表面的には女衒は行政管理下に置かれ、公娼制度の中で一定の合法性を与えられた。しかし、こうした免許制にもかかわらず、悪質な女衒による人身売買や違法な誘拐は完全には無くならなかった
。免許を得た良心的な業者が業界の浄化を図ろうとした動きもあったが、免許業者と無免許業者が裏で結託する事例もあり、自浄作用は功を奏しなかったとされる
。さらに、1920年代の遊廓では娼妓の応募者数が需要を満たせず、遊廓業者が「上玉」と呼ばれる美貌の女性ばかりを求めた結果、女衒たちは高く売れる美人を探し出すことに奔走した
。時には違法業者と組んで誘拐・拉致に手を染め、女性を強制的に売り飛ばすケースすらあった
。こうした実態は、表の制度と裏社会の双方で女衒が絡み、公娼制度下でも人身売買的な性格が色濃く残っていたことを示唆している。
昭和時代の戦後改革と花街の変遷
第二次世界大戦前夜から終戦直後にかけて、公娼制度と花街文化は大きな転換点を迎えた。戦時中、日本国内では国家総動員体制の下で娼妓や芸妓にも動員や転業が求められ、多くの芸妓・娼妓が工場労働や看護要員などに従事するため花街を去った。さらに戦時下では日本軍向けの慰安婦制度が拡大し、朝鮮や台湾出身の若い女性が女衒の仲介で戦地の慰安所に送られるという人身売買も行われた
。このように昭和前期には公娼・花街制度は戦争体制と結びつき、その影響で伝統的な花街も一時的に衰退を余儀なくされた。
1945年の敗戦直後、占領軍(GHQ)は日本の公娼制度に対し急激な改革を迫った。当初、混乱期の治安維持と占領軍兵士の性的慰安のために特殊慰安施設協会(RAA)が設立され、公的に娼婦が動員される措置も取られた。しかし翌1946年1月にはGHQの方針転換により、公娼制度そのものの全廃が日本政府に指示される
。日本政府はこれに応じ、公許の遊廓は一斉に廃止された。ただし、性産業そのものが直ちになくなったわけではなく、多くの都市では警察の黙認する非公然の売春地域(いわゆる「赤線」地帯)が設定され、個室料亭や特殊飲食店などの名目で売春が続けられた
。こうした過渡期を経て、1956年(昭和31年)に「売春防止法」が制定(翌1957年施行)されると、公娼は法的に全面禁止となり、行政が黙認していた赤線地帯も消滅した
。公娼制度の終焉をいつとするかについては、1946年の占領政策による廃止を指す場合と、1956年の売春防止法を指す場合があるが、いずれにせよ昭和20年代後半までに日本の公娼制度は完全に幕を閉じたといえる
。
公娼制度の廃止は花街にも大きな影響を与えた。戦前、京都など各地に存在した娼妓主体の遊廓は軒並み閉鎖に追い込まれ、遊女を抱えていた店は廃業を余儀なくされた。一方、芸妓主体の花街については、公娼と異なり直接の売春行為ではなく芸能提供を建前としていたことから存続が許され、伝統文化の継承地として形を変えて生き延びた。もっとも、戦後の経済混乱やGHQの民主化政策の下で、芸妓の年季契約制度や前借金による拘束といった旧来の慣行は見直されていった。例えば京都では、戦後まもなく芸妓・舞妓の労働環境の改善や未成年者保護の観点から制度改革が進み、舞妓の就業年齢や奉公規定にも変更が加えられたとされる(具体的には、義務教育期間を終えた者のみを舞妓として採用する、などの自主規制が行われるようになった)。昭和30年代以降、日本が高度経済成長期に入ると、企業の接待文化や観光産業の発展に伴い、伝統芸能の担い手としての芸妓・舞妓が再評価されるようになった。京都の花街では都をどりをはじめとする舞踊公演が国内外の観光客を惹きつけ、一時は減少した芸妓・舞妓の数も、観光ブームやバブル期の接待需要に支えられて持ち直す局面が見られた。とはいえ、長期的に見ると戦後の花街は縮小傾向にあり、花街に籍を置く芸妓・舞妓の数は戦前と比べ大幅に減少した。戦前の京都府内には芸妓・娼妓を合わせて16の花街が存在したが
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
、現代では京都市内の五花街を残すのみとなっている
。このように、公娼制度廃止後の昭和期において、女衒という存在は社会から姿を消し、花街は売春の場から伝統文化の場へと大きく転換したのである。
現代における女衒の概念の変化
売春防止法施行(1957年)により公娼制度が廃絶すると、それに付随していた女衒という職業も制度的には消滅した
。公娼制度の廃止とともに女衒も「自然消滅した」と評されるが
、その後も広義には、人身売買的に女性を性的サービス業に誘引・供給する人物を指して女衒と呼ぶことがある。現代日本において法的に売春行為は禁じられているものの、デリバリーヘルスや各種風俗店など形態を変えた性風俗産業は存続しており、違法・合法の境界で暗躍するスカウト(客引き)やブローカーが存在する。これら現代の人身あっせん業者をマスコミ等が揶揄して「令和の女衒」などと呼ぶ例もみられる。また、直接の売春に限らず、コンパニオン派遣業者や一部の芸能プロダクションが若い女性をイベント接待に送り出すようなケースについて、倫理的観点から「現代の女衒的行為」と批判されることもある
。ただし、現行法上はそうした行為の多くは労働派遣や職業紹介事業の枠内で行われており、直ちに違法とはいえない場合も少なくない
。要するに、現代では公娼制度期のような公然たる女衒は存在しないものの、形を変えて類似の役割を果たす者が社会の裏側に残存していると指摘できる。これに対し、日本政府も21世紀に入り人身取引禁止条約の批准や国内法の整備(例えば2005年の人身取引罪新設、2022年のAV出演被害防止・救済法の制定など)を進め、現代的な「女衒」による人権侵害に対応する努力を続けている。
京都の花街の発展と衰退
祇園を中心とした花街の発展
京都の花街は日本の中でも特に悠久の歴史と豊かな文化を有する。中でも祇園は、その名前が日本の花街文化の象徴として広く知られる存在である。祇園の起源は江戸時代初期に遡り、八坂神社の門前町に形成された茶屋街がその始まりであった
。江戸時代を通じて祇園町は隆盛し、多くの芸妓が洗練された舞踊や唄、三味線などの芸をもって客をもてなした。明治維新後、京都の都としての地位低下を補うため、京都府は花街文化を観光振興に活用した。明治5年(1872年)に開催された京都博覧会に合わせ、祇園では「都をどり」と称する舞踊公演が初めて一般公開され、大成功を収めた
。以後、都をどりは春の恒例行事として定着し、祇園甲部の芸妓・舞妓による華麗な群舞は京都観光の目玉となっていった。
明治14年(1881年)には行政区分上、祇園町が東西二つに分割され、以降「祇園甲部」と「祇園東」としてそれぞれ独自の芸妓屋組合と芸能文化を育んだ
。祇園甲部は花見小路通周辺を中心に京都最大の花街として発展し、芸妓・舞妓の人数やお茶屋の軒数において他を凌駕した。一方の祇園東も「祇園東新地」として再出発し、祇園祭など地域の伝統行事とも関わりながら花街文化を継承した
。祇園以外にも、先斗町(ぽんとちょう)は江戸中期(正徳2年頃、1712年)に鴨川沿いの新河原町として形成され、のち幕末期から明治にかけて花街化した
。先斗町は細い路地と鴨川に面した風情ある佇まいで知られ、舞踊公演「鴨川をどり」が都をどりと並ぶ京都の春の風物詩となっている
。さらに宮川町は江戸初期(慶長年間)に四条河原の歌舞伎踊りの流行地として始まり、歌舞伎興行と結びつきつつ茶屋街として発達した
。上七軒は室町期に北野天満宮門前で茶店が営業を始め、安土桃山期に豊臣秀吉から茶屋株の公認を得たことで花街となった、京都最古の歴史を持つ地区である
。このように京都市内には五花街(祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒)があり、それぞれ異なる起源と特色をもって近代まで繁栄してきた
。
近代化と共に変化した花街の業態
京都の花街は明治以降の近代化の中で、伝統を維持しつつも業態や社会的役割を変化させていった。明治期には廃藩置県や士族の没落により武家の贔屓筋を失った芸妓たちが、新興の実業家や外国人観光客を相手にするようになった。鉄道の開通や観光開発によって京都を訪れる旅客が増えると、花街は観光客向けの芸能披露の場としても活用されるようになった。前述の「都をどり」はその象徴であり、博覧会以後も毎年春に開催されて国内外から観客を集めた
。花街における芸妓の芸能は、従来は特権階級のための私的な娯楽であったが、近代にはある程度公共性を帯び、都市の文化資産として位置づけられていく。
また近代化に伴い、花街の内部運営にも新風が吹き込んだ。電話の普及により「検番(けんばん)」と呼ばれる芸妓の派遣取次機関が整備され、顧客からの宴席予約や芸妓のスケジュール管理が効率化された。明治末から大正期にかけては芸妓や待合の組合組織も法人格を持つようになり、内部規律の強化や相互扶助が図られた。もっとも、芸妓の就業形態自体はなお前借金と年季奉公に頼る部分が大きく、社会的には娼妓と同様に「半ば人格を拘束された職業女性」という位置づけで見られることもあった
。実際、明治以降の公娼制度の中で芸妓は「娼妓に準ずる存在」と規定されることがあり、その理由として娼妓同様に前借金制に基づく年季奉公契約で働いていた点が挙げられている
。ただし芸妓に関しては全国一律の統制法規がなく、各地方自治体の裁量に任されていたため、その待遇や労働条件は地域ごとに異なっていた
。京都では芸妓の伝統を重んじつつも、近代学校教育の普及に伴い明治期より舞妓に初等教育を受けさせる動きが見られるなど
、徐々に近代的な労務管理が導入されていった。こうした中で、大正末から昭和初期にかけて京都の花街は一つの絶頂期を迎える。
先行研究によれば、戦間期(第一次大戦後~第二次大戦前)の京都は「繊維の街」であると同時に「遊廓の街」でもあった
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。1920年代前半には府内の繊維産業が好況に転じたことも相まって、京都の花街は急速に活気づいた
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。芸妓・娼妓(当時の統計では両者を合わせて「芸娼妓」と表現)数が急増し、それに伴って遊客(遊興客)の数や遊興費の総額も大きく増加した
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。京都府内には1920年代に16か所もの花街(貸座敷免許地)が存在し、他府県からも多数の客が訪れて繁盛した
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。当時の京都では人口規模や工業生産額に比して娼妓の数が際立って多く、全国的に見ても異例の遊興都市であったと指摘されている
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。この背景には、京都が天皇の即位大礼(1928年昭和天皇の大礼)など国家的行事の開催地となり観光客が増大したことも影響している
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。戦間期の花街の賑わいぶりは経済面にも表れており、当時京都府は芸妓・娼妓に対して課税する賦金(ふきん)や雑種税から多額の収入を得ていた
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。その金額は府税収入の約3割に達し、不況期には他産業の税収減を補うほどだったという
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。さらに芸妓・娼妓たちの豪華な衣装や贈答品の購入により、呉服商をはじめ関連産業も大きな恩恵を受けていた
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。このように花街は京都経済の一翼を担う消費産業として組み込まれ、地域経済の循環を支えていたのである
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。
しかし1930年代に入ると、世界恐慌の影響や社会規範の変化により状況は変わり始めた。統計によれば、昭和初期には芸妓主体の花街では芸妓数が減少に転じ、客の遊興費支出も落ち込みを見せた
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。不況下で贅沢な芸妓遊びを控える風潮が広がり、芸妓屋の経営も地盤沈下していったと考えられる。一方で娼妓主体の遊廓(貸座敷)については、1930年代前半でもなお近郊や地方(郡部)からの娼妓の流入と遊客数の増加が続き、一定の活況を保った
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
。これは不景気の中で安価な娼妓遊びに需要が移行した可能性や、都市下層の男性客が増えたことを示唆する。こうした流れの中、京都市は1935年(昭和10年)に市内遊廓の整理統合を進め、一部の小規模遊郭が閉鎖・統廃合された。直後に戦時体制へ突入したことも相まって、京都の花街は昭和初期から戦中にかけて徐々に縮小へと向かった。
現代の花街の実態と残存する伝統
太平洋戦争後、公娼制度の消滅と高度成長による社会構造の変化を経ても、京都の花街文化は細々とながら命脈を保ってきた。21世紀初頭の時点でも、京都市内には祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の五花街が存続しており、これらは総称して「京都五花街」と呼ばれる
。2012年時点の調査では、京都市内に約300人の芸妓(うち舞妓を含む)が活動していた
。これは全盛期と比較すればごく僅かな数であるが、京都は現在も日本で唯一18歳以下の舞妓が存在し伝統を受け継ぐ土地として特別な位置を占める
。現代の花街は料亭やお茶屋の数も限られ、芸妓・舞妓の世界に飛び込む若者も減少傾向にあったが、近年ではその文化的価値が再評価され、地元財団や行政による支援、国内外からの文化的関心の高まりもあって持続に向けた努力がなされている。たとえば京都市や観光庁は、花街の伝統技芸を「日本遺産」や無形文化遺産として発信する取り組みを行っており、五花街合同の公演や海外公演なども企画されている。さらに、各花街は新人舞妓の募集や研修制度の充実を図り、伝統的なしきたりを守りつつも現代の若者が参加しやすい環境づくりに努めている。
残存する花街の街並みにも注目すべき伝統が息づいている。祇園甲部の白川周辺は石畳と格子の町家建築が立ち並ぶ風情が評価され、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている
。上七軒では江戸時代以来の茶屋建築が現存し、今もそこで芸妓が宴席に出向いている。各花街では屋号ごとの「紋章」や、代々引き継がれる踊りの流派(祇園甲部は井上流、先斗町は尾上流など)があり、こうした芸能の系譜(「筋」)が地域文化として守られている
。舞妓や芸妓の装束・髪型にも厳格な決まりがあり、季節ごとのかんざしや着物の意匠には日本の四季折々の美意識が映し出されている。これら伝統の細部に至るまで、現代の花街は可能な限り過去の文化を保存継承しようとしているのである。もっとも、観光都市・京都において花街は今や観光客の関心の的であり、その人気ゆえの課題も生じている。祇園などでは芸舞妓をひと目見ようと大勢の観光客が押し寄せ、中には狭い路地にカメラを構えて舞妓を追いかけたり、無遠慮に写真撮影する者もいて問題となっている
。実際、京都市には年間5,000万人以上の観光客が訪れるが
、一部の外国人観光客による「舞妓パパラッチ」行為が芸舞妓や地域住民に迷惑を及ぼすケースが増えたため、京都市や地元有志はマナー啓発キャンペーンを展開している
。このように、現代の京都の花街は貴重な伝統文化の担い手であると同時に、大衆観光の波にも晒されており、伝統の保全と観光客との共生という新たな課題にも直面している。
文化史的視点からの花街の分析
花街文化が日本社会に与えた影響
花街文化は日本の社会・文化に多方面の影響を及ぼしてきた。第一に、芸妓・舞妓が体現する洗練された「おもてなし」の文化は、日本人の美意識や接客作法に大きな影響を与えたといえる。江戸期から明治期にかけて、花街で育まれた所作や話術、季節のしつらえなどの様式美が、上流階級や商人の社交の場に広まり、日本文化の一部として定着した。例えば着物の着付けや髪型、季節ごとの遊興の習わし(花見、月見など)には、花街発祥のスタイルが多数含まれている。また、言葉遣いや礼法においても、芸妓たちが培ったはんなりと上品な京都言葉や気配りの所作が、理想的な女性らしさ・教養の一例として世間に影響を及ぼした。近代以降には、芸妓を題材にした小説や絵画、映画などが数多く制作され、日本人の娯楽・メディアにも花街文化が色濃く投影された(例えば川端康成の『古都』や『舞姫(舞妓)』、溝口健二の映画『祇園祭』など)。さらに花街は、明治以降の政財界人の社交場としても機能し、料亭政治・経済といった日本独特の非公式コミュニケーション文化を形成する基盤ともなった。すなわち、花街文化は単なる遊興娯楽に留まらず、日本の社交・芸能・風俗全般に広範な影響を及ぼしたのである。
花街における芸能・芸術の発展(舞妓・芸妓の文化)
花街は芸能の温床としても重要な役割を果たしてきた。特に京都の花街では、舞踊・音楽・歌など多彩な伎芸が洗練され、独自の芸術分野として発展した。各花街ごとに異なる流派の舞踊が継承されており、祇園甲部の井上流、先斗町の尾上流、上七軒の花柳流などが知られる
。これらの舞踊流派はそれぞれ数百年の歴史を持ち、今日まで連綿と受け継がれてきた。舞妓・芸妓たちは日々厳しい稽古に励み、日本舞踊の高度な技術や表現力を次世代へ伝えている。また、地方(じかた)音楽として長唄、清元、常磐津、地唄など伝統音楽の演奏技能も鍛錬され、三味線や鼓の名手が花街から輩出された。京都の花街ではさらに、茶道や生け花、俳句といった日本伝統文化の素養も芸妓のたしなみとして尊ばれ、芸妓たちは総合的な教養人・伝統文化の体現者として育成されてきた。こうした花街由来の芸能は、20世紀以降、無形文化財として公的な評価も受けている。たとえば祇園甲部の舞踊はその芸術性が評価され、重要無形文化財保持団体の指定を受けたこともある。また、毎年春に開催される五花街それぞれの舞踊公演(都をどり、鴨川をどり、北野をどり等)は、単なる観光イベントに留まらず、日本の伝統芸能公演として定着している。加えて、花街の芸能は他の舞台芸術にも影響を及ぼした。歌舞伎や新派劇では芸者役がしばしば登場し、舞台上の所作や演出に花街で培われた美学が取り入れられている。日本舞踊の振付師や三味線の演奏家など、花街出身の芸能者が広く活躍する例も多い。総じて言えば、花街は日本における伝統芸能・芸術の発展を担う場であり、舞妓・芸妓の文化は日本文化史に欠かせない要素となっている。
花街が日本の観光資源として果たす役割
現代において花街文化は、日本の観光産業における大きな魅力の一つとなっている。古都・京都を訪れる国内外の観光客の多くが舞妓・芸妓の存在に強い関心を寄せ、実際に花街で舞妓を見かけたり、舞妓変身(観光客が衣装を着て舞妓風に扮装する体験)を楽しんだりしている
。特に外国人観光客にとって、真紅のだらり帯を締め白塗りの舞妓の姿は「伝統的日本」の象徴であり、京都観光のハイライトとして人気が高い
。このため舞妓や芸妓が参加するイベントは観光プロモーションとして重宝され、各国の要人を迎える晩餐会や国内の観光キャンペーンで芸妓の舞踊が披露されることもしばしばある。京都五花街自身も、伝統の維持と観光振興のバランスを図りつつ、一般公開の舞踊会や観光客向けの講習会を開催している
。祇園甲部歌舞練場で行われる都をどりはその代表例であり、新型コロナウイルス流行による一時中断を経ても、現在も年次公演として健在である。観光客はチケットを購入すれば誰でも鑑賞でき、京都の春の風物詩として定着した都をどりには、一公演あたり数万人規模の観客が訪れる年もある。
また、花街は単に受動的な観光資源ではなく、観光客との交流を通じて新たな文化的価値を生み出す場ともなっている。各地の花街では観光シーズンに合わせて「ビアガーデン」のような催しを開催し、舞妓・芸妓がお酌やお座敷遊びを体験させる企画が好評を博している。さらに、京都五花街は合同で「都の賑い」などのイベントを催し、伝統芸能の一大ショーとして国内外の観客を惹きつけている。こうしたイベントは、花街文化を現代的にアレンジして観光商品化した例であり、伝統の新たな展開ともいえる。観光庁による日本文化発信の取り組みでは、芸妓・舞妓が「クールジャパン」の象徴的存在として取り上げられることもあり、その国際発信力にも期待が寄せられている。加えて、花街の景観も重要な観光要素である。石畳と格子戸の町並み、夕暮れ時にぼんぼりが灯る路地、三味線の音色が漏れ聞こえる夜の風情――これら花街特有の景観は、多くの観光客に「タイムスリップしたような日本の原風景」として感動を与えている。祇園や先斗町の街並みは写真映えスポットとしても人気で、旅行ガイドブックやSNS上で盛んに紹介されている。もっとも前述のように観光客の急増は地元の生活との軋轢も生んでおり、観光公害への対策も課題である
。こうした調整は必要であるにせよ、花街文化が日本の観光に果たす役割は非常に大きく、今後も伝統文化を活かした持続的な観光資源として重視されていくだろう。
社会問題としての視点
女衒の問題点(人身売買・強制労働・貧困問題)
女衒の存在は、その歴史を通じて人権問題と深く結びついていた。まず、人身売買の問題である。女衒は経済的に困窮した家から少女を買い取っていたが、そこには貧困の連鎖と女性の人権軽視が横たわっていた。家庭の窮迫ゆえに親がやむなく娘を手放す場合もあれば、女衒が巧みな言葉で家族を騙して少女を連れ去る例も多発した
。実際、1930年代初頭の東北地方の農村では、深刻な不況(昭和農業恐慌)により「娘の身売り」が激増し、「東京に行けば毎日白米が食べられる」などと甘言を弄する女衒に娘たちが次々と連れ出された
。こうした女性たちの多くは都市の私娼街に売られ、意に反した売春に従事させられたという
。このように女衒による人身取引は、貧困にあえぐ地方社会から都市の欲望を満たす場へと女性を強制移動させる構造的暴力だった。
次に強制労働・虐待の問題がある。身売りされた女性たちは多くの場合、多額の前借金を負わされ、その債務を返済するまで自由を奪われた。明治以降の法制度上は1872年の解放令で債務拘束は禁止されていたが
、現実には借金完済まで遊郭から出られない半拘束状態が続いていた
。女衒から遊郭主に支払われた身請金(前借金)は、女性本人が稼いで返さねばならず、その間の生活は遊郭に監禁同然の環境だった例も少なくない。逃亡を図った女性が捕らえられて折檻される話や、劣悪な環境で病に倒れる娼妓の記録も残っている。特に国外に渡った「からゆきさん」たちは、言葉も通じぬ異郷で激しい搾取と暴力に晒され、帰国も叶わずに命を落とす者もいたとされる。これらは今日でいう人身取引(ヒューマン・トラフィッキング)による強制労働の典型例であり、女衒はその片棒を担いだ存在であった。さらに、そうした売買春を背景に少女の人格形成や教育機会が奪われた問題も看過できない。大正14年(1925年)の調査では、娼妓となった女性の多くが極めて低学歴であり、全く学校教育を受けていない者が最も多かったことが報告されている
。具体的には、無就学3,647人、尋常小学校中途退学者2,609人に対し、高等女学校卒業者はわずか14人という極端な偏りであった
。これは貧困家庭の子女が教育を受けられずに売られていった実態を如実に示している。女衒の存在は、このような社会的弱者である少女たちから将来や選択肢を奪い、人身の商品化を助長した点で大きな問題だったのである。
法律の変遷と花街の規制(公娼制度の廃止、風俗営業法の影響)
公娼制度をめぐる法規制は、明治から昭和にかけて大きく変遷した。前述のように1872年の芸娼妓解放令は人身売買的な年季奉公を禁じたが
、その後すぐに貸座敷営業規則が整備され売春の公認が続いた
。明治末期には司法の判断により年季債務の不当性が指摘され(函館の娼妓に関する大審院判決、1900年)
、大正期には廃娼運動の高まりも受けて、ついに日本は1925年に「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」を批准し、人身売買根絶を国際公約とした。これを受け日本政府は海外渡航売春婦(からゆきさん)の送出しを取り締まり、国内でも紹介業者規制の強化(前述の1927年内務省令など)に乗り出した。しかし、制度そのものの廃止にはなお時間がかかった。戦後になり、GHQの主導で1946年に公娼制度は事実上全面廃止され
、それを追認・強化する形で1956年に売春防止法が成立した
。この売春防止法は「何人も売春をしてはならない」(第3条)と規定し、売春行為そのものと周旋・勧誘・場所提供など周辺行為を包括的に禁止した。罰則は売春の周旋や業としての行為に重点が置かれ、実際に売春した本人の処罰は軽微に留める形となった(いわゆる「処罰重心の緯度」が客と業者側にある)
。同時に、売春防止法には売春をやめさせ更生させるための補導処分や婦人補導院への収容といった救済更生措置も盛り込まれた。この法律の施行によって、日本における公然たる売春は姿を消し、数百年続いた公娼制度は幕を閉じた。
しかし、売春そのものが需要と供給のある行為である以上、法律で禁じても地下化・多様化する傾向が生まれた。1958年には風俗営業等取締法(現行の風俗営業法の前身)が制定され、キャバレーやダンスホールなど異性を伴う飲食店を営業許可制とし、深夜営業の規制や未成年者立入禁止などの統制を行った
。この法律は直接売春を扱ったものではないが、間接的に戦後乱立した風俗店を取り締まり、風紀の維持を図る狙いがあった。その後も風俗営業法は改正を重ね、1984年には名称を「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(いわゆる風営法)」と改め、従来のバー・クラブ等に加えて新たに「性風俗関連特殊営業」の類型(ソープランド、ファッションヘルス等)を設けて許可・規制の対象とした
。これにより、直接的な性交を伴わない形態の性的サービス業が一定の合法性を持って営業できる枠組みが整備された。一方、実質的に売春行為を行うような業態については引き続き非合法とされ、警察の摘発対象となっている。例えば「デリバリーヘルス」は店舗を持たず無店舗型電話紹介営業として許可業種に該当するが、実際に本番行為(性交)が行われれば売春防止法違反となるため、摘発例も後を絶たない。このように法の網の目をかいくぐるグレーゾーンも存在し、法律と実態のイタチごっこが続いているのが現状である。花街そのものに関して言えば、売春防止法施行時に芸妓は売春婦ではないと整理され存続を許されたものの、その後の風営法では「接待飲食等営業」に該当しうるとの議論もあった。しかし京都の花街は伝統芸能の場としての側面が強いため、単純な風俗営業店とは区別され、現在も行政の許可制ではなく各花街の自主規制と業界団体の統制によって運営が維持されている(例えば営業時間や未成年の保護等について内部ルールを設けている)。総じて、法規制の変遷は売春や歓楽街を取り巻く環境を大きく変え、伝統的な女衒・遊廓システムは消滅したが、新たな形の風俗産業とそれに対する規制という構図が現代まで続いているといえる。
現代に残る問題点とその対応策
売春防止法施行から半世紀以上経た現代日本においても、性産業にまつわる諸問題は形を変えて存在し続けている。その一つが、国内外の人身取引である。21世紀初頭、日本は米国務省の人身売買報告書で十分な対策を取っていない国と指摘され、タイやフィリピンなどから女性を連れてきて風俗店で働かせるケースが社会問題化した。これを受けて2005年に刑法改正で人身売買罪が新設され、外国人女性の不法就労斡旋ブローカー(現代の女衒と言える)の摘発が強化された。また、日本人の若年女性が被害に遭うケースもある。近年クローズアップされたのは「JKビジネス」や「援助交際」と呼ばれるものだ。高校生年代の少女が客とデートや性的サービスを行うこのような営業は、性犯罪や搾取の温床になりやすく問題視され、東京都など自治体は営業規制条例を制定して18歳未満の接客営業を禁止するなどの対策を講じている。さらに、AV(アダルトビデオ)出演を強要される問題もかねてより指摘され、2022年にはAV出演被害防止・救済法が成立して、出演契約から1年以内なら無条件で公開停止できる権利を定めるなど、被害者救済が図られた。この背景にも、スカウトマンが若い女性を甘言で勧誘し、過酷な性行為の撮影に参加させるという、現代版「女衒」の存在がある。こうした被害に対してはNPO法人ライトハウス(人身取引被害者支援センター)など民間団体も相談支援に乗り出している。
一方、伝統的花街に関しては、文化継承と人権・労働環境の調和が課題となっている。舞妓は15歳前後で見習いとして花街に入り、女将のもとで住み込み修業を積むが、この在り方は現代の労働基準法や教育権の観点から議論を呼ぶことがある。近年、舞妓や芸妓の労働実態について学者やメディアが調査を行い、長時間労働や女性同士のヒエラルキー問題を指摘することも出てきた。ただし、舞妓になるのは本人の希望に基づくものであり、徒弟制度的な文化修行として尊重すべきとの意見も根強い。この問題に対して、京都府や花街関係者は未成年舞妓の深夜業禁止など自主ルールを確認し、指導を徹底する姿勢を示している。現代の花街は売春とは一線を画す健全な伝統文化の場として存続しているが、その内部にも近代的な人権感覚とのすり合わせという課題が潜んでいるのである。
さらにもう一点、現代に残る花街・遊興文化の影響として挙げられるのが、夜の接待文化である。高度成長期以降、企業の会合や接待は料亭からクラブやキャバレーへ、そして現在ではホストクラブやガールズバーへと舞台を変えたが、その根底にある「金銭を介して女性に酒席を盛り上げてもらう」という構図は花街文化から連綿と続くとも言える。これら接待産業の中には違法なものも含まれ、暴力団の資金源になっているケースも指摘される。行政は風営法による許可制と営業時間規制、警察による取締りで対応しているが、客とホステス間の自由恋愛と違法な周旋の線引きは曖昧で、抜本的解決には至っていない。近年は女性の側から接待文化の是正を求める声も上がり、企業がコンプライアンスの一環として過度な接待を控える動きも広がっている。伝統的な花街のお茶屋遊び自体は高尚な文化として評価されつつあるが、それをモデルに発展した一部の夜の業界では、依然として女性搾取の問題が尾を引いていると指摘できる。
以上のように、現代でも女衒・花街に関連する社会問題は完全には解消されていない。これらに対し、日本社会は法整備や啓発、支援策など多角的に対応を進めているが、需要と供給がある限り問題は形を変えて残存する。今後も歴史の教訓を踏まえ、女性の人権保護と伝統文化の保存という両面からアプローチしつつ、より良い解決策を模索することが求められている。
結論
女衒と花街文化の歴史を概観してきた。本稿で見たように、女衒は近代以前から20世紀半ばまで、日本の歓楽街システムの中核にあって女性の斡旋を担った存在である。その役割は社会経済の動向や法制度の変化に翻弄されつつも、長らく存続した。明治・大正期には公娼制度の合法的枠組みの中で一定の公認を受けつつも、実態としては人身売買的性格を色濃く残し、多くの少女たちの運命を左右した。昭和期の戦後改革で公娼制度が廃止されると、制度的な女衒は消滅し、日本社会は公的には売春なき時代へと移行した。しかし、人身売買や性的搾取の問題が完全に無くなったわけではなく、現代でも違法なスカウトや劣悪な労働条件下での性風俗営業などにその影を認めることができる。女衒の歴史的経験は、女性の人権尊重と労働搾取の防止に関する重要な教訓を我々に提供していると言えよう。
一方、花街文化は日本の都市文化史・芸能史において大きな位置を占める。京都の花街を中心に、花街は芸術と娯楽の揺籃の地として発展し、美意識や芸能の継承に寄与してきた。公娼制度という負の側面と結びつきもった時代もあったものの、戦後に性売買の要素を切り離して以降は、純粋に伝統芸能・伝統文化の世界として生き残りを図っている。現代における花街文化の意義は、まず第一に日本固有の芸術と礼節を体現する場であることだ。芸妓・舞妓が伝える舞踊や音楽、所作の一つひとつが日本の文化遺産であり、それを直に継承し続けるコミュニティは極めて貴重である。第二に、花街は女性が主体となって営んできた「女の町」であり、男性中心社会の中で異彩を放つ存在であった
。それは女性による伝統経営の成功例として評価することもでき、現代のジェンダー論的観点からも興味深い。第三に、花街は観光立国を標榜する日本において強力な魅力資源であり、京都のみならず東京や金沢など他都市でも、花街の存在が文化観光の核となっている。
もっとも、現代社会において花街文化を維持することは容易ではない。芸妓・舞妓という生き方自体が特殊であり、志望者の減少や後継者不足、高齢化といった内部課題に直面している。また、観光客との軋轢や俗化の危機もあり、伝統の純粋性をどう守るかという問題も指摘される。それでもなお、花街文化には未来へ伝える価値があると多くの人々が感じている。京都五花街や地元行政、研究者、ファンらが協力し、21世紀の状況に合わせた花街のあり方を模索していることは心強い。例えばSNSやデジタル技術を活用して若者に情報発信したり、海外の文化機関と連携して芸妓の芸を紹介する試みなど、新しい展開も生まれている。女衒と花街の歴史から学ぶべきは、社会の変化に適応しつつ守るべき価値を見極めていく姿勢であろう。過去の公娼制度のもとで行われた人権侵害の反省を踏まえつつ、花街という文化遺産を人類共有の財産としてどう活かしていくかが、現代に課せられた課題である。
総括すると、女衒と花街文化の歴史は、日本の近代化と社会変動の縮図でもある。そこには経済・法律・文化・観光・人権といった多面的な要素が交錯している。本稿で示した知見が、今後の日本社会における伝統文化の継承と社会正義の実現の両立を考える上で一助となれば幸いである。各種資料から浮かび上がった事実と課題を踏まえ、女衒のような存在を二度と許さない公正な社会を築きつつ、花街文化が未来永劫に花開くことを期待して結びとしたい。
【参考文献・出典】(脚注内に示したもの以外)
滝本哲哉「戦間期における京都花街の経済史的考察」『人文学報』第115号、2020年
井手文子「自由意志なき性的な身体」明治学院大学社会学部、2014年
『京都の女性史』思文閣出版、2002年(横田冬彦「娼妓と遊客」所収)
『廃娼運動の歴史』国立国会図書館デジタルコレクション、1958年
RITSUMEI-ARSVI所収:池谷薫「芸妓という労働の再定位──労働者の権利を守る諸法をめぐって」2012年
京都おおきに財団「京都花街オフィシャルサイト」五花街の紹介
コトバンク『日本大百科全書』「娼妓解放令」
Wikipedia「近代公娼制」「女衒」「公娼」「人身売買」
東洋経済オンライン「京都市民が嘆く『舞妓パパラッチ』の悪行三昧」(2019年12月3日)
毎日新聞「『1日で49人の相手を…』過酷な労働、波乱の人生赤裸々…」2022年8月15日