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ハイデガーの生い立ちと学生時代

本記事は、僕の卒論のためのメモです。

高田珠樹『ハイデガー 存在の歴史』の第1章から重要だと思った箇所をピックアップします。第1章では、ハイデガーの幼少期~二十代前半の出来事と思索が解説されています。

ハイデガーファミリー

マルティン・ハイデガーは、1889年9月26日、ドイツのバーデン州、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州のメスキルヒという町で生まれた。ドイツでもあまり知られていない、現在人口7000人ほどの小さな町である。(23頁)

父は、この町の教会の堂守りだった。堂守りの仕事は、教会の雑務や建物の管理である。他の家族は、母、妹、弟フリッツである。弟は地元を離れなかったが、兄マルティンの手書きの原稿をタイプライターで打つのを手伝ったこともある。戦時中、兄の原稿を勤めていた地元の銀行の金庫に保管した。(28-30頁)

意外にも活発な子どもで、少年時代は水泳やスキーを楽しんだ。またサッカーが好きで、これは晩年まで変わらなかった。(31頁)

ギムナジウム時代

1903年、ハイデガーはメスキルヒでの8年間の学校生活を終え、コンスタンツの人文主義のギムナジウム(大学進学を予定する人が行く中等教育機関)、ハインリッヒ・ズーゾ校の第四学年に編入学する。その際、コンスタンツ市内のカトリック系の寄宿舎、コンラート学寮に入り、厳格な規律に服した

一方でダンスホールや音楽会を楽しみ、流行の思想・文学を口にし、時に盛り場にも出入りする上層の市民階級の子どもがいた。他方でハイデガーのように教会の奨学金を得て地方からやって来て、伝統的な教理や宗教問答に励む寮生たちがいた。軽薄で奔放な生活と勤勉で質素な生活。伝記作家ザフランスキーは、『存在と時間』を始めとする後の著作で見られる「非本来性」と「本来性」の対立構図は、この時期に形成されたものとして指摘している。(31-32頁)

ハイデガーはギムナジウム時代に、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語を優れた教師の下で学んだと後年に述懐している。またこの頃、シュティフターの『石さまざま』やレクラム文庫のヘルダーリンの詩集、さらにはフランツ・ブレンターノの博士論文「アリストテレスにおける存在するものの多様な意味について」を読んだ。ブレンターノは現象学の創始者であるフッサールの恩師である。ハイデガーいわく、この頃「存在の中の多様にして単一なるものについての問い」がぼんやりと頭をもたげてきたという。また最終学年に読んだカール・ブライヒの『存在について。存在論概要』も哲学への興味をかきたてた。(34-36頁)

途中、ハイデガーはコンスタンツのギムナジウムからフライブルクのベルトルト・ギムナジウムに転校している。歴史家フーゴ―・オットによれば、給付額のより大きい奨学金を得るためだったという。(33頁)

反近代主義

ハイデガーはプロテスタントではなくカトリックの信者だった。ハイデガーは、カトリックの中でも反近代主義を支持していた。ハイデガーは初めは聖職者を志していたし(大学は最初は神学部)、奨学金もカトリック系のところから借りまくっていたので、ハイデガーとカトリックの関係は非常に深かった。

幼少期には、カトリック信者の間でローマの教皇庁に忠実なグループと批判的なグループ(バチカンとは別な教団を組織)の抗争があった。ハイデガー一家は保守的なバチカン寄りの忠実なグループを支持した。

ハイデガーがギムナジウム~フライブルク大学神学部に在籍していた頃は、バチカン内部で近代主義反近代主義の対立が激化していた。これは、バチカン内部での対立である。

近代主義とは、教皇の不可謬性宣言によって進化論を始めとする近代の科学や哲学・思想と軋轢を大きくしていたカトリック教会を、近代的理性の基準に適合させようとする改革運動である。その支持者は、教会の教義も歴史的な諸条件の中で生まれたものであるから時代とともに変わらざるを得ない、掲示や信仰もあくまで宗教的体験というところから解釈されるべきであると主張した。1907年のピウス十世の回勅は近代主義を激しく断罪し、1910年には聖職やカトリック神学の教職に就くすべての者は自分は近代主義者ではないと宣言することが義務づけられたこのいわゆる反近代主義者宣言は、1967年まで廃止されなかった。

著者の高田によれば、カトリックの反近代主義を単なるバカとみなすのは早計だという。というのも、宗教やその教義は科学や近代思想との対決を通して鍛えられ、新たな理論的深化に至りもするからである。ハイデガーが反近代主義にコミットしたのも、楽天的な進歩思想や素朴な科学信仰に疑いを持っていたからである。(僕は「聖書や教皇の意見に間違いはありません!」っていうのはふつうにおかしいと思いますけど。) (37-39頁)

中二病マルティン、大学入学

ギムナジウムを終えた時点でハイデガーが聖職者の道に進むということは、本人にも周囲の人間にとっても明らかだった。20歳のハイデガーは大学の神学部に入るのではなく修道院に入るという選択をした。けれども、ハイデガーは虚弱な体質であったため、正規の修練士に採用されなかった。聖職者は激務なため、体力がないと務まらないのである。2週間しか修道院にはいられなかった。

結局ハイデガーはフライブルク大学の神学部に入学した。新学期の授業は十月半ば以降に始まり、修道院にいた二週間はまだ夏休み中だったから、経歴の上では実質的に何の空白もなくギムナジウムから大学に入学したと言ってもいいだろう。(41-43頁)

大学生になったばかりのハイデガーは、この頃から複数の雑誌に投稿を始めている。教授資格論文から『存在と時間』までの十数年間何も著作を発表しなかったことを踏まえると、この時期のハイデガーはかなり多作と言え、頻繁に自分の文章を発表している。

載せていたのは、基本的に教会保守派の雑誌である。個人的に面白かった文章を以下に引用する(「per mortem ad vitam(死を通して生へ)——イェルゲルセンの『人生の偽りと人生の真実』について思うこと」、『アカデミカー』誌、1910年3月号)。

だから個人主義は誤った生き方なのだ。ゆえに肉欲の意志、世俗と異教の教えを焼き尽くせ。
高次の生命の条件となるのは、低次の形式の没落である。植物は成長するのに無機物を必要とする。動物は植物の死によってしか生きることができない。連鎖はこのように上に伸びていく。だから、もしあなたが精神的に生き、自らの至福を得たいと思うなら、死ね、あなたの中の低次なもの、超自然的な恩寵とともに働け、そうしたらあなたは甦るであろう……。

(めちゃめちゃ中二病で僕は爆笑してしまいました。)

「本来性」と「非本来性」という後のハイデガーの思索に繰り返し現れる二分法的な構図は、すでにここで明確に語られている。ギムナジウム時代の、ウェイな上級市民階級出身の同級生たちと学寮の課業に励む自分たちとの間に感じた溝が、いまカトリックの教えを借りて、退廃的な偽りの生とそれに対する真実の生という形で概念化されつつあった。

他の文章からも「真実の生」と「退廃的な偽りの生」という構図は見られる。加えて、「田舎の素朴」と「都市の虚飾」という図式も強調されている。都市の華美の中にではなく、朴訥な土着の生活の中にこそ真実が宿るというハイデガーの信念は、後年の思索にまで影響が及んでいる。(49-56頁)

変わらないものへの憧憬

若きハイデガーが特に関心を示したのは、カトリックの運動、論理学、数学だった。これらは時間的な移ろいを越えた永遠の世界への奉仕という点で、不可分のものであったと言える。(59頁)

当時のハイデガーは、主観的な見解や気分、願望がもとになった哲学は哲学としてふさわしくないと考えており、心情の感情的な影響をことごとく退ける「厳密に論理的な思考」、「真に無前提の学問的作業」には、ある種の「倫理的な力の素養」と「自己集中と自己放棄の技量」が必要であると述べていた。(58-60頁)

神学部に入ったものの虚弱な体質のために聖職者になれないのではないかというのが意識されてきた。当時ハイデガーは、数学を専攻して教員の資格を取るか、哲学を専攻して大学に残る道を模索するか、神学を続けるか、という三つの可能性を模索していたらしい。そして次第に、自らの知的関心がカトリックの教義そのものにないことを自覚し始めたのであろう。神学の継続は断念された。ただ、神学の学びそのものをやめたわけではない。

その後ハイデガーは理学部に入学し数学を学ぼうとしたが、半年後哲学部に転部している。この哲学部は、日本でいう文学部みたいなものだ。(61-63頁)

ハイデガーは大学入学当初からフッサールに傾倒していた。『論理学研究』第二巻において、判断の活動自体は人間の心的活動であるが、その判断内容そのものは心的活動に由来するものではないとされる。そして心的活動としての意識作用は時間の中で生じるものであるが、意識内容そのものは時間の流動性を越えた理念的な統一であると考えられるに至る。このフッサールの発想は、ハイデガーの思考に大きな影響を与えた。(58-60頁)

「思考から独立した実在という概念は、そういった実在を考えること自体が思考に依存しているのだから矛盾を含む」という反実在論の論拠のひとつを、ハイデガーはそれは心的活動と概念内容とを混同するものだとして退けるのであるが、それは『論理学研究』第二巻の議論を下地にしていると言える。(66頁)

1913年の夏、すなわち大学に進んで四年後、哲学科に転じて一年三ヶ月後、ハイデガーは23歳で博士号を取得した。学位論文の表題は「心理学主義における判断論。論理学への批判的・実証的な寄与」で、「最優秀」の評点を与えられている。

論理的なるもの、言語や判断の根底にある真理や意味の存立形態は、以後のハイデガーの思索の中で常に中心的な主題として問われ続けている。(68-71頁)


参考文献

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