見出し画像

北米先住民の「岩戸隠れ」神話から、人類の心の深層の動きを如実に知る -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(75_『神話論理3 食卓作法の起源』-26,M454 天体の諍い)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第75回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第四部「お手本のような少女たち」の最後から、第五部「オオカミのようにがつがつと」の冒頭を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。


縦が横に

中が外に

あちらがこちらに

『神話論理3 食卓作法の起源』の292ページで、レヴィ=ストロース氏は「ヤマアラシ」が登場する二つの神話を比較して、次のように書いている。

どちらの神話でも、ヤマアラシの挿話は初めの部分にあるが、あらゆる言葉の逆転をともなっている。そびえ立ってはいずに横倒しになっている木、 外部ではなく内部にいるヤマアラシ、ヤマアラシに向かって上っていく(下から上へ)代わりにヤマアラシの上に腰を下ろす(上から下へ)、賢くはなく無分別な娘、獲物を前から凌辱する代わりに後ろから引き裂く、誘惑者ではなく攻撃者である動物・・・・・。片方は賢く片方は無分別な姉妹の対立は、人間妻とカエル妻のそれを再現している。平原地帯のふたりの女主人公(天に昇った女と地上に留まった女)は村に住んでいて、いっぽうは移動を拒否し、もういっぽうは垂直方向に移動する。オジブワ神話のふたりの女主人公には、もはや村はない。世界にたったふたりだけ(M447)か、追放されて(M444)いるかである。そして、片方は大胆に、もう片方はいやいやながら、何はさておき水平方向に移動する。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.292

二つのヤマアラシの神話とは、こちらの記事で取り上げた『神話論理3 食卓作法の起源』276ページの「M443 メノミニー 寒気の主ヤマアラシ」と、前回の記事で取り上げたオジブワ族の「M447 天体の妻たち」である。

この二つの神話で、あらゆる言葉が「逆転」している、というところに注目しよう。

M443では、人間の姉妹が木の穴に潜むヤマアラシを捕まえて、その針を乱暴に奪い取る。被害者はヤマアラシで人間の姉妹の姉の方が加害者である。針を奪われた山嵐は仕返しに、垂直に聳え立つ木のてっぺんに登って大雪を呼び、姉妹を雪に埋める。

一方、M447では、人間の姉妹は木の切り株=切り倒された木(横倒しになった樹)のところで「針をあげよう」と言うヤマアラシに騙されて酷い目に遭わされる。今度は被害者は人間の姉妹の姉の方で、加害者がヤマアラシである。

そしてこの事件の現場が「木」であるということは二つの神話で共通しているが、この木の”向き”が、垂直/水平という対立する二極のあちらとこちらに分かれている。

ヤマアラシは共通だが、他は逆転

ヤマアラシと姉妹の接触の場となる樹木は次の二極で逆転する。

垂直 / 水平

ヤマアラシと樹木の包含関係も次の二極で逆転する。

にいる / にいる

姉妹がヤマアラシの針めがけて接近していく動きの方向も次の二極で逆転する。

下から上へ / 上から下へ

乱暴狼藉の加害者と被害者が逆転する。

人間がヤマアラシを暴行 / ヤマアラシが人間を暴行

あれもこれも、見事に逆になっている。

項よりも関係が先行する

ヤマアラシはいいやつなのか、わるいやつなのか?

ここで、仮に、ヤマアラシに注目してみよう。

北米の神話において、ヤマアラシは、いいやつなのか、わるいやつなのか?
このような問いを立ててみよう。

この問いについて、一義的な答えを与えることはできない。
つまり「ヤマアラシそれ自体」について、ヤマアラシが本質的に良いのか、悪いのか、そのどちらであるかを決定することはできない。

ヤマアラシは、良い/悪いの分別のどちらかの極に、いつでもどこでも同じように振り分けることができるというわけではない。一方の神話では、ヤマアラシはいいやつ、というか同情の余地がある被害者であり報復者である。ところがもう一方の神話のヤマアラシは人を騙して大怪我をさせる悪い奴である。ヤマアラシは良い時もあれば悪い時もある。

そしてこのことはヤマアラシに限られる話ではなく、神話の他の登場人物や物事についても言える。

関係を関係づける両義的媒介項の対立関係

神話は最小構成で四つの二項対立関係を組み合わせ、あわせて八項が、異なるが同じ同じだが異なるという関係でもって分離しつつ結合するマンダラ状の構造を描く。この時、内/外、上昇/下降、水平/垂直、といった二項対立関係は感覚的経験的に極めてはっきりと区別される対立であり、こうした感覚的経験的な対立の両極のどちらでもあり得るような者とは、上の図1で言えばβと仮に表記した両義的媒介項である。

そしてヤマアラシもこのβ、両義的媒介項として、これらの神話では駆り出されているのである。両義的媒介項は二即一にして一即二にしたような存在者である。両義的媒介項は経験的感覚的に対立する二極のあいだを行ったり来たり振幅を描きながら動き回る。そしてこの振幅をえがく脈動を通じて、経験的感覚的な二項対立をはっきりと際立たせる。

そしてこの両義的媒介項もまた、言葉やイメージでもって「これ」と限定できる者(項)である以上、神話の論理においてはそれ単独で自足して存在しているものとはみなされない。ありとあらゆる項は、二項対立関係の一方として、二項対立関係を分離しつつ結合する振幅を描く動きの一方の極として浮かび上がるのである。

いま論じているヤマアラシの神話の場合、両義的媒介項としての動きを示すのは、ヤマアラシと、姉妹である。二人がワンセットになった姉妹と、針を全身に生やしたヤマアラシこそが経験的感覚的に対立する二極が二のまま一になり、一でありながら二である、というあり方を利有媒介者である。

神話では、この両義的媒介項たち二つが、遠く分離した状態から近く結合した状態に移行し、そしてまた分離して、適度に離れつつつながるポジションに収まるという動きが語られる。

この付かず離れずのバランスを取ることができるポジションに両義的媒介項のペアが収まったとき、両者の中間に一つの軸が定まり、これと直交する軸もまた定まる。

そしてこの十字が切り分ける四つの象限の中に、経験的感覚的に対立するものごとの対立関係が、最小で二つ、収まるのである。

ヤマアラシの性格、姉妹の性格は、関係の中であとから決まる

ここで「姉妹」と「ヤマアラシ」それぞれが、善人であるか悪人であるか、聡明であるか愚かであるか、といったことは、両者を分離しつつ結合する振動が浮かび上がらせるパターンの中で、二次的に決まるのである。

すなわち、ヤマアラシと姉妹が分離しつつ結合する関係と、善人/悪人といった二項対立がこれまた分離しつつ結合する関係とが、どの向きで重なるかは、逆転しうるのである。

ヤマアラシ / 姉妹
||    ||
善人 / 悪人

または

ヤマアラシ / 姉妹
||    ||
悪人 / 善人

関係は同じで、二項の配置の向きが違う

この二つの神話では、登場人物はどちらも姉妹とヤマアラシということで共通しており、その交渉の舞台装置が樹木であるという点も完全に同じである

しかし、この樹木を舞台に繰り広げられる姉妹とヤマアラシが過度に分離したり過度に結合したりする動きの方向が、見事に逆転している。

レヴィ=ストロース氏は「逆転がある次元からべつの次元へと呼応し合っている」と書く(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.259)

ヤマアラシと人間の間には、経験的には”人間が刺繍の道具にするためのヤマアラシの針を求めて、ヤマアラシを探し、追いかけ、捕え、針を取る”という関係がある。これはつまり空間的に分離された二極(人間とヤマアラシ)の間に、もともと分離していたところが徐々に接近して結合に至るという方向の距離を縮めていく”分離→結合”の動きがありこの動きの終端である結合状態において、”針”がヤマアラシ本体の野生の身体から分離して、人間と結びつき人間の文化的な道具になり、そうしてヤマアラシ本体と人間はまた分離する、という関係がある。

* *

ヤマアラシはこれらの神話の場合、感覚的経験的にはっきりと分離された対立二項に対する両義的媒介項であるこの両義的媒介項ヤマアラシを両義的で媒介的な状態で振動しつづけることができるように励起しておくためには、このヤマアラシを「良いのか、悪いのか、こちらかあちらかどちらか?」と経験的な二項対立のどちらかの極に振り分けて固めようとする語り口に対しては、”良くもあれば悪くもある”、”良いということもなく、悪いということもなく”といった、経験的な対立について、そのどちらなのかはっきりさせない、固定することから逃れるような答え方が「正解」になるだろう。

そもそも良いとか悪いとかを一定のパターンで定常的に分別できるようになるのは、両義的媒介項たちが分離と結合の間を分離しつつ結合するように動き回り、マンダラ状の構造の振動パターンを浮かび上がらせた”あと”の話である。

* * *

経験的、感覚的、二元世界のはじまり

こうして経験的に対立する二極をその振動の最大値と最小値として区切り出していくような両義的媒介項たちの分離と結合の間の両極の間の往復が、あるワンセットの経験的にはっきりと定まった二項対立を浮かび上がらせることに成功したタイミングで、一瞬、この分離と結合の脈動を止めて、静止画を描いてみる。

その瞬間、静止画の中に内/外、上昇/下降、水平/垂直、自然/文化といった一連の二項対立の対立組がはっきりと浮かび上がり、その対立組の両極それぞれに、いままで分離と結合の脈動を刻んでいた二つの両義的媒介項が、別々に分かれてポジションを取る。

観測(ある分別と重ねられる)されることで、ある二項関係の向きが定まるのである。

そう言うわけで、仮に姉妹が最初に「上/下」の対立の「上」に居たのであります、と、とりあえず言ってしまうと、自ずから当初は姉妹と分離された”真逆”の位置を取らなければならないヤマアラシは、いやでも「下」に居るのですと言わざるを得ないことになる

ヤマアラシである必要もない

ところで、ヤマアラシというのは単にヤマアラシではないもの-ではないもの、であり、ヤマアラシという即自的に単立する項それ自体に何か神秘的な両義的パワーが隠されているわけではない

ヤマアラシが両義的で媒介的に「なる」のは、ヤマアラシが人間との関係において、逃げる/追いかける、という分離と結合の脈動を象徴しやすいあり方を経験的にしているということであり、またその針が野生のものでありながら驚異的な文化の道具になるという、野生/文化の対立を貫き一つに結びつける、二即一にして一即二のあり方を想起させやすいためである。もし人間がヤマアラシの針を文化の道具として欲することやめて仕舞えば、ヤマアラシは分離と結合の脈動からも離れ、二即一にして一即二というあり方でもなくなり、そうして両義的媒介項の位置に収まることもなくなるのである。

神話においては、ヤマアラシが、ヤマアラシだけが、なにも特権的な両義的媒介項として君臨しているわけではない。いや、端的に分離と結合の脈動と、二即一にして一即二の関係を分離しながら結合することができるのであれば、何であれ、両義的媒介項の位置に収まることができる。

平原地帯のヤマアラシ文東アルゴンキン諸族のカイツブリ文とが相関、対立関係にあるとしても、 両者はある一点においてへだたっている。前者においては、ヤマアラシがふたつの機能を兼ね備えている。つま り、冬の主としての自然的機能と、刺繍の素材である針の供給者としての文化的な機能である。カイツブリ文においても、同じふたつの機能が見られるが、それらは、異なる動物に振り分けられている。文化という面では無に等しいが、自然という面では、春の再来をつかさどるがゆえに無敵の存在であるカイツブリと、アビもしくは「ビーズ飾り」「ピーズ吐き」あるいは「ビーズ頭」(アビの胸は白い羽毛の首飾りで飾られている)と呼ばれるその分身である。後者は問題の諸神話において自然的な性格を付与されておらず、ひたすら文化を体現している。後者が無限につくりだす力を持つとされるワムブム wampumという貝製のビーズは、ヤマアラシの針と同様に、文化のシンボルとなっているのである。自然と文化の交差点であるヤマアラシは、カイツブリとアビというべつべつの登場人物が広げた形で表現しているのと同じ関係を、包んだ形で表わしている。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.295

ある神話では、「ヤマアラシ」が、自然界の「冬の主」の役割と文化的世界の「針の供給者」という二つの役割を持っている。ヤマアラシが自然と文化という対立する両極にまつわる二つの役割をもつものとして語られているのである。しかし、別の神話では、この「冬の主」と「針の供給者」という役割が、それぞれカイツブリとアビという、別々のに付与されている。

文化 / 自然
||
カイツブリ /    アビ
||
ヤマアラシ

自然と文化という経験的で感覚的な対立関係は、多くの神話がその語りの最後にははっきりと分離しつつ、しかし離れすぎずに適度に通路を開いて繋いでおこうとする、付かず離れずの関係にある二項対立である。

この自然と文化の対立二項の両方をヤマアラシという一つの項に置き換える場合もあれば、自然と文化の対立二項をそれぞれ別々の鳥に、おそらくある感覚的な性質において対立関係にある二種類の鳥のセットに、重ねる場合もある

交差点としての項

ここで自然と文化という対立する二項が出会い、すれ違う「交差点」というレヴィ=ストロース氏の表現がとてもおもしろい(「自然と文化の交差点であるヤマアラシは、カイツブリとアビというべつべつの登場人物が広げた形で表現しているのと同じ関係を、包んだ形で表わしている」(上記引用を参照))。自然と文化の関係は「べつべつに」「広げた形」で、つまり分離される場合もあれば、一つに「包」まれる場合もある

二項対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係を経験的感覚的に区別されるものごとの対立関係を組み合わせて描き出す上で、どこ項と項の関係に、はっきりと分離した相を担わせるか(図1でいうΔ-Δの二項関係)、どの項と項にひとつに重なった両義的媒介項としての相を担わせるか(図1でいうβ)は、あらかじめ項それぞれそれ自体の本質や自性によって決まることではなくて、対立関係の対立関係の対立関係をたまたまどう編んだか、ということで決まる。

上の引用に続けてレヴィ=ストロース氏は次のように書く。

「ひとつは逆転したヤマアラシ文という対称的な形で、もうひとつはカイツブリ文という反対称的な形である。いっぽうでは、登場人物は同じだが、垂直方向が水平方向に、高が低に、前が後に、悪が善に等々置き換えられている。他方では、冬が夏に、結氷が解氷に置き換えられるとともに、登場人物も変化している。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.295

垂直方向/水平方向、高い/低い、前/後、善/悪、冬/夏、結氷/解氷、そして両義的媒介項である/両義的媒介項でない、までを含む、あれこれの二項対立関係がどの位置に配列されたときに振動状態を止められるかは、対立関係をおり重ねながらマンダラ状のパターンを編んでいった時の結び目の置き方次第なのである。

関係に先行する所与の項(とその意味)はない

ここで大切なことは、マンダラ状の八項関係こそが「ヤマアラシ」とか「姉」とか「妹」とか「木」といった諸項を他ではない”それ”として区切り出しつつ、その関係を一定の方向で結びつけるのであり、この区切り出す動き、結合から分離へと向かう動きに先行して、あらかじめ諸項たちが所与の実体としてどこかに転がっているわけではない、ということである。

ヤマアラシが「何であるのか」とか、「木」が「なにであるのか」といったヤマアラシや木のいわゆる「意味」といったこともまた、ヤマアラシと非-ヤマアラシを分離しつつある動きと、「ヤマアラシ」とイコールで結ばれる等置される項x、つまり「ヤマアラシの意味内容」の位置に配置される項xとその項xではないものである非-xとを分離しつつある動きとが、共振あるいは同期することによって、はじめて浮かび上がってくることなのである。

+ +

「それらの意味は示差的であって、その対立項の存在によってのみ明らかになる」

以上の検討を踏まえ、レヴィ=ストロース氏は『神話論理』シリーズの白眉とも言える鮮烈な一節を書かれている。

「われわれは、天体の妻たちに関する神話のあらゆる型が、ひとつの体系を形成する相対立する項の組み合わせをつくりだしていることを検証した。それらの項を個別に解釈しようとするのはおそらく無駄だろう。というの は、それらの意味は示差的であって、その対立項の存在によってのみ明らかになるからだ。歴史学派が偶然的なつながりと通時的な発展の足跡を見いだそうとしたところに、われわれは共時性において理解することのできる体系を発見した。彼らがひたすら項目の一覧をつくったところでは、われわれはさまざまな関係以外のなにものも見なかった。彼らが変わり果てた残骸や偶然の寄せ集めをせっせと収集したところでは、意味のある対比を明らかにした。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』 pp.300-301

項を個別に解釈しようとするのはおそらく無駄だろう[…]それらの意味は示差的であって、その対立項の存在によってのみ明らかになるからだ」というところを横断幕に毛筆して自宅の周りに巻き付けておきたいくらいである。いや、毎晩寝る前に唱えるだけでも功徳がある。
あるいはこの一文、非常に理趣経」感がある。

関係が項に先行する

ここでレヴィ=ストロース氏はフェルディナン・ド・ソシュールの次の言葉を引用する。

「[…]すなわち、この領域においては、ものとものとのあいだに打ち立てられる関係が、 もの自体よりも先に存在し、もの自体を決定する役割を果たしているのである」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.301

関係が項に先行する。
しかもこの関係は”打ち立てられる”ものである。

天体の妻たち[…]の神話は、目録に数えあげられたいくつもの型の総体に帰せられはしない。それは、機能しているさまざまな関係からなるひとつの体系という形にいて、個々の型よりも先行する。個々の型はそれらの関係の働きにより生み出されたのである

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.310-311

あるいは、「機能している」関係、「関係の働き」という表現もされている。

つまり”打ち立てる”、”機能する”、”働く”などという言葉で表現される動きこそが、項に先行する”関係”である。
動詞としての関係、動きとしての関係。
関係は関係を関係づける関係なのである。

これは「構造」ということを知る上での秘鑰であろう。

(ソシュールにご興味がある方には、丸山圭三郎氏のこちらの本がおすすめ)

構造、意味すること、記号と意味
二項を分離しつつ結合する

考えてみれば、私たちの世界にあるおよそ名前をもち、言葉で呼ばれ、言葉で形容される事柄のすべては”そのもの・そのこと”と”そのもの・そのことーではない”との二項対立の一方の極なのである。

私たちの世界、現世というものは、対立関係の対立関係の対立関係を結び合わせて固めるように動いた後に、事後的に、第二次的に、あるいは仮設的に、限-定(限られ、定められ)されている

いや、この関係を関係づける構造の動きは決して止まっていない

表層の意識という出来合いの分別済みの対立関係を受け取った後で動く仕組みの中から見ると、構造は、世界を創造するように動いて、そしてどこかへ去っていきました、ということも言えてしまうが、実際には構造の動きは動き続けている。

この表層の、限-定された相に対して、”深層”の神話を浮かび上がらせる論理は対立関係の対立関係の対立関係が、分離したり結合したり、脈動しつづけている。そして瞬間、瞬間、そこから束の間、対立関係の重ね方のパターンが定まった瞬間の静止画を、まるで昔の銀塩写真を印画紙に焼き付けるときのように、言葉と言葉の言い換えの関係である線形配列の上に「定着」させるのである。

もちろんこの定着は、構造の動きの動き方のパターンが変わると、つまり対立関係どうしの重ね合わせ方・結合の仕方にして分離の仕方が変われば、定着された、限-定されたパターンもまた変わっていく。

分離と結合の分離と結合の分離と結合の脈動からの、分節のもつれ方色々

「換言すれば、技術、経済、芸術そして哲学面でヤマアラシほどの重要性をもつ動物の存在が、その不在へと変わればヤマアラシが何らかの役割を果たす場ではどこでも、その役割を失わせないために、ヤマアラシを別世界へ投影する必要がある。そしてそのせいで低所が高所に、水平方向が垂直方向に、内部が外部になどなどと変わるのである。こうした条件があってこそ、つい最近まで一貫していた世界像が保たれるのだ。ヤマアラシの理論が広げた諸関係に適合していたとすれば、新たな焼き直しにおいては包んだ諸関係が要求される。ゆえに歴史的な偶発性がどうあれ、以下のことは真実でありつづける。あらあらゆる形式はたがいにかかわり合っており、そうしたかかわり合いに応じてある内容は許容され、他の内容は投げ捨てられる。そのさいの自由度は、それら内容がばらばらの遊離基として存在するのでないだけに、さらに少ない。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.311

ヤマアラシの神話を語っていた人々が、ヤマアラシが生息しない地域に移動したとしよう。とはいえ移住先には「姉妹」もいれば「樹木」も、まだあったとしよう。そうすると、姉妹との関係、樹木との関係の中で「ヤマアラシ」だけを、別の何かに置き換えることで、現世の分別を立ち上げる「一貫した世界像」を維持することができる。

ただし、ヤマアラシを別の何かに変えてしまうと、このヤマアラシと分離しつつ結合していた項たちとの結びつき方もまた逆になる場合があり、そうして"低所が高所に、水平方向が垂直方向に、内部が外部になどなどと変わる"ということが起きる。

そして、このようにある項が別の項に変わってしまうことは、大した問題ではないのである。

なによりも、関係が項に先行するのであり、低いとか高いとか、水平とか垂直とか、内部とか外部とか言葉で言えることは、それはすべて「項」なのである。関係の後に出てくる項なのである。


北米のアマテラス?!

さて、神話論理のエッセンスたる、”関係が項に先行する”アルゴリズムにふれたところで、レヴィ=ストロース氏はM454「チェロキー 天体の諍い」という神話を紹介している。このM454「チェロキー 天体の諍い」についてレヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

これは日本の神話そのものであるがそのようなことはなにも初めてではないので、ここではこの類似ではなく、あまり問題を引きおこさないべつの類似に注目したい。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.319

M454「チェロキー 天体の諍い」は、日本の神話の太陽神、アマテラスの岩戸隠れを彷彿とさせる、というか、まさにそのもの、という話である。
どういう話か見てみてよう。

太陽の天頂に、母である太陽大地の反対側に住んでいた。
毎日、日々の運行の途中で太陽は娘のところに昼食のために立ち寄った

この太陽は人間を憎んでいた
彼らが自分を見て顔をしかめるからである。

太陽の兄弟である月
自分の前では人間はにこにこしていると反論した。
太陽はそのことでさらに嫉妬し、人を死に至らしめる熱病をはやらせた



人間たちは熱病による絶滅をおそれ、守護霊たちに助けを求めた。
守護霊たちは太陽を殺すことにきめた。
彼らは毒ヘビを隠して太陽を待ち伏せた。
ここで神話のバージョンによって、太陽が毒蛇に噛まれて死ぬパターンと、太陽の娘が毒蛇に噛まれるパターンがあるという。
ここでは、ヘビが母と間違えて娘を殺してしまったヴァージョンで話を続ける。
娘を殺された太陽は喪に服すといい、隠れてしまった。
もはや死ぬ人間はいなくなったが、永遠の闇が支配した
太陽が姿を見せることを拒んだからである



守護霊たちの忠告にしたがって、人間たちは、娘を母の太陽に返すことにし、太陽の娘の魂を迎えに行くための遠征隊を「魂の国」へと派遣した。
西の方にある魂の国に行き、太陽の娘を棒で打ってつかまえ、その身体を大きな箱に入れ、帰りつくまでけっしてふたを開けないようにして運んでくることにした。

七人の男がこの任務についた。
うまい具合に太陽の娘を箱に閉じ込めて、運び始めた。
彼らが帰る途中、娘は箱の中で生き返り、外に出してくれと箱の中で暴れた。運んでいる男たちは聞き入れなかった。
箱を決して開けてはならない決まりだったからである。

しかし、太陽の娘は、空腹と渇きで死にそうだ、息もできないと訴えた。
七人の運び手の男たちは、太陽娘がまた窒息で死んでしまうのではないかとおそれた。
そこでわずかばかりふたを開けてみた。

その瞬間、太陽の娘は小鳥となって逃げていってしまった




これが原因で、人間が死ぬと二度と生き返らせることはできなくなったのである。もし使者たちが、禁を破ることがなければ、人間を生き返らせることができたものを。

太陽はどうしたかというと、娘を二度も失ったことをひどく悲しみ、大地に涙の洪水を起こしてしまった。

+ +

人間たちは溺れることをおそれ、太陽の気をひこうと非常に美しい少年少女を送って太陽の前で踊らせた
太陽は歌や踊りには関心を示さず、長いこと顔を隠していた。
しかし、ひとりの太鼓打ちがリズムを変えることを命じると、太陽は驚いて目を上げ、目に入った踊りがとても 気に入り、笑みを浮かべた

pp.318-319, M454「チェロキー 天体の諍い」より

太陽/月

太陽と月が姉弟(あるいは兄妹か)の関係にある。

太陽 / 月

つまり太陽と月は兄弟姉妹であるという点で”同じひとつの”存在であるが、しかし男/女の軸でははっきりと分離し、おそらく昼/夜、という天体の周期的運動のパターンにおいてもはっきりと別れて対立をしている。

つまり太陽と月は、分離しながらも結合し、結合しながらも分離する、という振動パターンを描いており、つまりそれぞれ両義的媒介項(仮にβと表記する)である。

この太陽と月の対立は、

人間が嫌い / 人間が好き

という軸上でもはっきりと対立している。
ちなみになぜ太陽が人間嫌いであるかといえば、これは人間が太陽を見る時に「顔を顰めるから」であるという。これは太陽と月の兄弟の太陽の方がカエルと、月の方が人間の娘と結婚しながら、トラブルになってカエルが義兄弟である月にへばりつく、という神話とおなじパターンである。

顔を顰める人間 / にこにこしている人間

さて、ここで太陽神は人間を憎むあまり「熱病」を流行らせて、人間たちを滅ぼそうとした。

地上に近すぎる天上の太陽

人間たちは、暑すぎる熱で滅亡させられてはたまらないと守護霊たちを集めて太陽に挑む。ここで神話は二つのバージョンに分かれるという。

まず、守護霊たちが毒蛇を使って太陽を倒して娘太陽と交代させるバージョンである。この「娘」というのが、今日私たちが空にみることができるこの太陽、人間にとって適度に暖かく、暑すぎない太陽である。このバージョンは暑すぎる太陽を射落とすなどして減らす神話と同じで、地上に近くに結合しすぎて熱で焼き払ってしまう天界を、適度に地上から分離するという話である。つまり、天地未分の状態から、天/地が分離された状態になりました、という創世神話である。

また別のバージョンでは、毒蛇が、間違って太陽ではなく、太陽の娘を噛んでしまう。こちらでは、太陽は娘を失ったショックで、どこかに隠れて、姿を見せることを拒み、その光を地上にそそがないようになってしまう。こちらのバージョンは岩戸隠れそのものである。

地上と天上の太陽との過度な分離

太陽の娘(こちらは適温の太陽であるはずのものである)も失われ、太陽もどこかに隠れてしまう。世界からは光が失われたのである。

これによって熱病の蔓延は止み「もはや死ぬ人間はいなくなった」のであるが、しかし今度は「永遠の闇が支配」することになる。

* *

真っ暗闇に困った人間たちは、なんとかして、太陽を隠れ場所から引っ張り出そうとする。そのための手段として考えたのが、太陽の娘を生き返らせることである。人々は太陽の娘を迎えに「魂の国」へ行く。そこで太陽の娘を捕まえて、箱に入れて連れて帰ってこようとする。

生/死が分かれつつも分かれていない(魂を取り返せる)

しかし、太陽のもとにたどり着く前に、言いつけを破って箱を開けてしまい、太陽の娘は太陽の娘ではなくなって(小鳥に変身)、どこかへ飛んでいってしまった。この鳥は夜明けを告げる太陽の小さな眷属ということになろうか。

大洪水

娘を連れ帰ることで太陽に再びご出場願おうという作戦は、失敗に終わったのである。しかも、太陽がさらに悲しみを深めて、大洪水で地上を流し去る始末である。

人間の世界は、熱すぎる太陽がいる天界と過度に結合し人間が生きることのできない状態から、真っ暗で冷たい深い水界と過度に結合し、これまた人間が生きることのできない状態へと逆転した。天界から水界へ、眩しく暑すぎる状態は脱したが、今度は真っ暗で冷たくなってしまった。人間の世界は天界/水界の中間「中つ国」でなければならないが、このときはまだ、天/地が過度に結合したかと思えばあっという間に過度に分離する、分離と結合の分離と結合が強く振動しており、未だ天地分かれず、という具合になっている。

* *

ちなみに、この時点での「人間」は、いわゆる今日の私たちのような人間ではなく、未だ神話的な、神話の神々と非同非異な人間たちであり、そうであるからして「魂の国」を訪れたり、太陽が流行らせた熱病さえなければ、いつまでも生きていることができるような神的人間である。

生の世界と死の世界とのはっきりとした分離

このような不死の神的人間が、寿命をもった我々のような人間になったのは、この太陽の娘を開けてはいけない箱の中から逃してしまったからである。この辺りは「浦島太郎」が玉手箱を開けて急に歳をとる話とそっくり同じである。

この箱を開けてしまったことで、人間たちは死後に生き返ることができなくなった、という話になっている。ということは逆に言えば、これ以前には死んでも「魂の国」から連れ戻しれくれば、またいくらでも生き返った、ということなのである。生死が分かれながらも分かれていない状態だったのである。

ところが「開けてはいけない玉手箱を開けてしまった」件で、生/死の分離が確定されてしまったのである。

アメノウズメ

さて、ここで神話は岩戸隠れのアメノウズメのような話になる。
人間たちは「非常に美しい少年少女を送って太陽の前で踊らせ」て、太陽の関心を引いて再び外に連れ出そうとする。

しかしアマテラスは、いや、チェロキーの太陽神は、踊りに興味を示さず、出てこない。ところが太鼓のリズムが変わったことで、太陽は人間たちの踊りに興味を持ち、その様子を眺めるために外に出てくる。

リズムが変わるということは、すなわち曼荼羅状のパターンを描く波紋の形が変化するということである。それはつまり曼荼羅状の対立関係の対立関係の対立関係、つまり分節の編み方が変化したということであり、世界の現れ定まる姿が変成した、ということである。これには太陽神もご興味を持たれるだろう。

波紋を浮かび上がらせる律動が変わる

こうして大洪水は去り、天/地が適度に付かず離れずになり、そして人間には生/死の区別がある、この現世が開闢することになる。日本のアマテラスの神話では、この後にスサノオが八岐大蛇を退治し、地上世界に野生と人間の世界の区別、自然と文化の区別を切り拓く、という話に繋がる。

この神話では、現世の私たちにとっての極めてプリミティブな分別、二項対立が未だない(天/地、生/死、内/外、神/人の区別もよくわからない)ところから、私たちの日常を意味づける分節が区切られてくる様子が語られている。

太陽の娘を容器に閉じ込めて、西から東へと運ぶくだりでは、「決して開けてはいけない」容器というものが出てくる。これは「カヌーに乗った太陽と月の旅」の神話M326aの「夜」を容器に入れて運ぶ話とそっくりである。

容器というのは開けたり閉めたり、入れたり出したりすることができるからこそ容器なのであるが、ここでは「決して開けてはいけない容器」という容器であって容器でない状態に励起(両儀的媒介項化)されている。

この不思議なβ容器の移動と開閉によって

分離 / 結合 (容器と太陽の娘との間で)
うち / そと (容器の開閉の間で)
東 / 西 (容器の移動ルートの始点と終点の間で)

といった分別が際立ってくる。
そしてこのくだりで、人間が”不死ではなく、死すべき者になる”という、生/死の分別が定まることになる。

生 / 死 (容器の開閉により)

生/死の区別は、人間が生まれては死に、生まれては死に、という、生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりにも暗い、と弘法大師空海が書くところの輪廻的な「周期性」の起源でもある。

周期性があること / 周期性がないこと

天体同士の争いのようなことから(上の神話では太陽と月が人間を好くか嫌うかで大論争を繰り広げているのである)、天/地区別が始まり、非周期性から区別される周期性を示す天体の運動が始まる。

* *

北米の神話と日本の神話がそっくりであるのはなぜか

このような天地開闢の神話が、日本と北米とで、同じような二項対立関係の対立関係の対立関係として編まれているというのがとてもおもしろい。

われわれ人類は、古代の日本であっても、北米であっても、天体たちが近づいたり離れたりする動きや、人間が太陽を見るときは顔を顰め月を見るときは微笑む様子や、容器には蓋があって開けたり閉じたりすることができるという、よく似た生活経験をしてきた。このような「経験的区別」を「概念の道具として」「さまざまな抽象的観念の抽出に使」い、そうして「その観念をつなぎ合わせて命題に」してきたのが、われわれ人類なのである。

生のものと火を通したもの新鮮なものと腐ったもの湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにして行われるかを示すのが本書の目的である。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理I 生のものと火を通したもの』p.5

これはレヴィ=ストロース氏が大部の『神話論理』の冒頭に書かれている、この研究の主眼である。

ここで興味深いのは、日本の神話では、天岩戸という「容器」の中に入るのはアマテラスであるが、北米のこの神話では、太陽の娘が「容器」の中に入っているという細かな違いである。しかも太陽の娘は、アマテラスのように自分から容器に入ったのではなく、棒で打たれて無理やり閉じ込められ、そしてアマテラスのように自ら容器の蓋を開くのではなく神的人間たちによって蓋を開かれ消極的に仕方なく出てくるのではなく、猛スピードで飛び出して逃げ去っていく

この”逆になっている”ことの妙を、「関係が項に先行する」という観点からおもしろく眺めることができるのである。


つづく


関連記事


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。