"相互包摂"であらゆる「項」を両義的で中間的で媒介的にする ー 『今日のアニミズム』を読む
(本記事について、twitterにて著者の清水先生に言及いただきました。
ありがとうございます。)
アニミズム
アニミズムと総称されるさまざまな思考においては、たとえば「人間」対「動物」であるとか、「人間」対「植物」、あるいは「人間」対「自然(鉱物から気候や天体」、さらには「現世に生きる人間なるもの」対「それ以外のもの(人間や他のさまざまなものの霊など)」といった二者の対立関係を立てた上で、一方が他方に変身したり、この両者の間を行ったり来たりするモノのことが語られる。
「人間」<変身・往来>「動物」
「人間」<変身・往来>「植物」
「人間」<変身・往来>「自然」
「現世に生きる人間なるもの」<変身・往来>「それ以外のもの」
そこではたとえば人間が動物になったり、動物が人間のようにしゃべったり、動物が人間の祖先だったり、死者が生者に変身したり、といったことが語られる。
ここではある二項が対立関係の両極にあるものとして区別され、分節されながら、同時に一つに結びつけられる。一つに結ばれるといっても、区別不能な状態にまで一体化してしまうのではなく、あくまでも二のまま一になる。二即一でありながら一即二、さらには多即一でありながら一即多と言う関係が考えられる。
ここで二項は分かれながらつながり、別々でありながら一つであり、別れようとしながら繋がろうとする、付かず離れずの曖昧さの中にある。
この付かず離れず、分かれながらつながる、別々でありながら一つである(でも別々である)と言う話は意味分節理論の核心にある論理というかアルゴリズムでもあり、個人的にとてもおもしろいと思う探求のテーマである。
両義的媒介項
アニミズムと呼ばれる思考のうちのある種のもので、この付かず離れずの均衡状態を作り出す鍵を握るのが、両義的な第三項、媒介者と呼ばれるものたちである。
特に神話にはたとえば人間界と動物たちの世界との間を行ったり来たりする媒介者が登場する。媒介者は人間でありながら動物の言葉を介したり、逆に動物でありながら人間のようにしゃべったり服を着たりしている。彼らは二極のどちら側でもあり、どちらでもない。中間的で、両義的、曖昧な存在なのである。この媒介者が往来することで、鋭く対立する二項対立の両極は、はっきりと区別されながらもつながり続けることができる均衡状態が保たれることになる。
(このあたりの話は、下記の記事にも書いていますのでご参考にどうぞ)
『今日のアニミズム』も、冒頭の奥野克己氏の論考「アニミズム、無限の往還、崩れる壁」は、人間とクマの間を行き来する媒介者的な存在の話から幕が開かれる。
二項対立関係を三つ組み合わせる
『今日のアニミズム』を読む中で、特に「目から鱗が落ちる」感動を覚えたのは第二章、清水氏による「トライコトミーTrichtomy(三分法)、禅、アニミズム」である。
*
何が目から鱗かと言えば、次のような次第である。
以前から私は、レヴィ=ストロース氏の著作や、中沢新一の著作を読むつど、両義的媒介項が重要だ、第三項が鍵を握っているのだ、という思いを新たにしてきた。
井筒俊彦氏の意味分節理論風に言えば、固着し動かなくなった分節(分節I)から未分節へと移行し、そして未分節の只中から新たな分節(分節II)を動的に普段に発生させ続けることが、生命にとって、言語にとって、意味するということにとって、どれほど重要であるか、という話である。
しかしながら今日の社会の表層では、両義的な媒介者、第三項のようなものは無視されたり、冷笑されたり、「分からん」の一言でスルーされたり(媒介者は分け切ってしまうことに抗っているのだから「分からん」というのは正当な評価ではあるが!)、場合によっては積極的に排除されたりする。
「分節」ということを、静的なものから動的なことへと転換すること、確定的に固着した二項対立関係から常に分化しつつつながり続ける発生状態にある関係へと転換することを妨げているのは一体何者なのだろう。
この謎が目の中の鱗のようなものになっておりました。
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そこで、トライコトミーTrichtomy(三分法)である。
トライコトミーTrichtomy(三分法)というのは、清水氏によれば「哲学や宗教的経験 --とりわけ、アニミズムのような根源的な宗教的感情」を「分析」し、その「理論形成」に挑もうとする古今東西の思想にしばしば現れる普遍的な構造である(『今日のアニミズム』p.58)。
例えば、神話や詩や絵画などの芸術では「二項対立、二元論の複雑な調停と超克」をモチーフとする様々なシンボルたちの組み合わせと、その運動が語られ描かれる(『今日のアニミズム』p.56)。また東洋の宗教や哲学では古来から、二つに分かれつつ一つに結ばれた、一つに結ばれつつ二つに分かれた、「二項対立」のダイナミックな発生と重畳と変容の運動が問われ続けてきた。
ちなみに、この東洋の思想の共時的構造に着目し、その論理から意味分節(コトバとコトバの対立関係の対立関係の発生)の理論を立ち上げたのが井筒俊彦氏である。
さらに、この東洋の思想にしばしば登場する「二即一、一即二」の論理は、主体と対象、人とモノの間で進行し展開する動的な関係をモデル化し記述しようとする様々な科学の分野にも影響を与えている。
レヴィ=ストロース氏の「構造」
さて、二項対立、二元論の調停ということの重大性に気づいた20世紀の重要人物といえば、やはりクロード・レヴィ=ストロース氏である。
清水氏によれば、レヴィ=ストロース氏の思想のキータームである《構造》とは、無数の二項対立関係をそれが「生まれる」相で、ダイナミックな発生の相で捉えようとしたものである。
レヴィ=ストロース氏がいうところの「構造」とは、「確定的な」(つまり固まった、一貫した、それ自体の本質によってそれであるような)要素を部品にして組み上げあられる不変不動の安定した構造体ではない。「構造」は、止まってはおらず動いており、不変ではなく変化している。対立関係をなす二項の双方それぞれが、次から次へと新たな対立項を呼び集める。そうして対立関係が「連鎖的に次々と増殖する」ことになるのである(『今日のアニミズム』p.56)。
付かず離れずの対立関係を発生させ続ける《構造》のグニャグニャとした動き中で、はさまざまな「項」たちが周囲と区別されつつ発生しては消え、発生しては消えを繰り返している。
「項」たちの中には、相対的の他の項よりも強く長く持続し、比較的安定した姿を見る者に印象付けるものものもあるが、それもまたいずれは解消されていく結目の一つである。見方によっては、そこに構造と項、あるいはかっちりとした構造体とそのしっかりとした要素、「全体」的な姿と「部分」的な姿などを見分けることもできるが、いずれも「確定的」なものではない。
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ところが、今日の私たちにとっては、ものごとを「確定的」な要素が組み合わさった不変不動の構築物とみる見方の方が馴染み深いものになっている。清水氏が次のように書く事態である。
「人間」と「自然」でも、「主体」と「対象」でも、対立する二項の関係の考え方として(1)完全に分離して考える、(2)不可分一体と考える、(3)一方を他方に還元して考える、といったパターンがあり得るという。
しかし、このいずれを選ぶにしても、「単独の二項関係の両極の緊張ばかりに関心が向かってしまう」ようであると、それこそレヴィ=ストロース氏の二項対立ジェネレータのような《構造》の動きを見過ごしてしまう。「《どちらでもない》」中間状態から、さまざまなバリエーションの「対立の絡み合い」が発生してくる不確定なダイナミックな動きを見過ごしてしまう場合がある(『今日のアニミズム』p.63)。
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しかし、人類の歴史を振り返れば、確定的な特定の二項対立への還元主義的なものの見方がまかり通っているのは「例外的」な事態である。むしろ二項対立関係が続々と発生し、項と項が自在に結びつきを強めたり弱めたりしながらぐにゃぐにゃと動いているような未確定で不確定な事柄を思考することこそが、人類の知性の普遍的な動き方なのである。
両義的、中間的、媒介的、第三項
ダイナミックな構造の運動は、さまざまな二項対立関係を自在に重ね合わせ、組み合わせ、対立関係の両極にある「項」たちを互いに他の項と”異なるが同じ”、”二にして一、一にして二"の関係で結んでいく。
この構造の分けつつ結ぶ動きが、東洋の伝統で分別識とも呼ばれる私たち人類の意識に映る時、そこに浮かび上がってくるのは二項対立関係の関係として、もともと関係がなかった二つの二項対立関係同士を結びつける両義的で中間的な媒介者「第三項」の活動である。「二つの事物が[…]有縁性をもつようになるのは、第三の事物との結びつきを通じて」のことである(『今日のアニミズム』p.56)。
レヴィ=ストロース氏は神話を、二項対立関係の対立関係が両義的中間的第三項の媒介によって増殖して行くプロセスと見た。
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中間的で両義的な第三項は、例えば「内/外」といった対立関係にある二項が「相互」に「包摂」し合うところに姿を顕す。
素朴に「内と外の包摂」と聞くと、「外」に囲まれて「内」があるとか、「内」なるものが「外」によって包まれている、という一方的で固定的、確定的な関係をイメージしてしまうところである。
が、しかし、ここであえて「相互包摂」を考えるのである。
ある対象は「ゆるやかにあらゆる他の対象との関係に包摂される」。
これを「事事無礙」言い換えてみても良いかもしれない。
清水氏は上につづけて次のように書かれている。
相互包摂とは、内は外であり、外は内であり、というか、内でもなく外でもない、という事態である。内と外の区別は、人類の感覚や思考、身体に根差した分節や、言語のシンボル体系に基づく分節体系を支える最も基本的な分節、二項対立の一つである。今、相互包摂ということで、この人類にとって基本的な二項対立関係が中間的で曖昧な、不確定な状態へと開放されるわけである。
◇ ◇
人類にとって基本的な二項対立関係として、内と外の対立の他にもいくつかの対立関係がある。
清水氏がトライコトミーを論じるにあたって注目されているのは、「内と外」の対立と、「主体と対象」の対立、そして「一と多」の対立である。
内(被包摂) / 外(包摂)
主体 / 対象
一 / 多
三つの二項対立
この三つの二項対立関係は、それぞれ付かず離れずでどちらでもない中間的状態に揺れ動いているのであるが、しかしどういうわけだか、しばしば確定的にはっきりと分離されて混じり合わないようになっていると思われてしまうことになり、ここに単純な固まった二項対立関係が確立することになる。
*
これをあえて、井筒俊彦氏の用語を真似て書いてみるならば、二項対立関係が発生しつつある中間的な付かず離れず、不確定の状態は、「深層」の「未分節」ということになるだろう。これに対して、二項対立関係が固まって確定している状態は、「表層」の「分節」ということになるだろう。
そして根っこの深いところでは常に動いて流れているにもかかわらず、表に出たところでは止まってしまっているように見えるのは、個々人の一生を超えて伝承される超個的な「言語アラヤ識」の作用、私たち一人一人が利用可能な言語的シンボルの体系が、個々人にとっては所与の道具のようなものとして与えられることの効果によるもの、という話になる。
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この三つの二項対立関係は、いずれも常に、どちらでもない中間的な状態に宙吊りになっている必要がある。
主体と対象も相互包摂しあい、二にして一、一にして二である
「主体/対象」という二項対立についても、主体と対象が完全に分離することもなく、一方が他方に吸収されてしまうのでもない、別々に分かれながらも一つにつながっているということを考えることができる。対象は主体でもあり、主体は対象でもあり、二項は「精確にはそのどちらにも一方的に還元されないような、対象世界そのものがそれを生み出しつつ遍満するさまざまな主体の輻輳する働きでもあるような世界」を織りなす、と考える(『今日のアニミズム』p.78)。
ここで主体と対象をこのような一方が他方でもあるという関係に引っ張り込む者は、他でもない先ほどの「内と外」が相互包摂し合った中間的で曖昧な第三項である。
「主体」が、内と外が相互包摂しあう第三項と結ばれ、また「対象」の方も、同じく内と外が相互包摂し合った第三項に結ばれる。そうして主体と対象の関係が、相互包摂関係に置き換えられる。
一と多の関係も相互包摂しあい、二にして一、一にして二である
ここで「一 / 多」の対立関係にある二項も、同じくそれぞれ内と外が相互包摂し合う第三項に置き換えられる。「一」と「多」の関係が、これまた相互包摂関係に置き換えられる。そうして「一」と「多」が相互包摂し合う、一即多、多即一の世界が開かれる。それは「汎生命的な世界の網の目」でもあり、それこそが「アニミズムが直覚している世界」であると清水氏は書かれている(p.79)。
そこでは全てものもが互いに他とは異なるものとして区別・分節されつつも、しかし初めから最後までつながったままである。
包摂と被包摂、包摂することと包摂されること、この二項対立は徹頭徹尾「相互包摂」である。この”相互包摂しあっている包摂と被包摂の二項対立”に、他のあらゆる二項対立が重ね合わされることで、他のあらゆる二項対立の方も、その両極にある二項が一方にして他方、他方にして一方、どちらでもありどちらでもない、という中間的で両義的な状態に浮かび上がるのである。
包摂 ><>< 被包摂
|| ||
一 ><>< 多
主体 ><>< 対象
こうなると、あらゆる項は、ぞれぞれいずれかの、またいくつかの二項対立関係のどちらかの極を占めると同時に、全くそのままで、両義的な媒介者でもある、ということになる。
ここにいわば、全ての項が全ての項と潜在的に分かれつつ結びつつある、ネットワーク状というか、インドラの網状の何かがイメージできるようにもなる。
”包摂と被包摂の相互包摂”は、至る所に両義的中間項を発生させて、固着した表層の分節体系(分節I)を、動的な分けつつつなぐ動き(分節II)へと転換させる鍵である。
ここで先ほどの「目から鱗」になる。
ちなみに、仮に本当に目に鱗が入ったとすると、何らかの方法で除去しなければならないのであるが、古来そのための用途に使われた「眼石」なるものが神話において分離作用を司どる媒介者として登場することを指摘しているのが、南方熊楠氏の「燕石考」である。
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レンマの論理
”包摂と被包摂の相互包摂”。こうした、分かれながらつながる、内でありながら外である、といった曖昧な中間状態を言語的に思考することを可能にしてくれるのが「レンマ」の論理である。レンマの論理は「Aであり、かつ非Aである」や「Aでもなく、非Aでもない」という命題を立てることを許す。
不確定のままの中間性を認めない二元論は、物事はAか非Aかのどちらかである。中沢新一氏はこういう中間性を認めない、二極のどちらかを選ばせようとする論理を「ロゴスの論理」と呼び、レンマの論理と対比させている。
ここで清水氏は特に「Aでもなく、非Aでもない」(第四レンマ)が重要であると書かれている。
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「Aでもなく、非Aでもない」であるとか、あるいは「(Aは非Aを)包摂してもおらず、(Aは非Aに)包摂されてもいない」という中間的で媒介的な二項対立をを、いついかなる時も、何事を語るにしても、およそ言葉なるものを繰り出そうとする時に、いつも常に傍に置いて、そして続々とあわれてくる言葉たちと、その言葉と潜在的にペアになり得そうな他の言葉たちとに重ね合わせていく。
そうした語りというか、思考を実践し続けることを許すような空間を、この世のどこかに残し余らせておくことはできないものか。
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個人的に、井筒俊彦氏の意味分節理論などを読みながら、いつもこの辺りのことを思っているので、『今日のアニミズム』は非常に印象深い一冊となりました。
なお、今これを書いている「最近」の「私」が「読む」と、なんでも意味分節理論に見えてしまう。この記事の文章もそういう「読み」のメモ、読みの記録のようなものであるからして、清水氏のトライコトミーTrichtomy(三分法)論に興味を持たれた方には、ぜひ『今日のアニミズム』を手にとっていただきたいと思うのであります。
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