夢、マンダラ、神話は心の表層の一番底(心の深層の一番上澄み)に浮かび上がる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(72_『神話論理3 食卓作法の起源』-23, M439誤った選択)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第72回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第四部「お手本のような少女たち」から「ヤマアラシの教え」にかけてを読みます。
ここではマンダラを観想することと、神話の語りを聞くことは、心の底の底において同じようなゆらぎ・振動を生むのではないか、ということを考えつつ『神話論理』を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
分離と結合の両極を、分離しつつ結合する
レヴィ=ストロース氏は『神話論理』で神話を分析する目的について次のように書いている。
神話は「経験的区別」を「概念の道具」として「抽象的観念」を抽出する。このプロセスについて理解するための見取り図として、この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンをいわば影のように浮かび上がらせる脈動あるいは波紋が共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
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神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを(仮に)目指している。
そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へとながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へとながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この分離を引き起こす軸と結合を引き起こす軸は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないの」たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
この世界は、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
言葉と、その意味することを、ずらしていく
『神話論理3 食卓作法の起源』、271ページからの「M439 アリカラ 誤った選択」をみてみよう。
この神話を、下記のマンダラ状の図を思い描きながら読んでみよう。
この神話の冒頭、主人公は、「鳥」に導かれ、謎の「赤い男」に会う。これはつまり、普段主人公がそこに居る=結合している人間の世界から”分離”して、非-人間界へと赴く=結合しようとする。
こちらと分離し、彼方と結合する。
経験的に結合しているところから、分離する動きである。
ここから経験的で感覚的な区別、分別のシステムが揺さぶられ、動き始める。
人間界 / 非人間界
→主人公→
この主人公は、人間界と非-人間界という経験的に対立する二極のあいだを動き回り、いわばこの二極に対してそのどちらでもない位置にいる。図のΔ、βの記号を置いてみると、次のようになる。
人間界Δ1 / 非人間界Δ4
→ 主人公β1 →
上の図では仮に、経験的感覚的に対立する二極の間を動き回るもの(時に振幅を描くように、ドゥルーズ、ガタリのいう「リトルネロ」のように)を、「β」と置く。
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過度な結合からの、過度な分離への急転換
次に、主人公は「太陽」と「月」に順番に出会う。
ここでこの太陽と月は、対立している。
太陽 / 月
太陽は、主人公に「舌」を切らせて殺してしまう。
一方、月は、主人公を助けて、蘇らせる。
月 / 太陽
||
生 / 死
生/死という経験的感覚的に真逆に対立する二極に、月と太陽のペアが重ねられることで、月と太陽もまた真逆に対立するのだということが強調される。
ところで、この太陽と月は、私たちが経験的感覚的に空に見ることができるあのΔ太陽やΔ月ではない。β1主人公と会話したり、騙したりすることができるという点で、図中のβの位置にシフトしているものである。そもそも「赤い男」に変身している時点でこの太陽はいつものあの太陽ではない。
このβ太陽は、自分が持っている超自然の力を主人公に”分け与え”る代わりに、主人公もまた、主人公自身と不可分の所有物を分けてよこすように命じる。
おたがいに自分自身と不可分のことを分離して交換しあうことで、主人公と太陽が等しくなれる、主人公が太陽のパワーを得られる、という話にするのである。
しかし、この主人公と太陽が同じになってしまうことは、つまり過度に結合して一つになってしまうことは、この神話の語りが目指すところではない。β項同士がくっついてしまったところで止まっては、Δ四項関係が分別せず、つまり現世が開闢しないから、神話にならないのである。
ここで、太陽は超自然のパワーの秘訣を自分から分離して主人公に結合する代わりに、主人公はその「舌」を分離して、太陽に与えることを求められた。舌は人間の身体の一部であるが、毛や爪のようなものとは違って、切って分けられるような部分ではない。舌を切るということで、主人公は過度な分離に巻き込まれ、生/死の分別を超えてしまう。
ここでは分離が過度なのである。
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太陽と主人公が過度に結合しすぎて、もう二度と分離できないような事態は回避された。そしてすぐに「月」によって主人公は復活する。
生/死
この経験的で感覚的な世界では決定的に分離されている二極の間も、神話のβたち、すなわち感覚的で経験的に分別された対立する二極の間で高速の振幅を描く、二極のどちらでもあってどちらでもない中間的で両義的で媒介的な項たちにとっては、容易に行ったり来たりできるところなのである。
分離しながら結合する、結合しながら分離する
+ +
月は主人公に太陽の秘密を教えてしまう。
太陽から課される次なる試練は隠された秘密を見抜くことであると伝える。太陽は「二つの武具」のうちの「片方を選べ」と選択を迫ってくるという。二つの武具のうち、どちらが超自然のパワーをもつもので、どちらがそうでないものなのか、主人公にはわからない、選べないのである。
そして月は、「古い方」が本物だ、正解は「古い方」であると、太陽の秘密を暴いてしまう。
人情としては、新しくて綺麗な方こそ「価値が高そう」であり、こっちを選びたくなるところであるが、これは「正直な木こり」と同じで、古くてみすぼらしい方、一見すると値打ちがなさそうなものの方に、実はより高い価値がある、という逆転した、捻れた構造になっている。
すなわち、経験的には、下記のような分別が妥当であるのに対して、
新品 / ボロボロ
|| ||
価値が高い / 価値が低い
この神話ではこれが逆に
新品 / ボロボロ
|| ||
価値が低い / 価値が高い
となる。
価値が高いと思ったものが実は価値が低く。
価値が低いと思ったものが実は価値が高く。
価値の高/低という経験的な二項対立が、ここでは逆になっている。
知るも知らぬも
主人公はこの秘密をあらかじめ月によって種明かしされた上で、みごとに太陽から超自然パワーを貰い受けてしまう。
太陽は、主人公が何も知らないものと思って謎かけをしている。
しかし主人公は、正解をあらかじめ知っているのである。
主人公は太陽を騙した訳である。騙すというのは、さも結合しているように思わせて、実は分離している、ということであり、結合しているのに分離している、分離しているのに結合しているようにみえる、という分離/結合の両極の間をあいまいにするとても便利なやり方である。
ストレートなコミュニケーションは過度な結合で世界を壊す。
ディスコミュニケーションは分離と結合のあわいに世界を創る。
そうして主人公は、太陽の息子たちといういかにも強そうな連中によって退治されかけるわけだが、逆に太陽の息子たちを返り討ちにするという、これまた逆転を引き起こす。
強い / 弱い
勝ち / 負け
* *
この神話でおもしろいのは、最初、太陽は主人公に直接、ストレートに、超自然の力をくれてやるから、舌を切ってよこせ、と要求してくる。この要求は因/果の関係を、どうすればどうなると、はっきりと伝えている点で、極めて合理的な情報交換、コミュニケーションになっている。
しかし、情報として正確だからといって、「はい、わかりました」と言われるがままに舌を切ってしまったら、主人公は命を落としてしまうのである。”話としては理にかなった交換だけれども、実際にはできないよね”というところである。
+
これに対して、二回目の太陽との駆け引きでは、太陽が隠蔽されたコミュニケーションを仕掛けてくる。つまり、新旧二つの武具から片方を選ぶ、という課題を出すワケであるが、どちらを選ぶのが正解であるかは、教えてくれないのである。先ほどの「舌を切ってくれたら、パワーを授けてやる」というのがストレートな原因と結果の関係を示していたのに対し、「結果がどうなるかわからないが、とにかく選べ」というのは、なんともはっきりしない感じである。
しかしこの「結果どうなるかは教えないが、とりあえず選べ」は、”話としては無茶苦茶だけれど、選ぶだけなら、実行するのは簡単だし、さしあたって危険はなさそう”である。
先ほどの「舌よこせ」とは、見事に逆になっている。
そしてこの太陽によって隠された情報伝達に対して、主人公は、実は密かに答えを知っている、ということによって対抗する。
一方は隠し、他方は騙す。
健全なコミュニケーションとはいえない、コミュニケーションであってコミュニケーションではない、という状況であるが、この曖昧さが、太陽と主人公を極めて近くに接近させたのちに、一挙に分離する、という、結合から分離への急転換、付かず離れずのバランスを安全に実現させる。こういうのを図1では、βたちがたがいのあいだの距離を短くしたり長くしたりすることで、中心に集まったり、横に薄く潰れたり、縦に長く伸びたり、正方形に分離したりする脈動として図式化している。
* * *
こうして、太陽の元から去った=分離した戦士は、どうやら人間の世界に帰ってきて、人間たちの間で、つまりこの現世で、優れた狩猟者として暮らしたのであるが、時を経て目が見えなくなると、つまり太陽の光のもとでものごとの分別を”みる”ことがなくなると、どうやら太陽に許され、また太陽の近くに結合する。
振動する四つの両義的媒介項
主人公β1 / 太陽β2 / 月β3 / ボロボロなのに価値の高い武具β4
という四つのβが、まず主人公β1ー太陽β2の軸を一点に収縮させるほど過度に結合したかとお思うと分離する(このとき、β3とβ4は最大の距離に分離される。話題にもならないほど、無関係にである)。
つぎにβ1とβ3が適度に接近する(過度には結合していないが、重大な秘密を共有するという点でひとつになっている)。このとき同時に、β2太陽とβ4ボロボロなのに価値の高い武具も適度に接近している。
そうして改めてβ1とβ2が対峙するが、この対峙は、隠すことと嘘をつくことによって結合しながらも分離し分離しながらも結合するという、過度な分離でもなく過度な結合でもない、ちょうどよい強めの結合関係に入る。
そしてここで、β4ボロボロなのに価値の高い武具がβ2太陽のもとから離れ、β1主人公のもとに移動する。
そして、β1主人公が年老いて、おそらくもう戦士として戦うことができなくなったとき、おそらくβ4とは分離することになるのだろう。そしてβ1主人公はβ2太陽の客人としてその家に招かれる。客と主人というのは経験的にもよくある安定した分離しながらの結合である。
こうして、四つのβが過度に結合しすぎることもなく、分離しすぎることもない、というおそらく綺麗な正方形を描くような配置になって、そこに世界が、人間界Δ1/非人間界Δ4 の安定的な分離と結合の静的にさえ見える秩序が確立する余地が生まれる。
・・・
ちなみにΔ2とΔ3はどこにいったかというと、太陽との最初の駆け引きで切り取られた戦士の「舌」と、太陽や月との分離と結合から離れて人間界に戻ったあとの戦士とが、「Δ」である。
この神話では、主人公β1、月β3、太陽β2、ボロボロなのに価値の高い武具β4、という四つβが織りなす正方形がお餅をこねるように長く伸ばされたり、折りたたまれたりする動きから(この動きによって四つのβのうちの二つが結合するときに後の二つが分離する)、次の二つの二項対立関係を織りなす四つのΔが収まる余地が生じる。
非人間界Δ4 / 人間界Δ1
|| ||
切り取られた舌Δ2 / 人間界における主人公Δ3
神話はこのようにして、経験的で感覚的な世界を分節するΔ四項関係と、このΔの四項関係を対立関係の対立関係が付かず離れずに分けられつつ結ばれている状態として区切り出す四つのβ、経験的感覚的な分別からするとどちらか不可得な事柄である四つのβを、一点に収縮させたり、さまざまな方向に引き伸ばしたりする”動き”を示しており、この動きから生じる波紋のようなパターンが、マンダラになるのである。
神話も夢も・・・ユングが選ぶ、パウリの夢
そしてこの、対立関係の対立関係の対立関係がマンダラを描く、という話は、なにも神話だけの話ではない。かの深層心理学のカール・グスタフ・ユングがマンダラの図像を引きつつ論じるように、夢もまた、対立関係の対立関係の対立関係としてのマンダラを浮かび上がらせる。
ユングは『心理学と錬金術』で、ノーベル賞物理学者のヴォルフガング・パウリが見た夢を分析している。また『ユングのセミナー パウリの夢』にも、ユングが講演で語ったパウリの夢についての分析が収められている。
例えば、パウリの見た夢のひとつに「夢見者は、ある集いに出席していて、帰り際に、自分の帽子ではなく他人の帽子をかぶってしまう」というものがある。
これだけだと、「どこがマンダラなのだろう」と思われるかもしれないが、よく読んでみよう。
まず「集い」の席から主人公…、いや、夢見者が、帰ろうとしている。帰ろうとしているとは、つまり結合しているところからの分離であろう。
ここに結合から分離へ、結合と分離という二項対立について、その一方の極から他方の極への転換が見られる。
結合 >> / >>分離
そしてそのとき、帽子のかぶりまちがいが起きる。夢見者の「頭」に「他」から分離した一部(上部)が過度に結合する。帽子は、本来の持ち主から分離して、持ち主ではない人に結合する。分離しているはずところと結合し、結合しているはずのところと分離する。あちらで分離しこちらで結合し、分離と結合の両極の間で、振幅を描くように行ったり来たりの動きが動く。
分離と結合を分離するでもなく結合するでもなく、というマンダラの論理が、確かにこの夢に表れている。
この夢では、表層的には(夢なので、表層の一番底と言った方がよいか)下記のような感覚的で経験的な分別、二項対立がある。
・結合/分離
・自/他
・上/下(頭と首から下)
・正/誤
これらの複数の二項対立が重ね合わされる方向が、本来あるべき方向とは逆になっている、というのがこの夢の特徴である。この対立関係の重ね合わせ方が逆になる、ということが、経験的には結合しているところが分離し、経験的には分離しているところが結合している、という状態を作り出す。そこで分別する四項関係の四項の全てが、経験的な二項対立関係に対してはどちらでもあるしどちらでもないという「不可得」な状態に励起される、いや、ずらされる。
*
『心理学と錬金術』でユングは、パウリのこの夢から出発して、いくつもの夢を重ね合わせながら、四項関係のマンダラを浮かび上がらせていく。
ちまみに、ユングとパウリはその共著『自然現象と心の構造』において、この四項関係、「四数性」が、私たちにとっての経験的世界の存在分節と意識分節の一番底に現れることを論じようとしている。
『自然現象と心の構造』に収められたユング、パウリ、それぞれの論文については、下記の記事で紹介しているので、ご参考にどうぞ。
月が変身したのではないヤマアラシ
さて、上の神話では太陽と月のβ二項対立が神話論理を回転させるひとつの軸になっていたが、前回の記事で紹介した神話では、この月がヤマアラシに変身して地上に降りてくる、というくだりがあった。
これは間違っても、月の正体がヤマアラシであるとか、ヤマアラシの本当の意味は月である、といった話ではない。
仮の姿 / 本当の意味
こういう二項対立を持ってきて、ここに二項を重ねて、
仮の姿 / 本当の意味
|| ||
ヤマアラシ / 月
という感じの分別をすることもありうるが、いま神話論理ということで問われているのは、このような四項関係、
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
という関係が四項の分離と結合の分離と結合と称することができるような動きから生じてくる、その生じ方の詳細な姿なのである。
ここでレヴィ=ストロース氏は、月が変身したものではない「ヤマアラシ」の神話を紹介している。『神話論理3 食卓作法の起源』、276ページ、「M443 メノミニー 寒気の主ヤマアラシ」である。
結論だけ見ると、動物を大切にしましょうという話になっているが、この神話のすごさはそこではない。二重の四項関係のマンダラを念頭に読んでみよう。
まず「ふたりの姉妹」に注目しよう。
姉妹というのは、ふたりでありながらワンセット、ふたりでひとつ、である。姉妹は”二即一・一即二”の状態にある。姉妹は同じであることと異なること、差異性と同一性という二項対立の両極を短絡したものである。この二人の場合、特に一方が動物を思いやる気持ちを持たない乱暴者で、他方が動物を大切にする賢い者である、という対比も、見事に二人が真逆であり、しかし真逆でありながらも「同じ」姉妹である、ということを強調している。
しかもこの姉妹はとても足が速いという。高速であるということは、振幅を描くような動きをする際にも、高周波で、つまり短い周期で、一方の極から他方の極へと移動できるということを示している。この姉妹を仮にβ1と置こう。
このβ1は「差異性/同一性」の二項対立に対してどちらか不可得な項である。
次に「横倒しになった中空の木」である。
木というのは経験的には横倒しになっているものよりも垂直に立っているものが多く、中空のものよりも中身が詰まっているものの方が多い。
この横倒しになった中空の木は、「立っている/倒れている」「中身がつまっている/中身がからっぽ」という二つの二項対立において、通常の「木」が結合されているはずの極から分離して、通常の木は分離しているはずの極に結合している。しかしそれでいて、これはあくまでも木である。垂直に立っていたこともあるだろうし、中身が詰まっていたこともあるであろう木である。ここでこの横倒しの中空の木もまた、いわば正しい方向と間違った方向という経験的な二項対立にたいしてその両極の間で振れ幅を描いて変容するものである。これをβ2と置いていこう(1〜4の数字はどれでもいい。どこに置いてもたいして変わらないからである)。
そして、第三に「ヤマアラシ」である。
ヤマアラシはその針によって、その皮膚に噛みつかれることを回避する動物であり、身体の内/外を鋭く分離する。
しかし、その当の「針」は、人間の衣服の布という内/外を分離する膜を容易く貫通することができるという、内/外の区別を無にしてしまう力をもつ。
ヤマアラシの針は、内/外を分離もするし結合もする。分離と結合という鋭く対立する二極のあいだの、どちらでもあってどちらでもないのが、このヤマアラシの針である。これをβ3と置こう(1〜4の数字はどれでもいい。どこに置いてもたいして変わらないからである)。
さらに第四に「木のてっぺんで鳴らされるガラガラ」である。
このガラガラがどういう由来のものかここだけではわからないが、後にレヴィ=ストロース氏が『仮面の道』で書いているように、このガラガラも経験的に対立する二極の間で高速に振動する両義的媒介項であろう。
それが木の上、つまり天/地の中間にまで持ち上げられて、そして「雪」という、天にあり地上と分離されているものを、わざわざ地上へと落として地表に結合させる、分離と結合を転換させる役割を演じているという点でも、ガラガラはβ4にふさわしい。
この四つのβが出揃ったところで、雪に埋もれて高速で振動する姉妹は、その動きを減速され、止められ、そしてこの世から消えてしまう。
βたちが動き回る、高速で振動する時空が背景に隠れて、そして残されたのが、ヤマアラシを大切にするような節度ある、つまり秩序ある、分別ある、この現世なのである。
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対立し合う項よりも、対立する関係が手前で動く
レヴィ=ストロース氏がこの神話に注目するのは、これが別のヤマアラシの神話をちょうど裏返しにしたものになっているからである。
水平方向の移動 / 垂直方向の移動
捕らえられる / 捕える
大切にとっておく / 投げ捨てる
外に出て目立つところに居る / 内に隠れている
垂直移動を急かす / 水平移動を遅くする
さまざまな対立する二極の間のどちらを選ぶかが、例えば下記の記事に掲載した神話に対して、見事に逆転している。
このことについて、レヴィ=ストロース氏は次のようにも書いている。
主人公が男性 / 主人公が女性
主人公が一人 / 主人公が一人ではない(二人)
動物の声を聞いてはいけない / 動物の声を聞くべし
主に地上にいる動物 / 主に樹上や空にいる動物
天から地へ移動させない / 天から地へ移動させる
二つの別々の神話で、対立する二極のどちらを引っ張り出すかが、見事に、「逆」になっている。また他の神話では、
明るい天体 / 暗い天体
大 / 小
賢い / 賢くない
こういった二項対立の二極が逆転する例もある。
+
神話は分別をする。二つに分ける。
分ける、分離する、という点では神話は徹底的である。
そして、それと同じくらいに、分けられた二極のうちのどちらを選ぶかは、時と場合によって柔軟に変化する、という点についても徹底的である。
分けた後の、どちらを選ぶべきなのか、というところについてのこだわりがほとんどない。大切なのは分かれている、分かれつつも”対立関係”という関係でセットになった二項対立関係をいくつも区切り出し、それを重ね合わせていくということであり、その重ね合わせの「向き」については、それを神話の外部から規制するようなコードは持ち込ませないのである。
なぜなら、二項対立のどちらを選ぶか、二つの二項対立を選ばれる/選ばれないの二項対立とどちらの向きで重ねるか、ということを固定的に決められるようになるのは、神話がまさに行なっているような複数の二項対立関係の対立関係を編んでいく、マンダラ状の八項の関係を分離しつつ結合するパターンが形を成した後の話だからである。
このことをレヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
ヤマアラシでも月でも、なんらかの感覚的で経験的に、名前をつけて呼ぶことができる「何か」が、それ自体として神話の中で固定的確定的な「意味(本当の意味)」を持つわけではない。
ある項の”意味”は、それが対立関係が次々に重ねわされ、その重ね合わせの向きもくるくると逆転していく中で、たまたまある瞬間、というかある切り口から見た場合に、ある一つの項が、他のどの項たちと結合しているのか、分離しているのか、といったことで定まるが、その定まりもまた決定的なものではなく、結合する相手、分離する相手次第で動いていく。
+ + +
ここで、岩田慶治氏が『道元との対話』の「あとがき」に書かれている一節を思い出す。
岩田氏が「宗教の母胎」と書くところ、無数のバリアー、障壁があって区切られていながら、「しかも」バリアー、障壁がない。
あるけれどない、ないけれどある。
人間にとって切実で重大な価値や意味のシステムは、そういう不可得なところで育てられ、生まれてくる。そして野生の思考の神話論理やマンダラは、まさにその育ち生まれるところを、その影を、意識の表層に投影してくれるのである。