分別と無分別の分別も分別なのだと気づくことが人類の心を絶-対の境地へと励起する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(79_『神話論理3 食卓作法の起源』-30,M460「天体の諍い」 )
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第79回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第五部「オオカミのようにがつがつと」の第二節「マンダン風臓物料理」 を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。
そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
*
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
人類の心の深層の動き方のパターン(論理)とは
『神話論理3 食卓作法の起源』の章立てはおもしろい。
「つきまとう半身」とか。
「カヌーに乗った月と太陽の旅」とか。
両義的媒介項βたちが結合から分離へ、分離から結合へと急転換して、激しく振幅を描こうとする。
野生の思考の神話的な論理とは何かといえば、煎じ詰めるなら、対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係を分けつつつなぐようなパターンを浮かび上がらせる、リズミカルな脈動を振動させる、という抽象的な話にすることもできるのであるが、神話は徹底して具体的な、極めて経験的で、感覚的で、生き物の生身の感じから決して離れないところで、一見すると対立するように人間には見えるものごとのあいだの対立関係の対立関係をゆらし、ひねり、ねじりながら、二項対立関係を重ね、編み、分別を同じようなパターンで反復できるようにする。
分別、意味するということ、「XとはAである」と言えることは、対立関係の対立関係、つまり対立関係を二つ重ねることに他ならない。
X / 非-X
|| ||
A / 非-A
*
ということはつまり、対立関係の対立関係の対立関係から束の間、一瞬一瞬浮かび上がる「意味」ということ、経験的世界のリアルを意味分節するシステムというものを、どこか遠くで設定済みの出来合いの完成品のようなものとして「いまここ」から分離してしまうのではない、ということである。
意味は常に決まるけれども決まらない。
Xの置き換え先・言い換え先は、「A」でも良いし、他でも良い。
もちろん、暑い/寒い、上/下、明/暗といった感覚器官(前五識)による分別は揺るがしがたく固まっており、人間はこの感覚的な分別による二項対立を軸に、そこに言語的な、記号的であったり象徴的であったりする分別による二項対立を貼り合わせることで、直接感覚することができない想像上のことについても感覚ベースの固まった分別を施す。
とはいえ言葉は、言語的な思考は、「XはAである」とか「Xとは何か」とか、特に「私とはなにか」といったことを考えざるを得ないところでは、いくら感覚的分別を押し付けて言語的分別の自在な振動を止めようとしても、ことによると抑えようとすればするほど、記号と記号の置き換えパターンの自在な明滅は止まるどころかむしろ激しくなっていくのである。
* *
徹底的にひとりひとり、ひととひととのいま、この瞬間の、この場、このあいだで、いつもつねに新しく、なおかつ太古から反復されてきたように、分別し感覚されイメージされた対立を、重ね、重ねなおし、「いまここ」での意味を発生させては、またほどいていく。そこでこそ私たちは生き、そして死を思い、やがてすべてを忘れるのである。もちろんそこでは何も消えてなくなるようなことはない。生死もまた、いや、生死こそ、ある/ないこそ、この仮に編まれた感覚の束の影なのである。
人は感覚的分別を泳がせつつ、言語的分別を分別する脈動を意識の表層の一番底=意識の深層の一番上澄みで心地よく響かせ、さまざまな波紋を描かせることよっては、「分けられ済み」の対立の世界を解け抜けて、まったくの不可得へと入り込み、そこでさらに自在な分けつつつなぐ、マンダラ状のパターンを浮かび上がらせる脈動そのものと、共鳴し続けることができるのである。仏教でいう「如来の秘密」とはおそらくこういうことであり、それは即ち、レヴィ=ストロース氏が描き出す神話の論理でもあり、あるいは夢にあらわれるマンダラ状のパターンからユングが捉えた心の深層の動き方でもある。
『神話論理』の神話の語りを読んでいると、この生きた体のままで、”そこ”の振動に触れることができるというのが無上におもしろいのである。
・・いや、”そこ”というのは少し違う。
"そこ”は”ここ”に他ならない。
表層のあれこれ、二つにわけて、片方を選ぶ、という分別心をはっきりと走査させたまま、それがいわばマンダラ状のパターンの最外殻の一片であることをながめては愛おしく思う、というような。こういうのは言葉ではどうにも”そのまま表現”することはできないのだけれども、そのようなことができないからといってがっかりする必要もない。できても、できなくても、異ならないのであるからして。
あるいはここにあってこそ、言葉は何かのための副次的な手段であることをやめて、言葉そのままであることができる、とでも言おうか。要するに言葉が喜んでいるのである。
◇
潰れては反発する煮込みの軟骨のような平行四辺形
『神話論理3 食卓作法の起源』の「オオカミのようにがつがつと IIマンダン風臓物料理」347ページでレヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
騒々しい音をたててものを噛める / 騒々しい音をたててものを噛めない
|| ||
よい / わるい
この対立関係の重ね合わせに注目しよう。
騒々しい音をたててものを噛める/騒々しい音をたててものを噛めない
この対立を、
耳に聴こえるリズミカルな音をたてられる/たてられない
と言い換えても良い。これは聴覚という感覚器官における、反復するパターンの感覚の有/無を分別している。
*
さて、天体の諍いと呼ばれる一連の神話では、太陽と月と人間の娘とカエルの娘の四者が一堂に会する。大抵の場合、太陽がカエルの娘と結婚し、月が人間の娘と結婚する。
結婚といわれると、あの、いわゆる「結婚」のことを連想してしまうことになるかもしれないので、ここは「分離していたところが結合するように転じる」という抽象的な述語的様相のみで読んでおきたい。
述語的様相というのはつまり、分離か、結合か、この二者択一ではなく、分離から結合へ、結合しつつも分離へと向かう傾向を漲らせている、といったことである。「あれかこれか」を選ぶことができるのは述語的というよりも「主語」的な様相での話になる。主語的Δたちはこの述語的β脈動における分離と結合の分離と結合の後に、跡に、痕跡として残された何かである。
このような四者からなる二項対立関係の対立関係が組まれる。
この関係、うまい具合に正方形を描くように調和しているように見えるが、ここで月がこの関係を壊そうとする。月は兄嫁(弟嫁)であるカエルと天界の一つ屋根の下で家族として暮らすことを嫌がり、なんとか追い出そうとする。
カエルをこの天空の家族から切り離してしまおうというのは、この上の四項関係の対角線上にある「月」と「カエル」の間の距離を最大まで引き延ばし=分離してしまおう、ということである。こうなるとこの正方形は歪んで潰れた平行四辺形になる。そしてもっともっと引き伸ばすと、線になる。
月は、自分の妻である人間の娘と、兄嫁(弟嫁)であるカエルを競わせて、カエルを敗北させ、それを理由に追い出そうとする。この「追い出す」とか「嫌う」といった述語に注目しておこう。そして人間の娘が必ずカエルに勝利するであろう不公平な「勝負」を仕組む。それがすなわち、「臓物料理をコリコリと音を立てながら噛んで、人間とカエル、どちらがよりリズミカルな良い音をたてられるか」という勝負である。
歯でリズミカルな振動を起こせる者 / 起こせない者
||
人間 / カエル
臓物の煮込みをコリコリと音を立てながらリズミカルに噛むというのは
人間の歯があればこそできることであって、これをカエルに要求するのは無理な話である。
そして案の定、カエルが敗北する。
恥をかかされたカエルは激怒して、「月」にへばりつく(へばりつく箇所は、顔だったり、胸だったり、背中だったり、その他の箇所だったりするが、うまく二項対立関係を引っ張り出せるならどこでもいい)。このへばりつくという述語的様相に注目しておこう。
そうすると、下記の関係が、
今度は「月」と「カエル」が中央で結合し、代わりに「太陽」と「人間の娘」がこれまた左上方向と右下方向に潰れた平行四辺形の左上角と右下角の位置に置かれ、遠く分離されることになる。
神話ではこれを、人間の娘が天界(太陽と月とその両親の家)の嫁ぎ先から出て、地上に戻ろうとするという相で語る。
神話はその後、この人間の娘と、その息子(父親は月である)とが結合したり分離したりする話を繰り広げ、最終的には現世の経験的感覚的に安定した意味の体系が定まりました、というところで幕を閉じる。
*
遠ざける、近づける
ここで神話は何をしているのかというと、対立関係にある二項の間の距離を近づけたり、遠ざけたりしようとしている。
こうすることで、平行四辺形が、薄く潰れて一直線になった状態と、正方形を描く状態とを両極とする間でぐにゃぐにゃと潰れたり反発したりを繰り返すのである。ちょうど人間の歯に噛まれることに反発して音を立てる煮込み料理の軟骨のように。
おもしろいことに、二項の距離が「近い」ということは、すなわち二項の距離が「遠くない」ということであり、二項の距離が「遠い」ということは、すなわち二項の距離が「近くない」ということである、と言いたいらしいのである。
「近い」「遠い」というのは絶対的なことではなく、相対的なことである。「遠さ」を知らない絶対的な「近さ」ということはないし、「近さ」を知らない絶対的な「遠さ」もない。
遠 / 近
遠/近のような経験的で感覚的な対立関係を伸び縮みさせながら、これを概念の道具として用いて、神話は月と太陽と人間の娘とカエルの娘とが集まったり、離れようとしたり、過度に結合したりするところから、付かず離れずの安定的な対立関係が区切り出されるまでの経緯を語ろうとする。
太陽の脅威を”遠ざける”という記述、この述語相に注目しよう。
太陽を遠ざける。太陽を地上から遠ざける。
太陽と地上が近すぎるということは、つまり天/地がはっきりと分かれていないということであり、地上世界=現世が、不定形、定まっていない、ということである。そこには端的に、人間が生きる人間の世界が「まだない」。そういうところから、”太陽を遠ざける”ことによって、初めて太陽と分離したところ=非-太陽の場所としての人間の生きる世界がはじめて起源するのである。
分けつつ繋ぎ、繋ぎつつ分ける
遠すぎず、近すぎず
ところで次に、「雨を降らせる」という記述にも注目しよう。
雨もまた、天から、空から地上へと降りてくるものである。
天/地は分離したとしても、遥か遠方に遠ざかってしまってはいけない。
現代人は自然科学的な分別の体系に浸り切っているので宇宙空間もまた地球地表の延長として区別なく感覚してしまう場合があるが、論理的には地上と分離された「天空」は、この分離が過度になると、地上からはるかに遠ざかっていってしまうことになる。しかし、天地は分離しながらもしかし、適度に雨を降らせる程度にはつながっている必要がある。
ここで雨は、水は、天地の間を登ったり降りたりする。
水の流れは、天地を分けつつも結びつける。
そしてカエルはこの水に属するもの、水と一体になった存在なのである。
そうであるからして太陽は天空の存在でありながら、地上にいるもののうちに、特にカエルを好み、カエルとは分離せず結合しても良い、というのである。太陽がカエルと一体になる=水の流れと一体になることで、地上から分離していく太陽が、そのまま遥か彼方へと過度に分離していくことなく、付かず離れずのちょうどよい位置に止まって、地上にも関与し続ける、ということになる。
遠/近の調停。付かず離れず。
敵をわざわざ誘き寄せ、
土産を持たせて追い返す
ここでレヴィ=ストロース氏は、ある部族の儀礼を紹介している。
この儀礼には、太陽を地上から分離しつつもつながりを保とうとする動きを見ることができる。
まず、祭りの前半、人々は「オシンへデと呼ばれる目には見えない存在に対して、挑戦的な態度を取りつづける」という。挑発的な態度というのは不思議なもので、戦い、争い、諍いの相手になるものを、わざわざこちらに誘い出すということである。戦いは最終的には勝/負を決めて、負けた方を遠くどこかに消し去ってしまうか、あるいは勝者の中に取り込んでひとつにしてしまうか、という結論になるが、そのためにはまず、勝負の場に相手を引っ張り出してこなければいけない。そこで「挑発」である。
ここで挑発され地上の人々の祭りの場へと呼び出されるのは「星を表わす白い円形の模様をその上に描いていた。胸にはひとつ赤い円が描かれ、それが太陽を表わし、背中には三日月型の模様が描かれ、それが月を表わして」とあるように、天空の存在、あるいは天空そのものである。
祭りは天/地が未だ分かれていない状態を再現しようと天を地に過度に結合する。そしてこの天空の存在は「彼は太陽のところからやって来て、人々を食べてしまう」ものであるという。人々を食べてしまうということはつまり、地上の世界を破壊し、なき物にするということである。天/地未分においては、地はなく、つまり地上でうろうろ暮らしている人間の存在もない。
この天空の化身は祭りの邪魔をするという。獲物であるバイソンを呼び出すための儀礼さえ、邪魔しようとする。つまり人間が安定的に食糧を得られるような地上の秩序の運行を妨害しようとするのである。
人々はこの天空の化身を追い払うのであるが、供物を捧げて、土産を持たせて天界に帰す=送り出す=分離しようとする。この贈り物を受け取ったことを、天空の化身は「ただちに」つまり地上の方にいながらにして太陽に報告する。そして太陽が「ここに来るように」つまり遠く遠く遠ざかってしまわないように、と呼びかける。しかし、そういわれても太陽は地上の人間たちに「よそよそしい」ので、呼ばれたからと言って降りてくることはないのであるが、しかし、毎年使者を立てて祭りに派遣するくらいのつながり方は維持しておいてやろう、と思うわけである。
近づけようとすること。
近づけるものの、近づきすぎないように、適度な距離を保つこと。
そのために、挑発したり、土産を持たせたり。
なんという述語的様相の精妙さ。
太陽や月が属する天界と、地上界とは、はっきりと分離しているが(人間が自在に肉体を持ったまま天に昇ることはできないし、太陽や月が地上に降りてくることもない)、しかし、月や太陽は遥か彼方に飛んで無くなってしまうこともなく、規則的に、極めて律儀に、ちゃんと地上を照らすように、地上から見える近い距離に出現してくる。遠すぎず近すぎず。人間が生きる地上世界と太陽と月の天界は、分離されながらもしっかりと結合されており、結合されながらも区別がつか無くなってしまうことなくはっきりと分離されている。
分離されながら結合し、結合しながら分離している。
このバランス、調和の取れた状態が人類にとっての経験的で感覚的な事実である。分別して憚らない人間の心が、分別識を貫徹することでついに発見するのはこの分別されながらも分別されていない、分離しているが分離しきらず、結合しているが結合しすぎることもない、というあいまいさ、あるいは無分別、対立を超える=対を絶する「絶-対」である。
感覚という分別の仕組みを徹底的に動かすことで、分別を非-分別と分別するというメタレベルの分別に気づき、そしてこのメタレベルの分別もまたこれが分別であるのは非-分別と分別される限りのことなのだ、と気づく。野生の思考の哲学は人間の心の最も基本的なアルゴリズムを知悉している。
分別と無分別の分別の「起源(どうしてそうなった)」を語ろうとするのが神話のエッセンスであり、そのために神話は、この分離/結合、特に天体の場合は遠/近の区別、二項対立関係が、もともとなかったところから分かれてくるプロセスを言語でもって語ろうとする。
海辺の高台の洞窟から
以上を念頭の置きつつ、神話M459「マンダン 娘と太陽」を読んでみよう。
冒頭、「海辺の高台」で「大地の深いところ」とある。
岬の断崖絶壁のようなところに洞窟がある、という感じだうか。
弘法大師の御厨人窟を連想したくなる。
空と海の接点であり、そこには、まだ、とうもろこし畑を広げられるような広大な平地がない。
この天地未分のようなところに、「四」が出てくる。
トウモロコシの司祭と、男兄弟二人、そして妹(あるいは姉?)の四人組である。彼ら彼女らは一方では同じ親に連なる同世代の子どもたちであると言う点で「同じ」者たちであり、同時に、生まれの順番の差異があり、男女の差異があり、そして役割の違いがあるという点で「異なる」者たちであもある。四人が非同非異を体現しながら、四に分かれつつ一であり、一でありながら四である、というあり方をしている。
四人の名に注目しよう。
「厚い裏地つきの外套」
「トウモロコシの穂の鞘層でできた耳飾り」
「ヒョウタンでできたガラガラのような禿げ頭」
「しなやかなトウモロコシの茎」
外套、鞘、瓢箪、茎。
いずれも中空構造であると考えられる。
この四者が経験的感覚的な対立二極に対する中間項、両義的媒介項βの位置をとることを示しているようである。
この中空・中心が空っぽの「四」つ組みのリーダーが、トウモロコシの神であり、「雨」をもたらして、つまり雨が降ってくるところとしての天空と降り落ちるところとしての地上の分別をはっきりと区切り出した。そして服を着たり、トウモロコシを栽培したりする文化を作り出した。
そこに「太陽」が現れる。
太陽は男性の姿をして、四人組のうちの唯一の女性である「しなやかなトウモロコシの茎」に求婚したらしい。しかし彼女はそれを断る。
ここに、結婚という分離から結合へと向かう述語的様相が展開したのち、結婚はお断りになるということで、結合仕掛けたところが分離するという述語的様相の急転換が生じる。
ここで地上から分離した太陽は、天に戻ると翻って、強烈な暑さで地上を焼き払おうとする。結婚という形では分離を結合に転換できなかったので、今度は熱で焼くという形で地上と天界を短絡結合しようとする。
これに対抗して「しなやかなトウモロコシの茎」は兄の雨降し外套を使って作物たちを潤す。太陽が灼熱で地上を焼こうとし、それに対して「しなやかなトウモロコシの茎」が雨降しの外套で対抗する。この駆け引きを四回繰り返したのち、地上と太陽の間で、どうやら付かず離れずの距離感が安定したらしい。
すなわち、天/地の二極の分離と結合が安定したのである。
これが世界のはじまりである。
四つの焼石に水をかけるマンダラ
この神話を巡って、レヴィ=ストロース氏は次のような儀式のことを書いている。
「密閉された小屋」の中に置かれた「四つの石」、つまり分離することがないよう、しっかりと(過度に)結合された「四」。 しかもこの四つの石は熱せられた焼石であり、いわば”地上に降りてきた複数の太陽たち”である。彼らが「四」であり、しかも一箇所に集められているのは、彼らが四でありながら一に、つまり四即一、β脈動が収縮している様相にある、ということである。そこに、火の経験的感覚的対立物である水がかけられる。火と水、真逆に分離している二項が一つに結合される。この諸々の対立が分離しつつも一つに圧縮されているような状況から、一挙に反転して、分別された現世の日常が復活・再生するのである。さまざまな儀礼は、特に季節の変わり目、冬至や夏至、冬から春への転換期の儀礼には、こうした論理で動くものがよく見受けられる。
神話の論理は対立関係の対立関係としての四項関係を生成させるプロセスを動かす
野生の思考の神話の論理は、経験的で感覚的に分別できる(せざるを得ない)二項対立をいくつか探し出し、複数の二項対立を重ねあわせて、第一の二項対立の一方の極と第二の二項対立の一方の極を、過度にくっつけたり、過度に分離したりする。そうしてお餅や陶土をこねるような動きを動かしながら、調和の取れた、付かず離れず、分離しながらも結合し結合しながらも分離した、対立関係の対立関係としての四項がちょうど正方形を描くような状態を浮かび上がらせるのである。
ここで面白いことがわかる。
人類が日常の光景のなかで発見できる二項対立や、特に感覚的で経験的な二項対立(熱い/冷たい、上/下、遠/近、明/暗、硬/軟、水/火、獲物/狩猟者、太陽/月、分離していること/結合していること、同一性/差異性、など)は、その生活する場所の環境によってさまざまに差異はあるものの、大枠としては似たようなものである。時代を超えて、地域を超えて、人間が生きる限り分別せざるを得ない分別は、そう異ならない。
ここでおもしろいのは茹でたものと焼いたものの対比である。
焼くというのは食材を直接火にかけたり高温に晒したりすることであるが、「茹でる」は、火によって沸いた「水」の中に食材を入れることである。
焼く調理法は放っておくとすぐに食材が炭になってしまうが、茹でる調理法では溶けて美味いスープになる。
直接的結合/間接的結合
焼いたものは、いうなれば地上と天空、火と地上のものとの直接的な結合(過度な結合)である。
一方、茹でたものは地上と天空、火と地上のものとの、「水」を間に介した間接的な結合である。
対立する二極の結合には、直接的な結合と、媒介項を挟んだ間接的な結合がある。
この直接的な結合と、間接的な(媒介された)結合とを区別することが、野生の思考、神話の論理にとっては非常に需要なのである。なぜなら、間接的な媒介項を挟んだ結合こそ、対立する二極を分離しながらも結合し、結合しながらも分離するということに他ならないからである。
分離と結合を分離するでもなく結合するでもない。
そういう実に微妙な中間状態を区切り出すために利用できる二項対立の組み合わせのパターンで、身近な日常の経験や感覚の中に発見できるものはそう多くはなさそうである。そういうわけで、神話の思考が古来から利用してきた二項対立は、地球上の様々な場所で似たような具合で経験できる事柄である場合が多い。そうして遠く離れた地域で、不思議に一致した、まるで誰かが直接移動して語って伝え教えたとしか思えないような類似する神話が語られているという事象が観察されることになる。
*