蛙が飛び込むと、天地が開闢する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(33_『神話論理2 蜜から灰へ』-7「カエルの祝宴」)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試みの第33回目です。
これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えている。則ち、神話的思考(野生の思考)とは、Δ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項を、いずれかの二つのΔの間にその二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、この四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていくことなのではないだろうか、と。
『神話論理2 蜜から灰へ』の第二部「カエルの祝宴」を読んでみよう。
カエルは両生類である。
カエルは子供のころは水中の魚のようであり、成長すると陸上の四つ足動物に変身する。この変身、人間には到底不可能な芸当をやってのけるカエルは、神話的思考と極めて相性がよい。
神話的思考は、経験的で感覚的な区別を組み合わせて概念の道具として、高度に抽象的な思考を行う。
感覚的に区別できる知覚から抽象的な思考へと飛躍するための鍵となるのが両義性である。経験的な対立関係の間に両義的な概念を立てることができるのが神話的な思考の創造性である。例えば暑いと寒いの区別について、感覚的には暑いものはあついし、寒いものは寒い、それだけである。これに対して両義的な概念を立てるとは、例えば「暑くて寒い」とか「寒いが暑い」などと言うことになる。
例えば真夏の怪談。
怪談を耳にしたからといって熱中症対策には全くならないが、しかし、「暑い夏にゾクっと寒気がする」瞬間が、経験的で感覚的な日常の世界の「向こう」「彼岸」を意識させる。
あるいは、真冬の雪をも溶かす熱い恋、とかもこれである。
感覚的に真逆に対立することの間を、言葉によって短絡する。この短絡した言葉と言葉の「線」に、目の前の事物のつながりを結び直して行くと、その結び直す営為それ自体に、人は世界の始まり、新たな世界の励起、新たな他者との関係性の起動、世界の変容のようなことを感じるのである。
蛙 飛び込む 水の音
「魚」の稚魚のような姿から陸上四つ足動物に変身した蛙が、また「水」に飛び込む。しかも水のなかに浸っている状態ではなく、空中から、水中へ、飛び込む、移動する。その瞬間、水中と地上の境界面のどちらか不可得な飛び込む瞬間の「音」が響く。鳴っているは水か空気か、パチンと手を打つ音は右手のものか左手のものか。
五、七、五のわずか17文字で、ダイナミックな両義的媒介項(この場合、水に飛び込む音を立てるカエル)の振幅を描く動きを見せて、その振幅の両極に水界/陸界の対立、経験的感覚的に区別できないように混じり合うことがない両極を開く。
しかも、蛙が飛び込んだ「音」が止み、再び静謐が広がった世界を思わせることで、二重の四項関係の残りの項たちの姿なき不可得な気配のようなものまでありありと感じさせる。
カエルの飛び込みという一次元あるいは二次元の振動から、音の広がりからの静謐への展開という三次元るいは四次元の振動へ。
二つの異なる振動が重なり合う。
最小構成で四つの両義的媒介項が描く振幅の両極に、私たちのこの世界を安定的に分節する感覚的諸存在が分節される。
松尾芭蕉はすごい。
蛙/蜂
さて、『蜜から灰へ』のこの箇所で、なぜカエルが登場するのか。
レヴィ=ストロース氏によれば、カエルは蜂蜜の作り手である「ミツバチ」と対立する。
ミツバチ / アマガエル
ミツバチとアマガエルには、いくつもの共通点・似ているところ・同じようなところ、どちらにも当てはまる属性がある。
木の窪に巣を作る
巣が小部屋に分かれており、そこに卵を産む
小部屋は身体からの分泌液らしきもので作られる
↓
ミツバチ==カエル
ところが、これだけよく似ているにも関わらず、ミツバチとアマガエルは真逆に対立し、相容れない項である。なぜなら、ミツバチは空を飛ぶ乾いたものであり、カエルは水を及ぶ湿ったものである。
ミツバチ <<< 乾 / 湿 >>> カエル
さて、ここで先ほどの「蛙飛び込む水の音」の図では、「蛙」がβ項の位置に据えられていたのに、こちらではΔ項の位置に来ている。
「蛙はβ項なのか、それともΔ項なのか?」
「蛙は、βとΔ対立のどちら側なのか?!」
このような問いには、今の場合あまり意味はない。
このような問いが意味をなすのは、Δ四項”だけ”で分節する場合に限られる。
どのようなモノでも、それ自体で「β性」や「Δ性」を属性として持っているわけではない。
ある項がβの位置に立ったり、Δの位置に立ったりするのは、それが”同じではない”と区別されつつ”同じである”と置き換えられる関係が、最小八項でぐるりと循環するとき、どれでもかまわないので適当にひとつの項に注目して、それをとりあえず仮に「β」として観察すれば、その両隣の項が、自動的に「Δ」として観察されるようになる、ということである。
同じく、適当に注目した一つの項を今度は「Δ」だと観測記述すれば、その両隣の項が自動的に「β」項として観測記述される。
β/Δの二項対立関係もまた、二項対立関係であり、そこには何も特別なことはなく、乾/湿などと同じように、つまりそういうふうに分けつつつなぐから、そういうふうに分かれつつつながった、ということである。
もちろん、β/Δが身体を離れた分節であり(それこそAIなどにやらせてもよい)、自在に両極を入れ替えることができるのに対して、乾/湿は、寒/暖や上/下のように、人間の身体の感覚によって分節された対立であり、両極を入れ替えることはできない。
キラウエア火山の溶岩流を泳ぎながら「今日は寒いなあ」などとはコトバでイウことはできるが、実際にはそんな発声をするまでもなく、大火傷であろう。
しかしもし、宇宙の彼方のどこかに、摂氏1200度くらいの溶けた金属の流れで構成される「生命」がいるとすれば、その連中の身体の分節によれば、キラウエア火山の溶岩は、過ごしやすい適温か、少し肌寒い程度であろう。逆に人類がその感覚でもって35度で暑いの6度で寒いのと言っている事柄は、かの宇宙生命にとってはどちらにしても「凍りつくほど寒すぎ」であろう。
前五識は、地球上の人間という、特有の「カルマ」によって織られているのだ。
レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
人間の感覚、経験において、安定的で不変不動に感じられる二項対立もまた、神話の思考においては、いくつもの対立関係のうちの「ひとつ」であり、他の対立関係へと次から次へと転換していく。
神話の言葉は三項関係の循環をむすぶ
第二部のこのあたりから『神話論理』の世界は一挙にその次元を増やし、通常の言語では到底「理解」すること「わかる」ことなど出来そうもない、戦慄すべき領域へと踏み込む。そのために言葉を、通常の言葉とは別の言葉へと多次元化し、振動状態に励起する。
振動状態にある言葉は、私たち言葉でもって意識し思考する人間が「正気」を保ったままこの超次元の領域をおもしろく散歩するための、露払いの杖のようなものになる。
例えば、次の一節を読んでみよう。
秩序と非-秩序の区別が問題になる。
秩序 / 非-秩序
レヴィ=ストロース氏は、ある秩序と”その”秩序に対する非-秩序との関係を、「上位の秩序」と、そこから「分離」された「断片」の対立に置き換える。
秩序 / 非-秩序
||
上位の秩序から分離された断片 / 上位の秩序
ここで「上位の秩序から分離された断片」も「上位の秩序」も、どちらも秩序だというのがおもしろい。
素朴に考えると人間にとっての秩序の反対は「無秩序」であるが、ここでは無秩序にあたる場所に、より「上位の秩序」が収まる。
神話が語るのは、秩序と無秩序を対立させた上で、どちらか一方を選んで、選び終わったらお終い、ということではない。
秩序と無秩序に限らない。
神話は、
こうした対立する両極のどちらか一方を選んで、そこに固まって、静止して、以上です、終わりです、結論です、というようなことをやりたいわけではない。
*
「カエルの祝宴」のクライマックスにある次の一節も同様である。
無から何かが生じるという形での「起源」のお話ではない。
無 →生じる→ 有
このような説明の仕方はいろいろなところによくあるが、よく考えると「それではその”無”というのは何??無はどういうモノ?無について説明せよ」という具合の疑問が膨らんでくる。説明できたり、何かであると言えたりするものは、端的に「無」ではなく「有」であり、そういう有について何を論じたところで「無」それ自体について論じたことにはならない。そのことに気づいてしまうと、なんだかよくわからないという気分になるモノである。
ちょうど「宇宙の外部はどうなっているのか」といった話と同じである。
分けるから、二極に分けるから、通常の言葉がやっているように、その両極それぞれを、また何か別の項に言い換えることができるはずだ、ということになる。
* *
それに対して、「喪失」を考えるというのは実に具合が合い。
喪失ということはつまり、かつてあった、が、いまはもうない、ということである。時間軸上の分節を一旦どこかに放り出しておけば、かつてあったといまないは同等である。あるがない、ないがある。
有 ?/? 無
あるのにない、ないのにある
区別があるでもなくないでもなく
あるのか、ないのか、どっちなんだ、はっきりしろ!と通常の言語なら叫び出したくなるところであろうが、「はっきりわかって」しまってはマズイのである。少なくともいまの場合は。
はっきり分けるというのは、
A / 非A
B / 非B
なんでも構わないが、こういう感じの二項対立が「二つ」、ポンと与えられているところ、あらかじめこのような二項対立が「ある」と前提したところで、どちらをどちらに言い換えましょうか、結合しましょうか、置き換えましょうか、という話である。
しかし、神話が問うているのはこういう二項対立関係があるでもなくないでもない、二項対立関係があるとないの間で姿をあらわすようなあらわさないような状態を、言語でもってスナップショット的に観測しようということである。ここで先ほどの引用の最後にある「論理的カテゴリーの喪失」ということの意味が明らかになる。
区別がない状態と、区別がある状態を、区別することができるということ。
さらに、区別がない状態と、区別がある状態は、一方から他方へ、他方から一方へと、切り替わることができるということ。
区別がないこと / 区別があること
『神話論理2 蜜から灰へ』でここまで描かれたところでは、蜂蜜をめぐって、そして口から料理の火を吐き出すような「カエル」をめぐって、経験的感覚的な区別がつかなくなってしまっている状態が緻密に言葉によって描き出されてきた。出来合いの二項対立を組み合わせた姿をしている言語でもって、区別がないこと、二項対立の両極が混じり合って区別できなくなっている様子が描かれる。
ここでレヴィ=ストロース氏は、非常に重要なことを書かれている。
安定した形式的構造があってこそ、その崩壊、解体、衰退、そこからの脱落、その外部を論じることができる。不安定とは安定に対する不安定である。不安定それ自体が、安定とは無関係に、ぽんと転がっているわけではない。
そして安定もまた同じく、不安定に対する安定である。
安定/不安定の二項対立。
安定した形式的構造に照らし合わせて、その安定した形式性の解体として「衰退」を描くことができ、逆にその「衰退」に照らし合わせて、より安定した形式ということを描くことができる。
いま、通常は安定した事物や言葉の体系が、もともとの安定した姿のままで不安定な構造を描き出している。安定しているのに不安定、不安定なのに安定。安定と不安定の二項対立の両極のどちらでもないがどちらでもある、という状態に遷移している。
ここで秩序の無秩序への解体が、無秩序からの秩序の建設(あるいは再建)が、互いに異ならないことになる。
二項対立関係の線形配列として、感覚され経験されるのが客観的な言語の姿であるが、これをいい意味でハッキングして(ハックして、というほうがよいか)、二項対立関係がはっきり安定的に区別されている状態と対立する限りでの、二項対立関係がはっきり安定的に区別されていない状態を、区切り出す。この「いない」状態に照らし合わせることで、逆に、区別がはっきり安定的に「ある」状態を、「ある」ようになる様相を、改めて浮かび上がらせる。
神話は、秩序からの離脱をめざすものではない。
秩序/無秩序 秩序の中に無秩序を組み込む
神話は、”体系”の中に、つまりあるとかないとか、秩序とか無秩序とか、衰退とか再建とか、ありとあらゆる二項対立関係を組むことを可能にするダイナミックな構造=体系のなかに、「永続的なかたちで組み込むことのできる無秩序」を形成する。
この「体系」の中に組み込まれる「永続的な無秩序」こそが、意味するということ、思考するということを創造的にする唯一の鍵であるともいえよう。
「秩序」と言わず「体系」というところに注目しよう。
秩序/無秩序の二項対立関係だけがあって、その二項のどちらを選ぶか、という話ではない。
神話は、秩序/無秩序の対立を含む、あらゆる対立を分節することを可能にしている上位の秩序、「体系」のことを考えている。それは二項対立を持ってきて、そのどちらか一方を選びました、以上です、とするような「分かり方」とはかけ離れている。
神話「体系」のなかに組み込まれた無秩序は、秩序か無秩序かという二極への区別に対しては、両極のどちらでもあってどちらでもない曖昧な両義性を示す。秩序か無秩序かの二項対立が可能になるのは「体系」の内部での話であるが、この秩序と無秩序の二項対立を分節し、切り分けることができているかのように見えるようになるためには、両極のどちらでもあってどちらでもない曖昧な両義性の振動状態にフォーカスしないといけない。
図1の図式で言えば、秩序と無秩序がΔのペアだとすれば、その中間のβの位置を占める。
しかもこの両義性が「永続的なかたちで」、決して消えたり止まったりすることなく動き続ける。
β項の振動状態として言語的に記述されうることを保持し続けること。
通常のΔ項の線形配列に託された言葉に感覚可能な姿が覆い隠してしまっているβ脈動を動かし続けること。あるいはβ項が振幅を描いて二極を分離しつつ結合する動きを言語化できるような領野を開き続けたままにすること。
これがどうやら神話的思考、神話の語りの肝である。
振動?波動?
振動とか、振幅とか、奇妙な用語を持ち出してきたなと思われるかもしれないが、これはレヴィ=ストロース氏がそのように書いているのを参考にしたものである。”困ったらとりあえず波動のせいにしている”という話ではない。
板バネが振動すると、その動きによってはじめて、振幅の最大値と最小値、あるいは振幅の両端が見えてくる。そして振動が止まると、板は板として単立し、振幅の両極は見えなくなる。
いまこの単立している板バネのようなものそれ自体が、実はある別の板ばねんの振動が描いた振幅の、一方の極なのだ。
この振動について、つぎの一節も引用しておこう。
* * *
どの状態の言葉を「学習」するのか
もちろん、私たちの通常の言葉は、二項対立関係をポンともってきて、そのどちらか一方を選ぶ、という姿をしているし、それでだいたい十分であると感じられている。
言語は私たち一人ひとりに対して先行する。
言語がまずあって、その響き、目に見えるパターンの中に、私たちは生まれる。
私たちひとりひとりは誰かの言葉を耳から注ぎ込まれ、目に焼き付けられる。初めて聞く外国の言葉や、初めて目にする外国の文字のように、言葉は私たちの感覚器官へ、まず、
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-
という具合の「区切られた塊の連鎖」として訪れる。
これをある生きた状況の中で、長時間経験するうちに、私たちは周囲の先輩たちと同じような具合に言葉を聞いたり喋ったり、読んだり書いたりするようになる。
「Δ1はΔ2です。Δ2はΔ3です。Δ3はΔ4です。Δ4はΔ5です。」
といった形の言葉を生成できるようになる。
こういう形の言葉には「正解」がある。
「キャベツは果物ですか?野菜ですか?」
○ :「キャベツは野菜です。」
× :「キャベツは果物です。」
最新の文章生成AIは、Web上に蓄積されたテキストデータ、人間が書いたテキストデータから、ある語と別のある語との連鎖の確率、語と語の「結びつきやすさ」の確率を「学習」している。学習を経て「Δ1とくればΔ2、Δ2とくればΔ3…。人間の書いた文章って、こんな感じで、語が、Δが、並ぶよね」というモデルを構築するまでになる。あとはこのモデルに従って、与えられた質問文、例えば「キャベツは果物ですか?」などという質問文に対して「キャベツは果物ではありません。野菜です」と、Δたちを一直線に結びつけて回答文を生成する。
線形に生成されたΔたちの配列としての「回答文」を読んだり聞いたりして、私たちは「なんと賢いAIなんだろう!よくわかってる!」となる。
*
人類はおそらく7万年前から5万年前くらいに言葉を喋り始めたのではないかと推定される。いや、言葉というか、言葉のようなものまで含めれば、もっと遡れるという説もある。
今日の私たちの詩を詠むことまでできる象徴言語と、動物の唸り声のようなインデックス的な言語との間には、後から見れば決定的な断絶があるが、実践される運用形態から見れば、両者の間はグレーゾーンが広がっている。
なんなら今日の私たちも、高度な象徴発生アルゴリズムを知らず知らずに用いつつも、日常の会話といえば「暑いですね〜」「いや〜暑い」と、インデックス的なΔ配列を慣れ親しんだカルマ的に繰り出すばかり、という気もする。
いずれにしてもAIが、過去に人間が作ったテキストデータから学習をしているわけであるが、いったいどんなテキストデータから学習したのか??というのが大問題になるわけである。
人間の言語といってもいろいろ幅がある。
一方の極には、一義的な語同士が習慣化したパターンで配列されたインデックス風の言語がある。
他方の極には、すべての語が権利の上では他のすべての語に言い換えられる、”異なるものを同じにする”象徴作用の極限のような言語(通常それは言語だとは判定されないのであるが)がある。
この両極のあいだで、どの範囲から「学習」をするのか?
* *
もちろん、日常会話を円滑に行うAIを作るという場合は、インデックス風の言語をしっかり学習すればよい。というか、その方が良い。
例えば「広大なお店で、客の質問に応じて、探している商品の場所を教えてくれるAIロボット」を作ろうと言うのであれば、
「りんごはどこですか?」
「りんごは、果物コーナーの入り口で販売中です。」
などとできればよい。
「りんごはどこですか?」
「りんご、そうですね、りんご。私は自分のことを、りんごの内側を走る汽車のようなものだと思うのです。そしてそのりんごを、今私は手に持っているのです。」
などとくると、私ならとてもおもしろいと思うが、おそらくおもしろくないと怒り出す人も少なくないことだろう。リンゴ ドコダ ハヤク オシエロ と。
観察可能で計量可能な姿としては、人間の言語というのは連鎖する語と語の間の「結びつきやすさ」の確率以上でもなく以下でもない。
しかし、私たち人間が言葉の意味のゆらぎにハッとするのは、よくあるパターンの語たちの連鎖に触れたときよりも、連鎖するΔたちの区切りが、一瞬、その線形の姿から、より高次元の姿に変容し、そしてΔ線形配列がまさにそこから発生してくる瞬間にふれることにあるように思う。
ふたつのβ脈動のそれぞれの振幅の一方の極を重ねたところに、ひとつのΔ項が安定的に発生する
ここで、少し戻ってカエルの神話M241をみてみよう。
この神話の第一幕。
まだ男女の区別がない。いや「姉妹」は女性だろう!と言いたくなると思うが、男はまだいない。男女の二項関係になっていないのである。しかしあらゆる項は「一つ」では存在できないので、ここで女性が二人必要になる。だから姉妹である。
そして、人間と植物の区別もない。いや、区別はあるがない、という方がよいか。木が人間の男に変身することができる。芭蕉の精。山川草木悉皆成仏という感じである。
この木の人間の男への変身によって、男女が結婚し夫婦になること、そして人間の子供の誕生ということが可能になる。
夫/婦
親/子
この二項対立関係の始まりには、二つの「どちらとも言えない二者の関係」がある。
第一のどちらとも言えない二者関係は姉妹である。姉妹は「同じ」家族でありながら「異なる」個人である。
第二のどちらとも言えない二者関係は、植物と人間の関係である。ここで植物と人間は、一方から他方へ変身できるという点で異なりながらも「同じ」になることができ、同じでありながらも、あくまでも別々に異なるものである。
二つの池の対立に、いくつかの対立が重なっている。
第一の池 / 第二の池
人間の姉妹 / ジャガー
少ない魚 / たくさんの魚
この対立の境界を、まずヤシの木が変身している夫が踏み越えるが、ヤシの木夫は殺されてしまう。そして今度は逆方向から、ジャガーが境界を踏み越えてくる。ヤシの木の夫に変身して、姉妹のもとにやってくる。
ヤシの木が変身している人間の男に、ジャガーが変身する。
植物か人間か、経験的な対立関係の両極の「どちらともいえない」中間的な存在だったヤシの木夫が、これまた「人間に変身したジャガー」というどちらとも言えない存在と、食う=食われるという関係でひとつになり区別がつかなくなる。変身を二者関係に留めておかないというのがこの神話のすごいところである。β項からβ項への変形が、次から次へと連鎖していく。
何が何に変身しているのか混乱するほど、多重の変身が重なっていく。
その中で、姉妹の姉とヤシの木の夫の婚姻関係は分離される。
しかし、夫に変身したジャガーは、夫になりすまして姉の方と結ばれるのかと思いきや、大いびきをかいて寝てしまう。夫婦関係における夫としての機能を果たさないということで、このヤシの木の夫に変身したジャガーは夫のようで夫でない、これまた夫であるとも夫でないとも、どちらともいえない中間的な存在である。
つまり、「姉/ヤシの木の夫」のペアによって実現されていた夫婦関係という二項関係が、夫が食べられたことによって終了し、代わりに夫に変身してやってきたジャガーが夫の代わりにはならないということで、次なるどちらか不可得な中間状態に切り替わるのである。
その状態から、姉妹は赤ん坊を連れて逃げる。
夫でありながら夫でない、ジャガーとの「夫婦関係」を終わらせ、分離するのである。この時、姉妹は引き続き二人一組で行動している。これは姉妹を中間的で両義的なβ項の位置に現象させるためである。この中間的な姉妹と分離されたジャガーは、ヤシの木の夫を食べ、それに変身しているという点では中間的ではあるが、もうヤシの木は食べられていなくなってしまっているのでどちらかと言えばジャガー単立という気配がある。これでは中間的な姉妹と釣り合いが取れないため、樹皮、つまり中身を抜いた木を抱かされる。偽物の夫には、偽物の木の息子がちょうどよい。
なかなか恐ろしいドアである。カエルの魔法使いも恐ろしい。
このくだりの手前で、ジャガーが人間の姿から、動物の姿に戻る。ジャガーは人間から分離して、動物へと戻っていく。
そして姉妹たちと、神話によくある鬼ごっこ、逃げるものと追うものの対立関係に入る。
そしてジャガーの姿をしたジャガーは、姉妹たちが隠れている家に追いつく。いよいよ絶体絶命というところで、危機一髪、気の利く守護者のおかげで、ジャガーは「戸」という「内/外」の分離を区切りつつ通路を開いたり閉じたりするという典型的な中間項=媒介者に、挟まれ、その棘に刺される。この二極が、挟まれる、刺される、という関係において不可分にひとつになる。
内 人間
| |
扉 / ジャガー
| |
外 動物
内/外という経験的対立の媒介者たるβ「戸」と、この神話の場合人間/動物という経験的対立の媒介者たるβ「ジャガー」とが、挟まれる、刺さる、という動きによって対立し分離したまま過度にβ結合する。この過度なβ二項の結合から、内/外、そしておそらく動物/人間の分離が、決定的に分離する。
内/外、動物/人間、人間が生きることのできる世界とそうでない世界。そうした経験的に安定した確かな二項対立もまた、言語によって分節された意味である限りβ項の振動脈動の干渉縞のようなものとして浮かび上がる、無数の二項対立のうちの一つである。
ここから次なるβ脈動に話が移る。
カエルの悪巧みにより親子が分離させられる。
分離といっても、一つ屋根の下に暮らしているのであるが、母は赤ん坊だった息子が瞬時に青年に変身させられているとは知らないし、赤ん坊だった息子も誰が本当の母親かわからなくなっている。
そして偽の母を丁重に扱い、本当の母を侮辱した。
親と子が、一つ屋根の下で一緒に暮らしながらも、憎しみ合うように仕向けられたわけである。
ここでカワウソである。
カワウソが「おじ」だというのはすごい話であるが、神話を読み慣れてくると別になんとも思わなくなる。
このおじであるカワウソと姉妹の息子とがコミュニケーションを果たすために、一度「木の上に登る」というステップが丁寧に踏まれる。
猿かに合戦の柿の木や、鳥の巣あさりの木にあるように、神話では木に登ることは、先行する二項対立に対して、中間的な位置に移動することである。
一度木に登り、カワウソと言葉を交わした主人公は、先ほどまで自分がその中にいた対立関係を逆転させる。本当の母親として扱っていた者が実は偽の母親であり、親に対する礼をとっていなかった相手が、実は本当の母親である、と。
そして本当の親子はおばとともに、カエルの女魔法使いの家を離れる、偽の母から分離しようとする。
ここから神話は、最終的な分離へ、つまり神話が語られている世界、神話を語っている者と聞いているものが現に生きている世界、私たちが実際に生きている世界が、そうでないところから分節される瞬間へと展開していく。
ここでまず、語りの本筋からすると唐突な感じのする、いろいろな鴨の起源の話が挟まれる。
この忙しい時に、鴨?
と思われるかもしれないが、この鴨が、いくつもの種類に、いくつもの羽の模様と色に分離すること、そして分離が固まることは非常に重要である。
ここまでは経験的で感覚的な対立に対して中間的な項たちどうしが結合したり分離したりする、β項の間の分離と結合、β脈動が語られてきたわけだが、ここへきてβ脈動による波紋状のパターンをΔ線形配列である言語の中に写像させるプロセスは一巡して終わりを迎える。
そして安定的な分離、分離の安定へと向かう。
偽の母と母を偽られた息子とが、分離しようとしてはなかなか分離できず、いくつかの分離的媒介者を挟み込むことでようやく分離できる様が語られる。
*
まず母を偽られた息子アブリが、偽の母から離れようと、移動する。
しかし、しゃべる鳥、鸚鵡に秘密をばらされてしまい、偽の母に追いかけられ、追いつかれる。そしてカヌーを掴んで、離さない。
閉口した息子が、偽の母と居ると偽り、本当の母たちと一時的に分離する。こうしてまず、姉妹と女魔法使いのカエルとの分離が成功を収める。ジャガーから逃げてきて以来の中間的な二項関係、β項どうしの関係の一部が終わりを告げる。
同様に、カヌーもまた水/陸の境界=中間領域、水中/空中の境界=中間領域にとどまり、移動することができる、経験的で感覚的な世界に突出した極めて強力な両義的媒介項である。このカヌーを掴んで離さない、カヌーと過剰に結合していたカエルが、ようやく分離する。βカエルとβカヌーの決定的な分離である。
*
息子は改めて、偽の母との分離を試みる。
息子は木のところへ、中が空洞になった木のところへ行く。
息子の父親が、木が、ヤシの木が変身した男だったことを思い出して欲しい。はなしはぐるりと円環を描いて「中身が空洞で、食べられるものが詰まった木」へと帰ってきた。ジャガーに食われた後にジャガーもろとも戸に挟まれて消されてしまった父=ヤシの木の精と異なるが同じ=同じだが異なる項が、ここへきて復活している。
この木の中に、カエルの魔法使いの女は閉じ込められる。
内/外の対立という、経験的、感覚的に極めて安定した対立関係に、ここで至り着く。
また、女魔法使いに変身していたカエルは、経験的ないわゆるカエル、ただのカエルになる。
β容器としてのβ木とβカエルを一方を他方の中に入れてしまうほどに過度に結合させることで、ふたつのβ脈動のそれぞれの振幅の一方の極を重ねたところに、ひとつのΔ項が安定的に発生する。
カエルは、主人公を”言ってはいけない”秘密、実の母が誰であるかという秘密で呪縛する。嘘と秘密。
嘘と秘密は、通常日常のΔ線形配列による言葉を麻痺させ、弛緩させ、バラバラにしては、勝手なところを繋ぎ合わせて、それらしい偽のΔ線形配列を生成する。嘘の言葉は、事実ではないことをさも事実のようにいうという点で、事実を報告する言葉/非-事実を報告する言葉の対立関係に対してその中間、β項の位置に立つ。
言葉はΔ項の線形配列でありながら、まったくそのままで、β脈動でもある。
Δ即β。このことをレヴィ=ストロース氏は「象徴の機能の本質的特性」であるという。
文字通りの意味と比喩的な意味の対立。
文字通りの意味 / 比喩的な意味
よく耳にする「月が綺麗ですね」などを考えてみるとよくわかる。言語は、まった文字通りの意味のまま、完全にそのままで、比喩的な意味にもなる。
文字通りの意味と比喩的な意味が、どちらだかよくわからない、どちらなのか不可得、という状態に常にあること。常にそうであるからこそ、私たちは何かに名前をつけたり、渾名をつけたりすることが普通にできる。めがねをかけた先生を「メガネ」という渾名で呼んだりするというあの比喩である。
象徴機能、異なる事柄として区別される二つの事柄を、異なったまま区別したまま、そのまま「同じではないが同じである」「等しくないが平等である」「異なるが異ならない」と置く。これが象徴ということ、象徴するということである。