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ことば / ことのは / 事の端 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(17)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試みの第17回目である。前回はこちらですが、これまでの記事を読まなくても、今回だけでお楽しみ(?)いただけるはずです。
本記事は1万6000字ほどあり、じっくり読むと何時間もかかりますので、「長い」と思われる方は一番最後まで飛ばしていただけると幸いです。
前回の記事では、人間とAIがハイブリッドになっていく中で、近い将来「ことば」ということがどのようになっていくのか、その可能性をどのように考えることができるのか、といったことを考えてみた。
この「人間の」でもなく「AI(人工知能)の」でもない、「ことば」それ自体の創造力について思考する上で、レヴィ=ストロース氏の『神話論理』が探求しようとしている「神話の論理」は重要な手がかりになる。
言葉、ことば
ことのは、 こと/の/は、 事/の/端
わたしたちは、言葉を、次のような姿で経験することがほとんどである。
Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ
「犬 が 歩い て、棒 に あたり ます」
「猫 が、小判 を、踏ん で 歩い て います」
話し言葉でも、書き言葉でも、人間が聴覚的、視覚的に弁別可能な最小の時間、空間の単位には、同時に一つの「Δ」のみが収まる。
複数のΔを重ねて同時に一つの時間的空間的単位に格納することはできない。
すでに車両が格納されている立体駐車場の箱の中に、もう一台、別の車を突っ込むのと同じである。2台ともプレスマシーンで圧縮して半分の体積にしてしまえば一台分の駐車スペースに2台分に車を入れることはできるかもしれないが、半分の体積にスクラップされた塊は、すでに「車」ではない。少なくとも公道は走れない。
言葉も同じである。
話し言葉なら、人間の喉や口の構造上、例えば「あ」と「ん」を同時に発声することはできない。もちろん唇や舌を無理に曲げれば、「あ」と「ん」の中間状態のような口の形を作ることはできるが、その口で発生した声は「あ」としては判別できないし、「ん」としても判別できない、別の音である。
書き言葉でも同じようなものである。小学生の国語のノートの一マスに、あいうえおかきくけこ・・・わをん、すべてのひらがなを重ねて書いてみよう。その一マスはほぼ黒塗り、何が書いてあるか判別できないものになるだろう。
私たちの言語は、他とは異なるある音や、他とは異なるある視覚的形状を、ひとつづつ、ひとつづつ、一列に、順番に配列する技法で組み立てられ、いや、並べられている。
コミュニケーションの言葉
このひとつづつ並べる、ということが、言葉を日常の安定したコミュニケーションの手段という姿に落ち着かせる上で一役買っている。
例えば、レストランで「ドリンクは、お水をください」といえば「焼酎」が出てくることはないし、「お釣りは5000円です」と言われながら一円玉をひとつだけ渡されることもない。
もちろん「焼酎こそ真(まこと)の水、焼酎こそ魂の水である」などと言って焼酎を提供する店もあるが、それはそういう冗談が通じるお客と店主の関係があり、「水」という言葉で「焼酎」を象徴するという冗談、いや高度な比喩的コードが共有されている場でこそ成立する。間違っても、ファミリー向けのレストランでお子様に対して「はい、お水ですよ」と、焼酎を提供してはならない。冗談では済まない。
あるいは焼酎の店主が帰り際のお客に対して、「いいかよく聞け、これは表が裏に、裏が表に刻印された”五千円の価値がある特別な一円玉”だ、あんたは友達だから、今日は特別に、お釣りの五千円をこの一円玉で渡そう」などと言って無理やり財布にねじ込めば、「焼酎は水」で大笑いしていた客も、酔いが覚めて警察を呼ぶだろう。
直接、聞いたり見たり、感覚できる「ことば」が、同時にひとつづつであるからこそ、言語は”他ではないあるひとつのこと”を複数の人間が一緒に意識するための道具にもなる。
こと / の / 端
ところが、言葉には、さまざまな面がある。
例えば「焼酎こそ真の水」というのも、人によってはおもわずニヤリとしてしまうことだろう。
また、「裏が表に、表が裏に…」は『ドラえもん』に登場するジャイアンこと剛田武氏の有名なセリフだが、このマンガが極めておもしろい一コマとして世代を超えて伝承されていくのは、ドラえもんファンの多くがこの「表が裏に裏が表に」を”おもしろい!”と感じるからである。
日常の実社会の真面目なコミュニケーション、特に経済的損得に関わる取引でこれをやられたら、ほとんどの人は怒り出すことだろう。しかし、例えばマンガでも、文学でも、話芸でもいい、「お話として」見聞できるものであれば「裏が表に表が裏に」は「おもしろい」と思うことができる場合がある。
*
物質的存在としては、つまり手で触ったり、口で味わったりする限りでは、焼酎は水ではないし、水は焼酎ではないし、硬貨の裏表は刻印されるからこそ決定されるのであって刻印前にあらかじめ裏表が決まっているわけではないのだけれども、言葉の上では、焼酎を水と言ったり、裏が表で表が裏だと言ったりすることができる。
つまり感覚的にはその実物に触れることができないことを、私たちは言葉の世界に、言葉と言葉の配列として、言葉と言葉の置き換え関係として、いとも簡単に創造することができてしまうのである。
言葉は、五感の神経系にうつる世界とは別の世界を、ことばとことばの並べ方のパターンのなかに構築することができる。いや、構築する、という言い方はあまり良くないかもしれない。なんというか「構築する主体」のようなものが居るかのように思わせてしまう気配がある。しかし、ことばとことばの配列における”構築(仮)”は、”構築する主体”と”構築される対象”の”関係”をも”構築”する”構築”である。
言葉のこの力は「喩の力」とも呼ばれる。
喩とは比喩の喩、つまり異なった二つの事柄を一つに結びつけ、ある一つのものでそれとは別のものを「例える」ことである。
言葉の「喩の力」が輝くのが詩の言葉である。
* *
「お月様が、透明になってる」
冬の朝、凛とした青空にぼんやりと白く浮かぶ月を見て、我が家の下の子(5歳)が言ったことばである。
自然科学的に言えば、この時の月が透明になっていたわけではない。つまり天体としての月の岩石の組成が、太陽が発した可視光の波長を透過させる状態に変容していたわけではない。
しかし、いま重要なことはそこではない。
朝の空の光の中で、ぼんやりと目に見える、白い消え残りのような月。
その姿に注意を向けながら声を発する時、咄嗟に「透明」という言葉が選ばれ、「お月様」の後に配列されたということ。
選ぶこと、配列すること。
それは”選ばされること”でもあり、”配列させられること”でもある。
「どのような選択肢の中から選ばされるのか?」
「どのような配列のパターンを利用可能なのか?」
このふたつのことが、私たちの生きる意味の世界の現れては消え現れては消える姿を条件づけている。
そして「わたし」ということ、さらには「わたし」ということの言い換え先となる言葉たちもまた、この「その中から選ばざるを得ない選択肢」のなかのひとつであり、「そのようなパターンで配列せざるを得ない順序」のなかに置かれることである。
「わたし」が、選んだり、配列したり「する」のではない。
「わたし」は、選ばれ、は配列されることである限りにおいて、はじめて語られ得る「わたし」である。
*
神話のことば
レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で探求したことは、この私たちが「どのような選択肢の中から選ばされるのか?」、「どのような配列のパターンを利用可能なのか?」を走査する手法としても転用流用(いっそ誤用というべきか)可能である。
*
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レヴィ=ストロース氏が資料として取り上げている神話群を読み直してみると、そこに上記のような二重の四項関係が浮かび上がってくる。
タバコの煙を吐き出さなかった人間がカワウソに変身する話
例えば、次の神話(『神話論理』M27)を見てみよう。
この神話は「タバコ」の起源と、「カワウソの目が小さいこと」の起源を語る。突然に「カワウソの小さい目」と来ると、何の話かと思われるかもしれないが、これらは上述した「どのような選択肢の中から選ばされるのか?」の「選択肢」のひとつの例である。
M27は次のように始まる。
昔々あるところで、漁師たちが水辺で魚を焼いていた。
(→水/火、人界/水界 …α未分離)
ある漁師が魚の腹をひらくと、タバコがあった。
(α→β分離)
その漁師は最初は隠れて一人でタバコを吸う。
(α→β分離)
匂いで仲間に気づかれ、分けあってみんなで吸う。
彼らはまだタバコの吸い方を知らず、煙を吐き出さずに飲み込んでいた。
(β→Γ分離の結合)
精霊が血吸いコウモリの姿になって現れ、煙を吐き出すことを教え、
煙を吐き出さないと神の罰が当たることを告げた。
煙は神のものであるからだといいう。
漁師たちは精霊の言うことを聞かず、煙を吐き出さずに吸い続けた。
(Γ結合)
彼らは翌朝には目がほとんど見えなくなり、カワウソに変身していた。
だからカワウソは目が小さいのである。
(Γ→Δ分離)
α、β、Γ、Δは、レヴィ=ストロース氏が書いていることではなく、精読のための補助線としてわたしが仮に書き加えたものである。
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α
神話の始まり、漁師たちが水辺で魚を焼いている。
特別変わったところはないように思えるが、これは未分離・分離以前を言葉で言おうとしたものである。
水辺というのは水界と陸界、つまり人間が生きることができる世界と人間が生きることのできない世界(水中で魚のように鰓呼吸することはできない)の境界、中間領域(の陸寄り)である。
そして水界から獲られた魚が、火によって焼かれている。
魚を焼くことにおいて、水と火という対立する両極が、ショートしている。
β→Γ
次に、この未分離αが、四つに分離する。
まず、魚が焼き上がる。「火を通したもの」と「生のもの」が分離されたのである。しかしこの魚の腹にはタバコが入っている。動物に植物が入っている。この焼き魚は生のものと火を通したものの対立を分離しているが、動物と植物の対立をショートしている。つまり第一の対立を分けつつ、第二の対立を分けていない。
そして、焼き魚の腹が開かれ、そこから「タバコ」がβ分離される。
焼き魚は火を通したー食べられるもの、である。
それに対してタバコの煙は、火を通したー食べられないものである。タバコの煙は、下記の四項関係
火を通したもの / 生のもの
|| ||
食べもの / 食べものではないもの
をぐにゃりとねじ曲げる。つまり四項関係を綺麗に分離しつつもその分離を捻じ曲げて、通常は繋がらないところをショート(Γ)する。
このタバコを見つけた最初の一人は、仲間から隠れて、つまり仲間からβ分離する。しかしすぐに仲間に見つかって、一緒になって吸う。分離したかとおもったらまたすぐΓ結合している。
しかもタバコの煙を吐き出さない、とくる。
煙を吐き出すとは、身体と煙をβ分離することである。
しかし彼らは煙を吐き出さない。分離すべきものが、分離せず、Γショートしている。
そこに血吸いコウモリ、つまり、人間がタバコの煙を”吸う”こととは”逆さま”の”吸う”を稼業とする血吸いコウモリが訪れて(血吸いコウモリは、火を通していないものを吸い、そして吐き出さない。)、煙を吐くことを教えてくれるのだが、人間たちはいうことをい聞かない。こうして人間たちは神のもの=人間ものではないものを体内に保持し続けるという短絡状態にとどまろうとする(Γ分離すべきものの結合)。
このようにβでは、分離と結合の区別が、分離されるでもなく未分離のままでもなく、という曖昧な状態になる。これを仮にβ→Γと表記するが、ここが非常に重要である。
*
最後に、タバコの煙を吐き出そうとしなかった人間たちは、カワウソという水陸の間を行ったり来たりする水界と陸界の中間領域の住人に変身させられる。「分離すること」を拒み、分離すべきものと結合しつづけようとした結果、お望み通り分離を分離しない中間的な存在になった、ということである。
水面をわたるカヌーからの火と装身具のはじまり
猿かに合戦の蟹も、桃太郎のお婆さんが川で洗濯するのも、舌切り雀のお爺さんが川で牛馬を洗うのも、神話や民話にはよく水辺が登場する。
水辺は、陸界と水界、人間が生きることのできる世界と人間が生きることのできない世界との中間領域である。
神話の思考が日常的なΔだけが並ぶ世界を離れ、β→Γの領域を記述しようという時、「水辺」はかっこうのフィールドとなる。
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『神話論理』M55「火の起源」の神話には、水辺に代わって、水面に浮かぶカヌーが登場する。
かつてサルは人間のようであった。
毛がなく、カヌーで移動し、とうもろこしを食べ、ハンモックで寝ていた。
(α未分離)
p.186
サルと人間が未分離だ、というところか話が始まる。
人間的であることと、動物であることの区別がなくなっている、経験的区別とは鋭く対立する未分離の状態から神話は始まる。
ある日、サルはテンジクネズミとカヌーに乗っていた。
テンジクネズミがカヌーの底にばら積みしてあったとうもろこしを齧るのを見て、サルは不安になった。カヌーの底に穴が開くのではと不安になったのである。そして案の定、船底に穴が開き、カヌーは水没した。
(α未分離→β分離)
カヌーの上は神話によく登場する水界と陸界との中間領域である。
カヌーによって水界と陸界が、船底一枚を隔ててひとつにくっついていたのであるが、そこに穴が空き、みんな水の中に落ちてしまう。
水に落ちるということは、陸界を離れるということであり、つまりここで水陸が分離(β)したのである。
ただしこのβ分離は、ただちにΓ結合へと転換する。
猿は水/陸分離した後の、陸界へと移動してくる。
しかも、水界の「魚」を携えてである。
そしてまるで人間のようなジャガーと出会う。
β分離→Γ分離の結合:
泳ぎの上手いサルはピラニアの鰓に手を突っ込んで捕まえて、岸まで辿り着く。そこでジャガーに出会う。ジャガーは魚に興味を持ち一緒に調理して食事をしようとサルをさそう。
料理の火がないことに気づいたジャガーは、サルに言われるがまま、太陽まで火を取りに行く。
ジャガーが遠くまで行っているうちに、サルは火おこしの技術を発明し、魚を全部焼いて食べた。
料理の火を求めて、サルとジャガーが、知恵比べをする。
ジャガーは火を太陽まで取りに行こうとする。一度急接近したジャガーとサルが遠くに分離する。その間にサルは先に魚を焼いて食べてしまう、つまりお腹の中に入れてしまう=一体化するほど結合する。
分離したり結合したり、大忙しである。
そこにジャガーが怒り狂って帰ってくる。とんでもない話である。
Γ分離しつつ結合する→Δ分離:
ジャガーは疲れて戻ってきて、サルに憤慨し、殺そうとする。
ジャガーが探すと、サルは木の上にいる。
降りてこいと命じても、サルは断る。
ジャガーは強い風を起こし、サルを落とす。
木から落ちるサルは「手を離すから、口を開けろ」とジャガーに命じる。
そしてジャガーが開けた大きな口へ、サルは自分から飛び込んだのである。
サルはジャガーの胃の中でナイフを取り出し、内側から胃を切り裂いて出てくる。
猿はジャガーの皮を剥ぎ、細い帯状に割き、頭を飾る装身具を作る。
他のジャガーたちも、サルがこの装身具を見せると、恐れをなして逃げるようになった。
ジャガーの帰還により、また、サルとジャガー、人間と動物、火で料理するものとしないものとの対立がショートする。しかも今度はジャガーがサルを食べるという。
猿は一度は木の上に逃げ、降りることを断る。束の間、分離を果たすのである。
しかしすぐに木から落とされて、ジャガーの口のなかに真っ逆さまである。
ここで猿は、ジャガーに対して「口をあけろ」と命じる。
猿はジャガーに食べられたのではなく、自分から飛び込んだのである。
このつぎのくだりが、この神話の面白いところである。
サルが木から落ちる。この際サルは、自らの意思で、主体的に、わざわざジャガーの口に入るという。これは食べられることのように見えて、実際には食べること、狩猟すること、である。サルが、ジャガーを、狩ってしまうのである。
自分からジャガーの腹に飛び込んだサルは、食べられたようで、食べられていない。腹の中に入るほど一体化して結合しているようでありながら、あくまでもサルのまま独自に活動し、ジャガーとは分離したままである。
サルはジャガーの腹を内側から切り裂き、前の神話では「タバコ」が魚の腹から取り出されたのと同じように、非-ジャガーのまま、ジャガーから出てきて分離する。
こうしてジャガーは人間のようなサルの手で、人間の文化=人工物の典型である装身具(動物は服を着たり髪飾りをつけたりしない)の素材にされる。文化の材料としての自然、文化と自然の中間領域にあって、文化の方へと移動することをいまかいまかと待っているものに変身させられる。
そうして人間のようなサルとジャガーの間には、前者を見れば、後者が逃げる、という定常的な「分離」の関係が定まる。
この神話と似たような登場人物が演じる、別の神話もある。『神話論理』M56「火の起源」をみてみよう。
テンジクネズミの鼻の短さが、Δ分離を象徴する
α未分離:
かつてジャガーの母親が火の主であった。
このくだりでは、非-自然たる人間の文化に属するものである”火”が、野生=自然の側に属している。自然と文化のような、Δ領域では経験的にはっきりと分離している事柄が、ここでは未分離のままである。
α未分離→β分離:
動物たちが共謀して燃えさしを盗むことにした。
様々な動物が密かに盗み出そうとするも失敗したのち、テンジクネズミの番になる。テンジクネズミはこっそり盗もうとするのではなく、「火を取に来ました」とジャガーに向かって堂々と宣言し、燃えさしを取って去る。
M56 火の起源p.189
テンジクネズミの働きで火はジャガー=野生=自然のもとから分離する。
おもしろいのは、こっそり盗もうとした動物は失敗し、堂々と宣言してから盗んだ動物は成功する、という対立である。
火の野生からの分離に失敗 / 火の野生からの分離に成功
|| ||
こっそり盗もうとする / 堂々と宣言してから取る
なぜ、「こっそり」では未分離からの分離が失敗し、宣言すれば成功するのか。素朴に考えると、わざわざ「盗りますよ」などと宣言していたら失敗する可能性が高くなりそうに思えるが、神話では逆になっている。
これはおそらく、未分離”α”から分離”β”への移行、遷移、変換、転換こそが問題だからである。密かな盗みで、「ジャガーが知らないうちに、気がついたら、いつの間にか、ジャガーのもとから火が分離していました」では、このαからβへの転換がはっきりしなくなる。ジャガーが、取られたことに気づかないようではダメなのである。テンジクネズミはわざわざジャガーと言葉を交わし、コミュニケーションの回路を開いてつながった上で、そこから分離を開始する。分離と結合の区別である。分離は結合と対立してこその分離である。そもそも結合(未分離)がないところでは分離するといっても一体何を分離するのか、という話になる。
β分離しつつΓ結合する:
息子ジャガーがテンジクネズミの行く手を阻むが、テンジクネズミは逃れる。ジャガーは追いかけ、数日後にようやく河の対岸にいるテンジクネズミに追いつく。
M56 火の起源p.189
数日の差をつけて逃れ、そして追いつかれる。逃れる、つまり分離に成功し、そしてまた追いつかれ、急接近する。しかし両者の間はまだ「河」で隔てられ、急接近しつつもしっかり分離されている。つかず離れず(β→Γ→β→Γ)。
追われる者 /(数日の差→河)/ 追う者
追われるテンジクネズミと追うジャガー。両者を分離する距離は、伸びたり縮んだり、伸縮する。
Γ結合を分離する→Δ:
テンジクネズミはジャガーに話し合いを提案する。「火を失ったのだから、他の生きるて立てを探そう」と。そしてテンジクネズミは「もっとも健全な食物は、生で血の出ている肉である」とジャガーをだます。
M56 火の起源p.189
分離しつつ急接近した両者は「話し合い」をする。
言葉によるコミュニケーションの回路が開かれる。
しかしそこで交わされた言葉は「だまし」である。
話し合うと言いながら嘘をついている。
これは、結合していると思わせつつ実は分離しているということである(ΓとおもわせてのΔ)。
分離しつつ結合すること、結合しつつ分離することを象徴する上で、この場面は実によくできている。
Γ分離しつつ結合する:
ジャガーは「生で血の出ている肉」を食べろというテンジクネズミの言葉を間に受け、それでは試しにとテンジクネズミの鼻面を引っ掻く。鼻は切られ、以後、テンジクネズミは鼻面が短くなる。
M56 火の起源p.189
ここでジャガーの爪が、テンジクネズミの鼻面に接触する。
そしてこの接触により、テンジクネズミから”肉”が分離する。身体の野生の部分が分離する。
互いの身体が触れるという接近の極限から、ある部分の分離が生じる。
分離と結合が分離し結合する、その脈動の極みである。
野生の肉の部分が分離することで、テンジクネズミの身体は野生性を分離されたもの、非-野生、つまり「野生」と「文化」が対立する場合の「文化」の側に区切り分けられる。ここから一挙に、かつ精密に、自然と文化が互いに他方ではないものとして分離していくプロセスが動き出す。
Γ分離しつつ結合する→Δ分離:
テンジクネズミは自分の他にも肉はあるとジャガーを説得し、食われることから逃れる。しかしこのせいで、ジャガーは人間を襲うようになる。
野生の肉を食べることを学んだジャガーは、お返しにテンジクネズミに料理の火の使い方を教える(串焼き、蒸焼きのやり方など)。
しかしこの間、時間がかかりすぎており、ついに燃えさしは燃え尽き、火は消えてしまう。
ジャガーはさらに点火の技術もテンジクネズミに教える。
テンジクネズミは世界を駆け巡り、いたるところで火を焚く。
料理の火の技術はテンジクネズミの出身の村に伝わり、父や村人に大歓迎される。(終)
M56 火の起源 pp.189-190
テンジクネズミとジャガーの危険な対話(コミュニケーション)を通じて、火の知識が、ジャガー(野生=自然)の側から分離し、切り離されて、テンジクネズミ(この場合はジャガー=野生=自然の対立物、つまり非-野生・非-自然)の側に移動する。
ちょうど、テンジクネズミの鼻の肉が切り取られ、ジャガー=野生=自然の方へ移動したのと逆方向に、火の知識がジャガーから切り離され、テンジクネズミ=非-ジャガー=非-野生=非-自然の側に移動する。
ジャガー → 火の知識 → テンジクネズミ
← 鼻面の肉 ←
|| ||
野生=自然 < < Δ > > 非-野生=非-自然
この最後のくだりで、人間の料理の火の起源、ジャガーが人間を肉として食べることの起源、テンジクネズミの鼻面が短いことの起源などなど、経験的世界の諸事実の起源が説明完了となる。
*
レヴィ=ストロース氏は、この神話と他の神話を比較しつつ、興味深い事実を指摘する。
この神話ではテンジクネズミの鼻面が短いことが”切り取られていること=分離されていること”の象徴になっている。
未分離αからの分離β、分離βからの結合Γ、結合Γからの分離Δという、意味分節の網の目が”伸びたり縮んだり”する脈動を、言語でもって語る上で、”未分離が分離されること”をどう象徴するかは大きなテーマになる。
この神話ではテンジクネズミの鼻面の短さがこの象徴になったが、他の神話では、二種類のブタの鼻の長/短、齧歯類のしっぽのある/なし、ブタの毛の長/短、口を開けること/口を覆うこと、船底に穴が空いていること/穴があいていないことなどが、未分離が分離されることの象徴になる。
ブタの毛の長さや、モルモットの鼻の短かさや、ジャガーが口を開けているかいないかといった、ある意味で非常に”素朴”な経験的事象の間に見られる差異が、「概念の道具」となって、二重の四項関係としてモデル化することもできる意味分節システムの発生(未分離αからの分離β、分離βからの結合Γ、結合Γからの分離Δ)のプロセスを生き生きと語り出す。
ここで重要なのは、区別が未だないところから差異が生じることである。このことを象徴する項(下記の図でいえばΓ1)が振幅を描いて動き回ることによって、その振れ幅の両端に二者=二項(下の図でいえばΔ1とΔ2)が互いに他方ではないものとして分離される。
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このΓが動き回り、大きな振れ幅を描きつつ原点から離れたり原点に戻ったり、また原点から離れたりする動きと、その動きの両極に二つのΔが輪郭を表すことが、神話にとって何よりも重要なことである。そしてこのΓの位置を占めるものが、実際の経験的事物として何であるかは、毛でも、鼻でも、なんでもよいということになる。もちろん、両極に分離し対立するということがクリアにならなければならないが、それに成功するなら、なんでもよい。
サルの義両親を笑ってはいけない
例えば、人間と動物、文化的人間と自然的動物の区別の起源を語る神話では、しばしば「サル」がΓの役割を、人間と動物とのあいだの両義的媒介項の役割を演じる。レヴィ=ストロース氏は「サルの意味論的位置付け」として、次のように書かれている。
「火の起源に関するボロロの神話は、サルの意味論的位置づけを明確にする助けになる。それはジャガーと人間の中間である。サルは人間のようにジャガーと対立する。そしてジャガーのように火の主であり、人間は火を知らない。ジャガーは人間の逆であり、サルは人間の反対側である。サルの役割は、あるときは一方の項から、あるときはもう一方の項から借りた断片で構成されている。」
ある神話で、サルは”人間のように”ジャガーと対立し、またサルは”ジャガーのように”人間と対立する者として登場する。例えば『神話論理』のM37神話をみてみよう。
β分離→Γ結合:
ある男が人間姿をしたサルの女と結婚した。
サルの女が妊娠したので、男は妻とともに妻の両親(=人間の姿をしたサル)を訪ねた。
M37 p.177
人間とサルの、結婚、子供の妊娠、訪問。
経験的に対立するはずの人間と動物の間が、これでもかというほど未分離になっている。
β分離→Γ結合→β分離:
妻は、いかなることがあっても「笑ってはいけない」と男に注意を促す。
サルの両親は酔わせる効果のある葉を食事に提供する。サルの父親は酩酊し「サルのよう」に歌う。その様子に男は思わず笑い出す。
怒ったサルは、婿が酔うのを待ち、酔った婿を高い木の上に吊るしたハンモックに置き去りにした。
M37 p.177
人間の男は、猿を笑い、怒ったサルによって高い木の上に置き去りにされる。『神話論理』の冒頭に登場する、鳥の巣を漁りに樹上に上がり、取り残される話と同じである。
β分離→Γ結合:
木の上で目を覚まし、降りられないと知った男をミツバチとスズメバチが助け出され木から降りる。ハチたちはサルに敵討をするようすすめる。男は弓矢をもってサルを追いかけ、妊娠中の妻だけを残して、あとは全て狩ってしまう。のちに妻サルは生まれた息子とインセストを犯す。
M37 p.177
木から降りて弓矢で狩る。ここでβ分離が改めて急接近する。狩猟の場面とインセストにおいて、分離したものの結合が象徴される。
それにしても樹上で悪さをしたサルへの敵討にハチが関与するとは、どこかで聞いたような話である。
Γ結合→Δ分離:
このインセストから生まれた子孫たちが、今日のホエザルである。
M37 p.177
最後はあっさりしているが、経験的な世界において人間と異なる者としてはっきりと区別されているサルの存在が固まる。
この神話では人間のようで人間ではないサルとの対決から、サルと人間が分離する。この分離がサルの起源であり、人間の起源でもある。
*
サルは人間の断片も持ち、ジャガーの断片も持つ。
サルは、人間のようで人間ではなく、非-人間のようで非-人間でもないことを象徴する。人間とジャガーという対立する二極のどちらでもあってどちらでもない、中間的で両義的な存在であるサルは、人間とジャガーを結びつけつつ分離する、媒介の役割を演じることができる。
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レヴィ=ストロース氏は続ける。
「いくつかの神話はサルをジャガーと入れ替えており、[…]いくつかの神話はサルを人間と入れ替えている。そしてときに三者がそろう三角の体系がある。」
人間のようでもあるサルは、人間がいないところで人間のように人間の代わりにジャガーと対立することもできる。
またジャガーのようでもあるサルは、人間と対立することもできる。
どの経験的区別が前景化するかによって神話の語りは変容する。
つまり、Δの配列をどの順番で行うかは、神話においては第一義的なプロトコルに関わる話ではなく、第二次的な表現形態である。
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ちなみに、サルが人間のように人間の住居をうろうろし、囲炉裏で火にあたろうとしたり、甕から水を飲もうとしたりするが日本の昔話の「猿かに合戦」がある。
さるかに合戦のサルは、囲炉裏からは”灰の中で焼けた栗=火が通っているが食べられないもの”との接触によって遠ざけられ、水甕からは”蜂=火が通っていないが食べられる”蜜”の主”との接触によって遠ざけられる。
火が通っているが ー 食べられないもの (灰・煙)
火が通っていないが ー 食べられる (蜜)
蜜と灰は、
生のもの / 火を通したもの
|| ||
文化に属する人間の食べ物 / 野生の動物の食べ物
この経験的区別に対する両義的媒介項の位置を占める。
蜜と灰という二つの両義的媒介項の間の対立関係こそ、『神話論理』の第二巻『神話論理II 蜜から灰へ』の基調である。こうしてわれわれは神話論理の奥深い世界へ、全巻買い揃える世界へと誘われていくのである。
なお、下記の記事で猿かに合戦を意味分節理論で分析しているので、ぜひ参照してください。
項と項の関係を分節する動きの脈動こそ重要である
サルは人間と動物、文化と自然の中間としておさまりがよいのであるが、これは文化と自然の中間項はサルでなければならないという話ではない。収まりが良ければ、なんでもよいのである。
レヴィ=ストロース氏は、サルにつづいて、ある神話に登場するコウモリの話を紹介する。
「(料理の火の起源の神話、言葉の起源の神話)実はこれらすべての神話の背後には自然/文化の対立が隠されているのである。それはちょうどコウモリの登場する神話(M40、M43)について指摘したのと同じである。コウモリは自然と文化の根本的分離を体現している。」
神話は多くの場合、人間が生きる世界に経験的に存在するあれこれの事物や事柄のはじまり・起源・由来を語る。例えば、生と死の区別のはじまり、男女のちがいのはじまり、料理の火のはじまり、装飾品や衣服の始まり、栽培の始まり、王の始まり、あれこれの事物や事柄が未だなかったところから生じてくることになった経緯を語る。王でも栽培植物でも料理の火でも、それらの事柄がそれらではない事柄から分離される様子。それを神話は二項対立関係が両極に分離したり結合したり、二極の距離が伸び縮みするプロセスとして語る。
この分離と結合の伸縮脈動そのものを体現するのが、両義的な媒介項である。
コウモリは「自然と文化の根本的分離を体現」する両義的媒介項の位置を占めうる。コウモリが登場する神話を見てみよう。
壁画が描かれ糞が堆積したコウモリの洞窟
β分離→Γ結合:
ある男が狩の途中で水飲み場にいくと、木の枝に足でぶら下がった”身体は人間であるが翼がありコウモリの足をした生き物”に出会った。
この生き物は木からおり、親愛の情を示そうと男をくすぐった。くすぐられた男は大笑いした。
M40 pp.178-179
”身体は人間であるが翼がありコウモリの足をした生き物”という、まさに人間でもなく動物でもない、人間と動物、文化の担い手としての人間と野生の自然の動物のどちらでもない存在が登場する。このコウモリ人間は、木の上に上がったり地上に降りたりと、空と地上という鋭く対立する両極の間を自在に往来できる。これもまたコウモリ人間の中間性、媒介性を示している。
こういう生き物が、人間の男に接近し、その身体に直接触れる。
人間と動物の接触。これもまた経験的に分離している二極の間を短絡する媒介作用である。
このコウモリ人間に連れられて狩人の男は人間世界を離れ、コウモリ人間の世界へと移動する。人間世界から人間の世界ではない世界への分離が始まる。
β分離→Γ結合→β分離:
この生き物は人間の言葉はしゃべれなかった。
男がこの生き物の洞窟に連れて行かれると、その地面には道具も何もなく、コウモリの糞で覆われていた。一方洞窟の壁は絵と模様で飾られていた。
洞窟の生き物たちは男をくすぐり、笑いすぎた男は気を失った。
その後意識が戻り、男は逃げ出して村に帰った。
M40 pp.178-179
このくだりでいくつかの対立関係が分節する。
言葉を喋れること / 言葉を喋れないこと
地面に道具が置かれている / 地面に道具が置かれていない
地面から排泄物が掃除されている / 地面の排泄物が掃除されていない
壁が絵と模様で飾られている / 壁が絵と模様で飾られていない
|| ||
(文化) / (自然)
ここで改めて、狩人の男はコウモリ人間のくすぐられ(急接近・密着・結合)、そして逃げ出す(分離)。
次に、逃げ出した狩人の男の仲間の人間たちが、コウモリ人間の洞窟に戻ってくる。分離の後の再度の接近(Γ)である。
Γ分離しながらのβ結合:
男の仲間たちは彼が受けた扱いに怒り、懲罰のための遠征を開始した。
コウモリたちが眠っている間に洞窟にある枯葉の堆積を燃やし、煙で燻した。入口は予め塞いでおいた。
M40 pp.178-179
煙は、地上と天空、分離した両極の間を結びつける媒介である。
入口を塞いだ洞窟を燻すことで、コウモリ人間たちは煙に包まれる。中間的であることの象徴である煙と区別できないものにコウモリ人間たちがなる。
しかし、ここからすぐに最後の分離(Δ)が始まる。
Γ結合からのΔ分離:
しかし、天井には穴があり、煙で燻されたコウモリたちは一斉に逃げ出した。そして一匹の子コウモリだけが残され、人間に捕えられた。
人間は子コウモリを村に連れて帰って育てた。
子コウモリは人間のように歩くことを覚えたが、夜になると相変わらず枝にぶら下がって寝たがるので、人間たちは止まり木をつくってやった。しばらくして子コウモリは死んでしまった。
M40 pp.178-179
天井の穴から、コウモリ人間たちは空へと逃げていく。
残されたコウモリ人間の子が人間の村で育てられ、夜はコウモリのようでありながら、昼間は人間「のように」なるが、死んでしまう。
Γ結合からの最終的な分離(Δ)を完了するためには、人間「のような」コウモリ人間や、煙に巻かれたコウモリ人間といった中間的な第三項は排除されなければならないというのが神話論理のアルゴリズムである。
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ここで注意しておきたい。コウモリというものの存在それ自体が端的にその属性として両義的媒介性を備えているというのではない。
ある項が両義的媒介項であるというのは、それが何らかの経験的に対立する二項のあいだで、どちらでもあるようなどちらでもないような位置を占めるが故にである。
ある二項対立関係と、その二項対立関係”の”中間の両義的媒介項は、それぞれ自ずからそれ自体として、自性をもって存在している実体ではない。そういう即自的に自性をもって存在している実体が、二次的に集まって三角関係を構成しているわけではない。対立関係にある二項とその中間的両義的媒介項が「それ」であるのは、下図のような分節システムの中で「それとして」はじめて分節されてくるからである。
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この話はさらに続くのであるが、長くなりすぎるので今日はこのあたりにしておこう。
神話のことば、はなしことば
文字は、見ての通り、
- Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ - Δ
という配列である。
それこそ一万字でも、七万字でも、十万字でも、 - Δ - Δ - は一列に並び続ける。私たちは行ったり来たり、前に戻ったり、先に進んだり、チューリングマシンが穿孔紙テープを読むように、文字を追いかけ、探し、その配列を繰り返し繰り返し意識し、記憶することもできる
ところで、ことばを耳で聞く分には
・・・・ - ○ - ○
という感じで、今聞こえたばかりの音と少し前に聞こえた音、いくつかの音だけが印象を残す。
はなしことばを聞くことにおいて、言葉は、私たちにとって、延々と一列に配列された、印刷された本の紙面のような姿では経験されない。
話し言葉は、いわば、Δたちの四項関係のうちのいずれかの二項の関係に、順番にスポットライトを当てていくようなことができる。
神話はこの話し言葉の特長を最大限活用しているともいえよう。
二つのΔ項の関係が、音の印象の上では第三レンマ、つまり二項のどちらでもあると同時に、私たちの脳の中では第三レンマであると同時に、第四レンマ、つまり二項のどちらでもあって、どちらでもない、という姿で、意識の表層に躍り出る。
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ΔとΔの関係を転用して、Γの伸び縮みを、β四つが収縮したり拡大したりする脈動をシミュレートする。
これがはなしことばを聞く経験の古代的な姿であると言えようか。
二つの項だけが見える小さな窓越しに、二重の四項関係、八項関係がくるくると回る姿を見る。
二つの項の組み合わせが、順番に交代しながら現れる。これが神話を語り聞く場面での「ことば」の姿である。
ここにおいて言葉は、二重の四項関係を脈動させること、二重の四項関係を分けつつ結び結びつつ分けること、そのコトの動きが、砂浜に描いた波のあとのように「こと」の「端」としてのΔたちをひそかに四つづつセットにして残していく。
つづく
>>つづきはこちら↓
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参考文献
おまけ
二重の四項関係を、もっと美しく図像化すると、曼荼羅のようになります
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