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シンボルとシグナルの間でハビトゥス(あるいは言語アラヤ識)を建立する 【2021年の読書まとめ】

2021年に印象に残った文献(の一部)をご紹介します。

『梵文和訳 華厳経入法界品』

まずこちら『梵文和訳 華厳経入法界品』三冊である。

梵文から和訳されたものを文庫本で読めるというのであるから、たいへんなことである。

例えば、「深く法性を洞察し、生存の海から超出して、如来の虚空の如き境界にあり、人を束縛する煩悩とその習慣性を抑止し、その拠り所や住居に執着することなく、虚空の如き静寂に住まい…」((上),p.38)であるとか、「牟尼たちは、法界の無区別の極みに安住して、しかも尽きることなき語句でもって法の分析を行う」((上),p.76)であるといった言葉が、全編を通して溢れている。

「無区別の極み」にありながら「しかも」、語句でもって分析を、言語的意味分節を行う。しかもこの言語的意味分節は「尽きることはない」という。分かれていないけれども分かれつつあり、分かれつつあるけれども分かれておらず、しかし分かれつつある。

こうしたことが生起している華厳法界を、生きた人がその身体でもって(身体に変換して)「見」たり、「聞」いたりする可能性をもまた、言語によって記述しようとする。つまりある意味分節体系を建立しながら、その組み上げられた構造の中に、意味分節システムの「分けつつつなぐ」動きのダイナミックな様を浮かび上がらせる。

これとの関連でいえば次の文献も印象に残るものである。

『大乗起信論』、『空海「秘蔵宝鑰」』、『意識の形而上学』、『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』『空海の言語哲学』『華厳の研究』

まず『大乗起信論』である。

大乗起信論は今年読んだ一冊というか、以前から何度も読んでいるような気がするが、毎度読むつどに違った「読み」を経験できる。その読みの導きの糸はなんと言ってもこちら、井筒俊彦氏の『意識の形而上学』である。

「読む」ということは、”私”という言語的意味分節のシステムの振動と変形のプロセスである。意味分節システムとしての「私」は、日々他の人が言ったり書いたりしている言葉に触れるつど、微妙に変容している。他でもなく本を読むということも、その変容の機会の一つである。

」は言葉の流れに浮かぶ渦や波紋のようなものである。

それは常に「他」によって”作られて”おり、その形は常に変化している。

「私」が変形しているということは、「私」の意味分節システムの「網」が変形しているということであり、網が動けば、ある本からその網に引っかかる言葉の連なりもまた、つど変わるというわけである。

他に依って生まれ、形作られ、そして消滅する 「自」は”自性”を持たない自である。そういう自他の区別を区切りつつつなぐ動きもまた、言語によって、私たちの素朴に実在するものをこよなく愛する言語的意味分節システムの表層にその影を浮かび上がらせる。

言語が、矛盾律を解除しようとする姿が、これらの本では次々と列挙されていく。そこで意味分節システムは野生的で呪術的な生のロジックのとしての姿をあらわす。

すべての意味分節分節は仮である。互いに分節区別識別される何か何かは、分かれつつもつながっており、つながりながら分かれている。

大乗起信論から、弘法大師空海、鈴木大拙、井筒俊彦氏の思考まで、これを言語的意味分節の理論として「創造的に読む」ことができたら、人類の知の深淵に触れることもできそうな気配がある。

次に行ってみよう。

『スーフィズムと老荘思想』、『意識と本質』、『今日のアニミズム』、『世界は「関係」でできている』、『言語と呪術』、『計算する生命』

言語的意味分節といえば、やはり井筒俊彦氏である。

井筒氏の『意識と本質』に勝るとも劣らないエキサイティングな一冊が『スーフィズムと老荘思想』である。

イスラムと老荘では思考が展開された場所も時間も完全に別々だろう、と、思われるところであるが、そうした素朴な時空の分節をも超えてしまうのが井筒氏の思考である。

人間の頭脳の神経ネットワークと、言語というオートポイエティックに自己組織化するシンボル変換システムがハイブリッドになるところで、洋の東西を越え、時代を超えて、人類に可能な「論理」の極限に迫る可能性が開かれる。

この筋で言うと、今年のベスト一冊と言えそうなのが『今日のアニミズム』である。

この本に収められた清水高志氏の「三種類の二項対立」、「トライコトミー」の議論は、今日の人類にとって可能な言語的意味分節システムを発生させるアルゴリズムのようなものを、一挙に取り出してきたように読める。

上記の記事で少し触れたが、もっとしっかり読んで、また別の記事でご紹介したいと思う。

この話に通じる一冊として、物理学者のカルロ・ロヴェッリ氏の『世界は「関係」でできている』がある。

仏教や人類学と量子力学は全く違うものだろう?!などと決めてかかることもできるが、決めてかからないこともできる。

人類学も量子力学も、そして仏教も、いずれも問題は「記述」である。

ある何かを別の何かとして記述する。

この記述するということが、素朴に実在する何かを、もう一つ別に実在する素朴な何かに複写するということでは全くなくて、一つのシステム、意味分節システムを発生させること=呪術的に立ち上げることである、と言う恐るべき話である。ロヴェッリ氏が「関係論」と呼ぶ理論物理学の「記述」もまたそうした事柄と言えそうなのである。

詳しくは下記の記事に書いていますので、ご参考にどうぞ。

また、これは「人間が現実を計算しているだけでなく、しばしば計算こそが、新たな現実を立ち上げてきたのだ」と書く森田真生氏の『計算する生命』にも繋がる話である。

『食う、食われる、食いあう マルチスピーシーズ民族誌の思考』、『ソウル・ハンターズ』、『日常的実践のポイエティーク』、『テスカトリポカ』

ところで、意味分節、言語的意味分節などと言うのは、決して高尚な、一般人を寄せ付けない理屈の世界の代物ではない

意味分節はいつでもどこでも私たち一人一人、小さな子どもの世界でも、今まさに動いている、日常の話である。

この辺りのことは最近の人類学の探求を通じて、深く知ることができる。

意味ということ、意味づけるということは、学問や理論とは無関係に、一人一人のひとにとって極めて切実な、意識ある全ての瞬間の大事件である。

こうしたことを考えさせられる今年の一冊に、佐藤究氏の『テスカトリポカ』がある。意味分節システムを成す「シンボル」たちが生々しい肉でもあることを思い出させる、たいへんな一冊である。

またこちら、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』もまたじっくりと読みたい一冊である。

意味分節システムが「野生の思考」であることを思い出させてくれるのは、やはりクロード・レヴィ=ストロース氏である。

『遠近の回想』

私たち人類の意味分節は、例えば、きれいと汚い、明るいと暗い、のように動物的な感覚レベルの分節=対立関係の建立から始まる。

そこに遠いご先祖たちから受け継いだ「言葉」という多数のシンボルが分かれつつ結びついた分節の網のようなものを放り込んで、私たちは意識あるかぎりあらゆることを意味づけ、意味を見出し、記述し、理解し、納得しようとする。

「私」ということの意味、「私とは何か」という問いに応答した「私とはAであり、私とはBであり…」という類の「私」の言い換え先のレパートリーもまた、こうした分け方によっていつも同一の形に区切り出されるパターンである。

さらには「生」の意味、「死」の意味さえもである。

この辺りに触れているのが、次の三冊であるといえるかもしれない。

『高丘親王航海記』、『無と意識の人類史』、『魚社会』

生と死、そして動物と人間、個の生命と生命それ自体、といったことが分かれつつ繋がる蠢き。『魚社会』と『高丘親王航海記』は人間の意識の深層と表層の中間領域に発生させようとする。特に『魚社会』のpanpanya氏の描く「」は、まさに線、動きつつ、生きながら、一瞬その影を固めては、またどこかに消えていくような「線」をそのまま捉えたような線である。

ちなみに、「線」と言えば、こちらもある。

『ラインズ 線の文化史』

線は分ける動きとして私たちの意識に顕れる事柄であり、同時につなぐ動きとしても私たちの意識の表に顕れる。ありとあらゆるところに線が蠢き、分けつつつなぐ動きを展開している。

物質や生命や生物の姿では、この分けつつつなぐ動きは、似たようなパターンを反復する。

確率の分布を、高頻度と低頻度を分ける動きが際立つのである。

* * *

これが人間の言葉、言語的意味分節になると、途端に、あらゆるシンボルが他のあらゆるシンボルをシンボライズするという関係が花開く。

ここで、どう分けても良いし、どう繋いでも良い、という大変にダイナミックなシステムが動き出す。

もちろん、そうは言っても常識というものがある。分け方、繋ぎ方に、高頻度のパターンと低頻度のパターンを分けようとする傾向がここにも現れる。意味分節システムにコードが発生するのである。

『大図鑑 コードの秘密』、『文化がヒトを進化させた』

そうしたところで人類は、コードを固く樹立しつつ、同時に柔らかく動かしておくという、両義的で矛盾した、真逆のことを一つにする知性を生きざるを得ない事になる。

この辺りの参考になりそうなのが中沢新一氏の『レンマ学』や『アースダイバー神社編』である。

『アースダイバー神社編』

コードの”中”から認識や思考を始めるとき、しばしばひとはコードの一貫性と安定性を大前提に置いてしまうことがある。

そこでは「分けつつつなぐ」動きの「動き」が止まってしまって、あたかも静的に固着した分節体系が”もの”として厳然と「ある」ような感じになる。

そういう時に、何と何を分けても良いのだ、何と何を繋いでも良いのだ、しかしけれども、自分は、自分たちの部族は、この分節システムを選ぶのだ、と、改めて分けつつつなぐ動きを動かす

そうして自分たちが分けたりつないだりしているところで、かろうじて自分たちにとっての世界が、ある一つの世界に「なって」いるのだということを自覚する。世界は世界を世界として記述する意味分節システムの中に描き出されている何かなのだ、と思う。

この分けつつつなぐ動きが動いていることを自覚するためのほとんど唯一の方法が、分けるけれど分けない、 つかず離れの中間状態、曖昧で意味が一義的に決まらない宙ぶらりんの状態に耐え、待つことである。

そういう宙ぶらりんの時空以前の時空を、いかにして日常の表層のコードの下や上に拓くことができるかが、一人ひとりの人類にとって隠された大問題なのである。

神話を語る古代人でも、AIに語りかける現代人でも、人間は生きている限り、物事をはっきり分けざるを得ない部分がある。何から何まで同じで、区別はありません、などとは言っていられないのが人間の身体である。人間は生命の一種として、生と死を分け、食べられるものと食べられないものを分け、自分と自分でないものを分け、言語云々以前で個別的な身体を成立させるために色々とあれこれを分けている。分けないことには始まらない。

人間と動物も分ける。天と地も分ける。昼と夜も分ける。大人と子供を分ける。 分けるということは生きている限りやらざるを得ない。

『言語の起源』、『アスディワル武勲詩』、『大山猫の物語』、『列島祝祭論』、『言語と呪術』

しかし、そうであるにも関わらず、その分ける分け方は、あくまでも多数の分け方のうちの一つなのだということを、あえていう。

特に言葉の世界、意識の領域に関して、人間がシンボルの組み方の中で仮に分別しているのであって、それは組み替えの可能性に開かれているのだ、と言うことをあえて言い続ける。

比喩的な物言いや、詩や、神話は、まさにそういうことを言わんとしている。

例えば、神話を語る時間において、部族の長老たちは、日常常識的に分かれているものが実は昔は一つだったのだ、といったことを語る。分かれる前から始まって、そこに分離が生じて、そして遠く離れてしうものの、結局付かず離れず適度に調停された関係に落ち着く。

人間と動物が別々に分かれる前とか、そんなこと常識的には現実的には素朴実在論的には絶対にないだろうという中間状態を、わざと言葉の中に、意味分節システムの中に、シンボルとシンボルの関係の中に作り出す

それによって我々が聞いたり言ったりしていることが、素朴実在論的に元々互いに分かれて「ある」のではなくて、あくまでも「分ける」ことによって区切り出されているのだ、ということを思い知らせる。

私たちの日常の常識、表層の意識に現れる、あらゆる何かと何かの対立関係は、そっくりそのままシンボルとシンボルの分け方組み合わせ方の関係なのだ、ということに気付かせる。

この気づきのために、あえて「すべてが同じ」というような言い方をするわけである。そしてそこからすぐに、「多」へと分かれていく、分節システムの「発生」をいう。

この辺りの参考になるのは、去年から今年にかけて何度も読んでいる安藤礼二氏の『列島祝祭論』や『熊楠』である。

「芸能の民も、社会の外側に存在し、社会を根底から覆してしまう激烈な力に直接触れ、そうした力を自らのうちに宿す。彼ら、彼女らはともに社会の内側からは追放され、社会の外側、あるいは内と外の「境界」を生きなければならなかった。「境界」を生きる者たちの身体を媒介として、外と内、死と生、非日常と日常、貴と賤、神仏と人間、王と乞食が一つに結ばれあう差異が際立てられたまま、合一する。」

安藤礼二著『列島祝祭論』p.336

これは『列島祝祭論』の最後の方、後醍醐天皇に関して書かれた一節である。

惰性的に固まった社会の表層の分節体系を、「差異」を際立たせたまま「合一」する。そしてそこから、新たな意味分節システムの構築をスタートする、という話である。

ある日常、私たちがなんとなく、周囲の他者たちとの間で、同じように物事を眺め、記述し、呼吸しているように感じられる世界というものは、私たちが互いに似たような(言語的)意味分節システムを生きているからである。

細かく見れば、頭の神経のつながり方も、子供の頃から注ぎ込まれた言葉たちの組み合わせ方も、一人一人の人によって違いがある。しかし、その違いを超えて、なんとなく「みんな」が同じような分節をするようになる背景には、多数の人の複数の意味分節システムをいわば「共振」させる、コミュニケーション・メディア技術が効いている。

音声に、さまざまな物質的シンボル、そして書き文字。
印刷技術=複製技術、本に、辞書に、紙幣に、時計に新聞に、教科書。
電気通信に、電話に、ラジオ、テレビといったマスメディア。
そして、インターネット。

唯一の正しさを主張するかのようなコードが、他のコードの可能性を圧倒しつつ、意識の表層にいつもいつも繰り返し注ぎ込まれる。特にこの100年くらいの複製技術と「マス」メディアの技術は、高速かつリアルタイムに、多数の個人の意味分節システムを共振させ、共鳴させ、同期してきた

そこに不意に登場したインターネットでは、文字も映像も画像も音声も、「マルチ」に絡まり合いながら、複雑な流れとなって私たちの意識という多層構造の意味分節システムを揺さぶり続け、時に押し流そうとする。

そこで意味は、意味分節システムは、不穏で生々しく、その破壊と創造の力を私たちの意識の表層にも見せつけ始めている。

一面では分けつつつなぐ動きは、表層の安定した体系を揺るがしたり、押し流したりしている、というようにも見える。また別の面では、分けつつつなぐ動きから無限に多様な構造が創発するようにも見える。多数の「大衆」なり「国民」なりの表層意識を束の間同期させてきたコミュニケーションシステムが、再び無数のミクロな意味分節システム間の差異の中に溶け出していく。

もちろん、意味分節システムのシンボル体系を作り出す動きも壊す動きも、そのどちらも、数万年に渡る人類の神経とシンボルの体系の絡みが見せる、一瞬の影のようなものなのかもしれない。

読書をすること、本を読むことによって、まさにその影がゆらめき、動く瞬間を、幻視することができるのである

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