W・パウリ「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」における四数性と、思考の根源を思考すること ーーユングとパウリの共著 『自然現象と心の構造』より
深層心理学で知られるカール・グスタフ・ユングと、「パウリの排他律」で知られる物理学者ヴォルフガング・パウリとの共著『自然現象と心の構造』という本がある。
この本の終盤、「付録III」、236ページに次のような図が掲載されている(図3 スコトゥス・エリウゲナの『自然の分類について』において考えられた四元性)。
ここでは、
1: 造る(能動)/造られる(受動)
2: する/しない
この二つの二項対立を組み合わせて、
β1「造ることを ー する」もの (造るもの)
β2「造ることを ー しない」もの (造らないもの)
β3「造られることを ー する」もの(造られるもの)
β4「造られることを ー しない」もの(造られないもの)
という四つの項を分節している。
即ち「能動/受動」と「する/しない」。
この二つの二項対立の対立軸を十字に交差させて、次の配置を得る。
「能動(造る)」ーaー「する」
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c d
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「しない」 ーbー「受動(造られる)」
この四角の、cとdを指でつまんで、横に長く伸ばすと、「能動」と「しない」が結合し重なり合って、「β4「造られることを ー しない」もの(造られないもの)」項が析出される。同時に反対側には、「受動」と「する」が重なり合って「受動ーする(β3 造られることを ー する)(造られるもの)」が析出される。
またこの四角のaとbをつまんで、縦に長く伸ばすと、「能動」と「する」が結合して「β1 造ることを ー する(造られるもの)」が析出され、「受動」と「しない」が結合して「β2「造ることを ー しない」もの (造らないもの)」が析出される。
こうして上の図のような八項関係が出来上がる。
*
そして今度は、β1とβ4が重なり合うように、「能動」と「受動」とを指でつまで長く引っ張ることができる(能動と受動の過度な分離)。
そうすると、この図の左上、即ちβ1とβ4が重なり合うところに、「Δ1 造るが、造られない 自然」ということが出てくる。ところがこのポジションはもともと「能動」があったところである。この根源的な分節、根源的な二項対立の一方の極である「能動(造る)」と異なることがない「造るが、造られない自然」というのは、エリウゲナによれば、「神」である。神は創造するが、創造”される”ものではない。
また同時に、この「神」の対極に、β3とβ2とが重なって「Δ3 造られるが、造らない自然」というのが出てくる。これは「人間世界」であるという。これはもともと「受動」があったところである。
+
次に、βをつまんで引っ張る向きを変えてみる。β1とβ3が重なり合うように、「する」と「しない」とを指でつまで長く引っ張ることができる(するとしないの過度な分離)。
図の右上、β1とβ3が重なり合い、「Δ2 造り・造られる自然」というのが出てくる。これはエリウゲナによれば「善、真理、永遠、イデア、存在」といったことである。造られるものであると同時に、造ることもする。これはもともと「する」と書いてあったポジションである。
この時、同時に、反対側、図の左下のβ2とβ4が重なり合うところには、「Δ4 造りもせず、造られもしない」という、”Aでもなく非Aでもない”の第四レンマで言語化される事柄が登場する。これはエリウゲナによれば「神と一つになる被造物の完成状態」である。これはもともと「しない」があったところである(絶-対無・絶対無分節)。
+ *
「神」「存在」「人間世界(現世)」「神と合一する完全なる被造物」といった事柄は、それらはしばしば「存在とは何か」とか「神とは」といった具合に、「Xとは何か?」〜「XとはAである」式の置き換えの連鎖を”そこから”生じさせる起点になる言葉たちである。そうした言葉たちは、端的にそれ自体として「すでにある」ものを指していると考えられがちである。
しかし、ここでは、そうした言葉たちは、端的にそれ自体として「すでにある」ものとはみなされないで、対立関係の対立関係を縦方向に伸ばしたり、横方向に伸ばしたり、陶土や餅をこねるような具合にして四極のうちのいずれか二つの”極”ひとつに重ね合わせたところに析出される事柄、として考えようとしている。
「神」や「存在」、そして「完全な被造物」といったことを発生させる手前で伸び縮みする二項対立の対立関係が、下記四つのβを四極とするものであり、
β1「造ることを ー する」もの (造るもの)
β2「造ることを ー しない」もの (造らないもの)
β3「造られることを ー する」もの(造られるもの)
β4「造られることを ー しない」もの(造られないもの)
そしてこれら四つのβもまた、
能動
受動
する
しない
という四つを極とする対立関係の対立関係が伸び縮みすることによって区切りされて・析出されていたのであった。
対立関係の対立関係を次々と置き換えていく。
ここで対立しあう諸項のいずれもが、それ自体として端的に「ある」と言えるものではなく(「ある/ない」の分別もまた、これらの二項対立たちのうちのひとつなのである)、その項がその項であるのは、その項を二項関係のうちの一方の極として区切り出している別の二つの二項対立関係をくっつけたりはなしたりする動きが動いている限りにおいてである。そしてこの別の二項対立関係もまた、所与の出来合いの項が二つ、二次的にあつまった関係ではなく、これまたさらに別の二項対立関係を分離したり結合したり=分離するでもなく分離しないでもない、振れ幅を広げたり狭めたりする動きを通じて、析出されてくる。
能動/受動、する/しない、といった二項対立関係をめぐっては、次の二つの見方がある。
第一に、二項対立関係を”もともとそれぞれ別々に孤立して存在していた項が、あとから二次的に、たまたま何かの経緯で二つ集まってペアになった”ものと考えることである。この項がそれぞれそれ自体としてあらかじめ「ある」と考える立場を実体論と呼ぶこともある。
第二に、二項対立関係じたいが、その関係を通じて、対立する二項を作り出す、区切り出す、分節する、と考えること。
上の図にはこの後者の見方がある。
いかなる項といえども、二項対立関係にある一方の項であり、二項対立関係が成立する以前に、項だけで、関係から離れて、転がっているものではない。
そしてこの二項対立関係が二項対立関係として、対立しながらも関係する、分離しながらもセットとして結合しているという事態が開けてくるために、別の二項対立が伸び縮みしている必要があり、この二項対立の伸び縮みのためには、さらにまた別の二項対立が伸び縮みしており、しかし、この二項対立の伸び縮みの遡りは線形にどこか遠くへと、一直線に連鎖していくものではなく、最小構成で対立関係の対立関係の対立関係として、八項からなる関係で閉じているのである。
もちろん、閉じている/開いている、ループの始点/終点、というのも分別なのである。そのように分けて考えれば分かれるが、分けなくても良い。
パウリはこの付録IIIの最後を、「神」と「神と一つになる被造物の完成状態」とが「同一化し」て、「神と一つになる被造物の完成状態」は「神」において「消失する」というエリウゲナの言葉でもって閉じている。
神と一つになる被造物の完成状態」は「しない」があったところである。しないということは、しない、ほんとうになにもしない。
分別もしなければ、分別しないこともしない。
絶-対の無、絶対無分節である。
ある/ない、神/神でないもの、ありとあらゆる二項対立はここで”あるようなないような”になる。
そこでは、四つのΔも四つのβも、分かれつつも一つ、区別されながら、区別がない。
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パウリ、このエリウゲナの「四元説」について「なかなか興味深い」と書いており、『自然現象と心の構造』の最後に、わざわざ「付録」として紹介しているのである。
このこと自体が非常に興味深い。パウリはこの四項関係に「ここになにかある」と直感しているにちがいない(根拠なく断言)。
精神と身体、そのような二項対立関係を、第三の両義的な項が仲介する、という考え方が可能になるためには、この三つの項が、まずそれぞれ他ではないこととして他から区別されていなければならず、しかも、ある対立の中では区別されながらも、別の対立軸上の項とはひとつに結合することができ、そうして対立しながら、分離しながらも結合することができ、異なりながらも同じになることができる、というようでなければならない。
三項関係が、ややもすると対立する二項とそれを媒介する第三項、その三つの項を、即自的に自存する実体のように見せてしまう場合があるのに対して、対立関係の対立関係の対立関係としての四項関係の多重変換(最小構成で八項関係)を考えることで、ありとあらゆる項を固めて重くしてしまうことがない思考が可能になる。
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パウリは上に引用した文の直前で、プラトン主義について、次のように書いている。
この「宇宙的な循環」、項から項への置き換えは、直線にどこまでも伸びていく(開いている)のではなく、ぐるりと巡って閉じる。この閉ループは最小構成で八つの項があれば、対立関係の対立関係の対立関係を組めるような八つの項があれば、閉じることができる。そうして「循環の最初の段階は、最後の段階と同一」ということになる。
こういう循環(八項関係)と照らし合わせてみると、三項関係というのは、八項関係(二重の四項関係)の”ひとつの辺”に注目したものだということも言えそうである。
この点でも、三位一体的な関係を言語の論理で解きほぐしていったエリウゲナが、対立関係の対立関係の対立関係である八項関係にたどり着いていることは非常におもしろいし、パウリがそこに注目していることも、非常におもしろい。まさしくここに本書のタイトルにもなっている”心の構造”のもっともシンプルなモデルがある。
パウリは『自然現象と心の構造』の付録II、224ページに次のように書いている。
「四」が(あるいは四を四たらしめる八項関係として浮かび上がる脈動が)、三位一体を包み込んでいる。パウリは次のようにも書く。
四つに分かれながらも、その分かれた後の四極が、互いに関係しあい、変換しうる関係にあること。人間が「自然」ということを観察し、記述し、モデル化しようとするときには、古来から四極への分離とその関係(変換関係)が言語化される。もちろん「自然」に限らず「精神」について記述し、モデル化しようとする時にも同じである。何であれ、ある何か、あるx、あるΔを、他のΔに”言い換える”ことをする、そのやり方、そこで行われていること、そこで起こっていることをこだわりなく観察すると、四つに分かれながらも繋がり、繋がりながらも分かれている波紋のようなこと、パウリの上の言葉でいえば「度合い」のちがい、度合いの差のようなことが言葉の線形配列の上に浮かび上がってくる。
あるひとつの二項対立関係、分離しながらも真逆のものであるという点でひとつに結びついているΔ1とΔ2の関係と(Δ1 =/=Δ2)、その二極のあいだを媒介する第三項βaがあるとする。
このときΔ1とは、”Δ1ではないものーではないもの”である。
つまり、Δ1がΔ1として、Δ2との関係のなかに登場するためには、その手前で、「非Δ1」との対立関係において分離されつつ結合されていなければならない。
Δ2についても事情は同じである。Δ2がΔ1との関係の中に登場するためには、その手前で「非Δ2」と分離されつつ結合する対立関係を組んでいないといけない。
また、Δ1とΔ2のあいだに収まるβaも、その経験的で感覚的な姿でもってイメージされる限り非-βaとの対立関係の一方の極に区切り出される限りで、非-非-βaとしてあらねばならない。
上のパウリからの引用によれば、その四のもっとも深いところ、いや、シンプルなところは、発生能力、自然成長、成熟形、交合の分離と結合の分離と結合である。この四つも互いに分かれつつも繋がっている。
発生能力:未だ発生していないが発生しうる可能性に満ちていることと。
自然成長:実際に発生が始まって、変化し続けること。
成熟形:変化が一段落し、個として定まること。
交合:個として定まったところが自他境界未分へと開かれ、「発生能力」が前面化する。
この四つは、絶対の未分節でありながら分節しようとする傾向のようなことに満ちたところから、実際に分化・分節始まり、形態が変容し続け、やがて一定の形を反復的に再生産しつづけるような、パターンを示す分節を繰り返すようになる。そうして自他の境界がはっきりと定まったかに見えた個(=ある一定の分節のもつれの再生産される様式)同士が「交合」し、自他の境界を閉じつつ開かれ、そこにまた、新たな発生能力に充満した「卵」のようなことが生じてくる。
このプロセスをまとめて言語化すれば、分離と結合を分離するでもなく結合するでもない、ということになろうか。
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W・パウリ「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」
分離と結合の分離と結合ということについて、パウリ自身が『自然現象と心の構造』に書ているところを見てみよう。この本のパウリの執筆パートの中核となる「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」である。
この論文はタイトルからしてとてもおもしろい。
天体運動の「ケプラーの法則」を発見したケプラーが影響を受けていた「元型的観念」について論じよう、というのである。
ケプラーの法則は、”物体の運動は数式で記述することができ、この数式に任意の変数を代入すれば、未来のある時点での物体の位置を正確に予測することができるのだ”という確信をもたらし、のちの自然科学(ある条件のもとで、物体はどのようになるのか、予測することができる)、ひいては”機械でモノを動かしましょう”という産業革命にも連なる人類史上重大なインパクトを持った科学理論である。
そのケプラーの思考が、実は、一見するといわゆる「科学」とは程遠い、いや、程遠いどころか、真逆に対立する「迷信」のように今日では思われている錬金術の神話的思考と異なることのない「元型的観念」によって影響をうけていた、いや、ほとんど直接に導かれていた、というのがここでのパウリの議論である。
* *
パウリは「自然科学のなかの概念や理論」の「起源」に、「意識下において起る過程」があると考える。
この意識下の過程は「意識内容が理性的に定式化されるよりもはるかに前」に動いている(p.153)。この「先験」的な過程を、「意識的な精神活動」の中に捉えることはできず、また「理性的に定式化のできる明確な観念と直接結びつけたりしてはならない」とパウリは念を押す(p.154)。
そしてユングの「元型」こそ、この概念は理論の芽としての最初の分節をそこから発生させる「意識下において起る過程」の動き、その動きの影、その影が、意識の一番底に投げかける影なのである。
元型というアイディアを通じて、この通常は理性的、意識的に定式化することができない「意識化の過程」で生じていることを、意識の表層に浮かび上がらせることができるのではないか、と考えたわけである。
「四」であること、いや、「四」になること
では、この意識下の過程とはどういうプロセスとして意識の表層の記述へと映し出すことができるのだろうか。
ひとつには、それがすなわち、「四」への分節、二項対立関係の対立関係としての「四」が、絶-対無分節から、分離しつつ繋がり繋がりつつ分離する、”分離と結合の分離と結合”とでも呼びうる様な過程である。
胎蔵曼荼羅の中台八葉院のような八項関係、二重の四項関係で描かれるモデルは、この”分離と結合が分離するでもなく結合するでもなく”の振れ幅を描く動きを、スナップショットで静止画にしたようなものである。
この「意識下の過程」をモデル化する(つまり表層の理性的な意識にとっても「分かる」ものに変換する)方法は、対立の対立、四項関係に基づくマンダラだけに限られるものではない。
他には、たとえば「三」項の関係として描かれる意識化の過程、元型の見取り図もある。
二項対立関係と媒介項
人間の日常の意識の明晰性をつくりだす分別は、何かと何かの二項対立を切り分ける。この切り分けられた両極の間に、分離しながらも結合するという関係を考える必要がある場合に、人類の深い思考や、哲学がはじまる。
精神 / 物質
主体 / 客体
生 / 死
存在 / 生成
こうした対立の二極が、別々でありながら、相互に関連する、影響しあう、一方が他方に映る・移る・憑る・感染る・・・といったことを考えようという時に、橋渡し役となる第三項を持ってくる、ということがある。すなわち、第三項は、生と死、存在と生成、精神と物質、その両方に入りこみ、両方と自在に結びつき、また両方の間を行き来することができる、と。
そしてこの三項関係としての元型から諸概念の関係を発生させたのがケプラーである、とパウリいう。
パウリは、ケプラーが直観していたであろうこの「意識下の過程」の表層意識への写像された姿をボール状のものとみる。それは(1)球体の中心と、(2)球体の表面(および表面上の「点」としての様々な存在者、人間)、そしてこの球体の(3)一定の半径、つまりボールの中心と表面との関係からなる。
(1)球体の中心 / (2)球体の表面(の無数の点)
↑
(3)一定の半径
この(1)が神の領域であり、(2)が人間の経験的感覚的な現実である。世界は(2)だけで単立自足しているものではなく、(1)から照射・放射される(3)の影響で、あれこれの形をとって現れている。(2)球体表面上の無数の点のことをケプラーは「個別的な霊」とも書くが、それと、(1)との関係についてはパウリの次の一文がわかりやすい。
これについてはケプラーによる次の一文も引用されている。
(3)球体表面上の無数の点である私たちは、知らず知らずのうちに(3)の力でもって(1)とつながっており、触発されている、といったことである。
これはつまり、目に見える現実である(2)の向こうに、目に見えない本当の真実(1)があるのだ、という考えにもつながる。
三?四?
ここでパウリは、とてもおもしろいことを書いている。
ケプラーの科学的思考を触発した「元型」が「四」ではなく「三」であったことが、のちの科学理論の発展、ひいては現代人類のものの考え方を大きく左右したのではないか、と。
ケプラーの三項関係、「中心」と「周辺部」と、その間を結ぶ半径
「直線運動」は、静的な・止まった・時間軸上での変化を考慮しないものであるという。
「中心」はそれ自体として定まっており、「直線運動」つまり球体の半径もまた一定に定められており、この半径が一定であることによって、「周辺部」、球体の表面の値もまた、自動的に、あらかじめ、すでに定まっており、それ以上変化することがないように固まっている。
ここに「時間」という、変化、変容、組み替えは紛れ込みようがない(時間的変化を生み出す可能性がある運動性は、半径を一定にするという直線運動に吸い込まれているのだろう)。
上の引用につづけて、パウリは、ケプラーに由来する運動法則からなる「物理的世界では本来定義によってすべての事象が自動的に生起する」と書く。
ここで気をつけて読んでおきたいところは、ここでのパウリは、ユングの「マンダラ」を、静的な球体、ケプラーの球体(中心と表面と半径の三位一体)と同じものであると書いているところである。
◇
マンダラというのは、「三」というよりもむしろ、「四」の表現である。
しかも、曼荼羅は静的な表現というよりも「四」ということが、対立の対立として分けつつつながるに至る動き、動態を表現している。つまり二つの二項対立関係を分離しつつも結合する、引き離して距離を開いたり、一点に結合して距離を縮めたりする、振幅を描く振動、脈動、動きの多様な変化、ダイナミズムを人間の表層意識に”分らせる”ために描かれるのがマンダラである、と考えることもできる。
曼荼羅は、分離と結合の二極を分離するでもなく結合するでもないゆらぎのようなことを、人間の視覚、眼識向けに描き出したものである。
このあたりの話は、弘法大師空海の『吽字義』に詳しいので、ご興味ある方は参照されることをお勧めします。
*
このケプラーのボール状の三項関係(三位一体)としての元型を批判したのが、医師にして錬金術家のロバート・フラッドである。
このフラッドによるケプラー批判にパウリは注目する。
ケプラーの「三」に対して、フラッドは「四」で考える。
フラッドとケプラーの「心理的な差異」。
「三」にハッとするか、「四」にハッとするか。
この両者の心理的な差異、意識下の元型の脈動が、意識の表層の一番底に投げかける影のカタチのちがいについて、パウリは次の様に書く。
二つの精神の型の区別。
ケプラーによれば第一は「部分どうしの間の定量的な関係を本質的なものと考える態度」であり、第二は「全体の定性的な不可分性を本質的なものと考える態度」である(p.205)。
前者では「美とは部分と部分の間の正しい整合であり、また部分と全体の間の正しい整合である」と考えられ、後者では「部分には言及せず、美は物質的な現象を通して輝く「一つ」の永遠の輝き」であるということになる。
第一、はっきりと区別可能な個々のパーツや部分を精密に並べて組み合わせることで、世界の秩序(コスモス)が成り立つと考えるか。
第二、世界はもともと定量的に分別できない”無量”の「不可分性」としてある、と考えるか(こちらの場合、パーツに分けることはむしろ誤りのもとである)。
ケプラーは第一の立場であり、フラッドは第二の立場である。
ここでパウリは次の様に論じる。
そしてパウリは二〇世紀の量子物理学の「観測による現象に対する干渉」の発見を経て、ケプラーとフラッドの二つの態度、「三的」な部分の組み合わせを探る思考様式と、「四的」な絶対無分節からの分節を観じる思考様式とが橋渡しされ、近づき、総合される可能性が高まりつつある、とする(p.207)。
二項対立をもってきて、そのどちらの一方の極を選ぶべきなのか?と問う。
A / 非A
Aを選ぶのか?
非Aを選ぶのか??
どちらを選ぶのが「正しい」のか???
正しい / 正しくない
正しい方を選ばなければならない。
正しくない方を選んではいけない。
・・どちらかの極を選ばなければならず、どちらかの極を選んではいけないと分別する。このようなものの考え方はどちらをどう選ぶにせよ、対立が、二項対立ということそれ自体が決して消滅することがないということに直面する都度、貪りや、怒りや、執着を生じて止まることがない。
大切なことは、分別をしないことである。
いや、「しない」という、「する/しない」の分別を持ち込む様な言い方は控えよう。分別をするでもなく分別をしないでもない、というのが妥当である。この点で、パウリによる次の一節もおもしろい。
主観 / 対象
認識するもの / 認識されるもの
この二項対立は西洋の近代の思想にとっては、最重要の対立関係である。
この二極の間をどのようにしてつなぐのか、つなぎうるのか、あるいは、主観の極と対象の極、”ほんとうに存在するのはどちらか”といったことを問い、その答えを仮設することが西洋の近代の哲学の歴史であった。
これに対して素粒子物理学は、主観と対象、観察者と観察対象の関係を、”もともと別々に分離していた二極のあいだに、どうやってつながりを想定するのか”といった問題設定から引き剥がした。なぜなら素粒子物理学では「観測される系」は観測するということによって「干渉」される。観察者と観察手段と観察することが、「観察される系」の状態を変えていく。
ここでは観察者と観察される対象との関係は、もともと分離していた二つの極の間の二次的事後的な結合ではなくなる。むしろ「観察する」ということを通じて、この「観察する」の主語の位置と、その対象の位置とに、「観察者」と「観察される対象」とが、生じてくる。観察者と観察される対象との対立関係は、そのどちらもが未だ区切り出されていないところから、分節されて、分別されて、あるようになる。
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対立する二極が対立する二極として分離されながらもペアとして結合し、ひとつに関係しつつも真逆に反発する、というこの分離でもなく結合でもない事態からの仮の分離・分節・分別・区別の試行の可能性を試す。そのような思考を可能にする「観点」が、私たちのすぐに目の前にすでに隠れているのである。その「観点」は、マンダラ状の波紋として意識の表層の一番底で知覚できるパターンに透かして、その深層へ、深層へ、対立の対立の対立としての八項関係を分けつつつなぐ、分離と結合を分離するでもなく分離しないでもない振れ幅を広げたり狭めたりする目に見えないゆらぎというかふるえというか、なんというか(どう言葉にしたところで、言葉にはならないのであるが、だからといって言葉にしては「いけない」という分別を効かせる必要もない)。
神話論理
さて、この対立関係の対立関係の対立関係、八項関係あら、ありとあらゆる「項」が起源する(他とは異なるものとして分節されてくる)という話。これはレヴィ=ストロース氏が野生の思考の神話論理の姿として浮かび上がらせたものと同じである。
そして先ほどの密教にも、分離と結合を分離するでもなく分離しないでもない、を扱うことができる論理がある。
「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」の最後に、パウリは次の様に書く。
この「象徴(記号)」は、象徴である以上、記号である以上、意味するものと意味されるものとの二項を、別々のものとして分離しつつも同じこととして結合する”非同非異”の第四レンマの論理でもって編まれていくシステムとなる。この分離と結合を分離するでもなく分離しないでもない振動を、視覚(眼識)において、あるいは内的なヴィジョンとしてありありと感覚したものが、八項関係を生じる脈動としての動的なマンダラであり、その瞑想である。
関連文献
ユングのマンダラにご興味がある方には、下記の文献をお勧めします。
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