火中の栗は率先して拾う
これぞ日本人の誇る中抜き業だがその価値は仲裁と身代わりにある
2人以上いればそこには紛争がつきものだ。
人類は言語や文字、イメージを共有できる想像力によって高度な交渉や協力を実現してきた。しかしそれは依然スムーズなものではなく、むしろ関係が深まっていくほどそれらによって仲介できないキャズムが常に発生し続ける。
そうなってしまえば少なくとも当事者同士では解消するすべはない。わたしたちはそれを知っているから、なるべく対立せずに済む道を模索し続ける。
それは当事者以外の仲介役を立てることだ。
仕事において、こと日本のビジネスにおいて、仲介役は大きな利益をもたらす。直接伝えずらいことを代弁し、オブラートに包み、契約を切れば関係ごと切り捨てられる便利な役回り。
ノーサイドなんてできないから身代わりを立てて、傷つかない立ち位置から口を出すだけ。
うまくいったら儲けもの、うまくいかなかったら責任を擦り付けられる便利な存在。現代のビジネスにおける錬金術のような存在。
曰く、利益は最大、リスクは最小。
しかしこの錬金術の優れた点は、誰にでもできるということだ。
サービスマン、コンサルタント、営業、ディレクター、マネージャー、、、表記のされ方は様々だが、本質は似たようなもので、人と人との間に入ることを生業とする。
それほどまでに現代は紛争にあふれているのか?とすら思うが、
事実それほどまでに現代は紛争にあふれている。
モノを作る技術やノウハウがあるのであればそれを売ればいい。しかし誰でも手に職が就くほど簡単ではない。野菜を育てるには土地がいるし、アプリを作るなら複雑なプログラミング言語を習得する必要がある。
しかし仲介業は誰でもできる。紛争している、あるいはこれから紛争になるであろう人たちに声をかけて間に入ればいい。
火中の栗を率先して拾いに行くことだ。
もちろん火中なので少しばかり痛い目を見ることもあるだろうが、野菜やアプリを作るうえでも似たような大変さはあるはずだから大したことではない。時には過度な要求をされたり、嫌われたり、後ろ指をさされることもあるだろう。だがそれは労働の結果であってわたし自身に向けられるものではない。
それだけの価値が仲裁にある。それだけの価値が身代わりにはある。
誰もが悪者にはなりたくない。それはわたしだって同じだ。同じだからこそその価値を信じて仕事に向き合うことができる。
火中の栗を誰かに拾ってほしい。自分がやるより痛くなく、上手な方法で拾ってほしい。
それは誰だって同じだ。それを喜んでやろう。誇りをもってやろう。
わたしの仕事はモノを創り出さなくても、きっと誰かの間に入り、誰かに感謝と喜びをもたらす。それは形がなくても明確な価値である。