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回復するとは、自分を発見することなのかもしれない。

なんて、静かな本なんだろう。
たぶん、騒がしいカフェの一角で読んでいたとしても、その本は周りのすべての音を吸い取ってしまうだろう。
闇、という文字が頭に浮かんだ。
あらゆる音を、閉じ込めてしまう門。
『回復する人間』(ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳 白水社)
は、そういう意味で闇の本だ。
しかし、その闇は黒ではない。
青だ。青の群れ。
光も音も届かない、群青色の海の底。

『回復する人間』には、7つの短篇が収められているのだが、そのいずれの主人公も傷を抱えている。
ガンの再発に怯えていたり、実の姉とのすれ違いに悩んだり、心と身体の性別がずれていたり、事故によって右手が使えなくなった画家だったり・・・。
そんな主人公たちが回復していく様を、精緻に描いている。

傷から回復する過程というと、なんとなく劇的なものを想像してしまうけれど、この作品ではドラマチックなことはほぼ起こらない。
どの短篇も、淡々として、とても静かなのである。
もし、端役でこの作品の世界に放り込まれたら、主人公たちを見てこう思うだろう。
平和そうでいいなあ、幸せそうでいいなあ、と。
一見、穏やかなのだ。彼らは。

彼らは悩みを誰にも打ち明けない。
一人でじっくり、悩みぬく。もがく。
なぜ私は悲しいのか。なぜ私は彼女を許せないのか。
なぜ? どうして? 私という人間はどういう人間なの?
そうやって、なんども自問自答する。
自分の心の内をまさぐって、答えを探そうとする。

内へ内へと潜り込んでいくその過程は、海の底に沈んでいくさまを思い起こさせる。青が濃すぎるせいで、光も音も届かない静寂。
世界から隔絶されているような感覚。
でも、なんだろう。たった一人のその場所は、不思議と落ち着くのだ。
本当の私になれる場所、というか。

ああ、なんだか本を読むことに似ているな、と思う。
私は人に相談をするのが苦手だ。
コミュ障だからというのもあるけれど、なによりもまず悩みを言葉にできないから。
今、私は何をどう感じているのか。 何でモヤモヤしているのか。
自分の中にあるこの感情は一体なんなんだろう。

そういうとき、私は本を読む。
もしくは、日記を書いたりしてみる。
とにかく言葉、この気持ちを具現化するための言葉を探す。
自分の部屋にこもって、ひとり、私自身と対峙する。

自分の底に深く沈み込んで読む本は、余暇として読む時とは別の顔をしている。同じ本でも、いつもは全く気にならなかった言葉が、太字で書かれているかのようにグッと目の前に飛び込んできたりするのだ。

たぶん、読んでいる私が「すっぴん」だからなんだと思う。
自分の底に辿り着くあいだに、私は私を取り巻く世界を全部脱ぎ捨てている。体裁とか、社会性とか、外面とか、そういう仮面を全部そぎ落とした状態。完全な、どすっぴん。
すっぴんの私は滅茶苦茶ピュアなので、言葉の吸収率も高い。
そうやってスポンジのように吸い取った言葉のおかげで、私は自分自身を理解することができるようになる。
私を「発見」するのだ。

『回復する人間』の主人公たちが試みているのも、これなのだ、きっと。
悩みの根源、私の中の本当の気持ち。
それを発見しようとしている。
ひとり、静かに。

私がわかると、悩みの解決法もわかってくる。
あ、私ってこういうことがイヤなんだ。
つまり私にとって大事なのはこういうことね。
ふむふむ、じゃあこうしてみたらいいんじゃないかな。
そうやって、ゆっくり前進していく。

『回復する人間』の主人公たちは、全員がケロッと傷から立ち直るわけではない。幾人かは傷から流れる血を止めることができないまま、生きていく。
それは、諦念なのではなく。
共存。
傷を傷として受け入れて、共に生きていく覚悟。
踏まれた雑草が、時間をかけてむっくりと起き上がるように、彼らは自己対話を繰り返して、少しずつ前を向く。
まるで、何事もなかったかのような静かな顔をして。

人生は、ままならないことばかりだ。
受けたくもない傷を抱えて、途方にくれることだってある。
明日なんてこなくてもいいと、自暴自棄になるときもある。
でも、生きてる。生きていく。
本を読んだり、日記書いたり、歌うたったり、美味しいもの食べたり。
そんなことをして自分の心を伺いながら、なんとか立ち上がる。
たぶん、みんなそうして生きてる。
そう思うと、すべての人が愛おしい。
『回復する人間』は、人間愛を教えてくれた。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。