釣りと現世と魂と
精神世界を旅するようになってから、
様々なものを手放し、身も心も(財布も、)随分軽くなったのは、つい最近の事のように思う。
しかし、「執着は敵」だと解っていても、全てを捨て去れるほどの悟りの境地には程遠い。
むしろ、己の魂をこの星に縛り付けている幾つかの事柄は、凄まじい重力となり、未だそれらに囚われ続けているのが実情だ。
その中の一つが "釣り" である。
ロシア語で言うРыбалкаだ。
釣りはある意味アルコールと同じで、度が過ぎなければ健全な娯楽だと思う。
が、それに人生を支配され、身を持ち崩す人は世界中に無数にいる。
これは決して大袈裟な話ではない。
実際それが原因となり、離婚なんてのはよくあるケースだし、例を挙げたらきりがない。
自分もこれまで何度か足を洗おうと思ったが、それはことごとく失敗に終わり、
今は辛うじて他とのバランスを保っているものの、オークションサイトで竿やリールを暇を見つけては眺めていて、出物があると、金もないのについ落札しそうになるのであぶなっかしい。
釣りと自分との距離感、ある意味でそれが霊性のバロメーターとなっているように常々感じるのだが、そのことについては、また後で詳しく書いてみたい。
しかし、なぜ「釣り」なのか?
人の性癖と同じく、釣りをしない人にとってこれから書く事は、少々理解し難いかもしれないが、この因果について、どうかしばしお付き合い頂きたい。
子供時代
今から40年以上前、まだ子供だった私は広島県の海辺の町に住んでいた。
その港町は、背後が急峻な山々と接していて平地が少なく、遊び場はもっぱら海だった。
小学校低学年の時分には、学校帰りに近くの漁協に立ち寄り、落ちていた釣りばりやテグスを拾い集めて仕掛けを作った。
波打ち際の石を掘り返してエサのゴカイを捕まえ、船着き場で桟橋と船の間から釣り糸を垂らす。
竿も使わない原始的なやり方で、さほど釣れた記憶は無いが、それでも飽きずに通ったのは、漁船の強烈な油の匂いと共に、忘れられない想い出だ。
近所のガソリンスタンドには、大きな水槽があり、近海で捕獲したのだろうか、その中では色々な魚たちが泳いでいた。
時にはワタリガニの脱皮まで観ることができ、海中の、見えない神秘の世界を間近に感じてときめいたりした。
当時、日本の釣り人口は2000万人とも言われ、空前の大ブームとなっていた。
同時期にマンガ誌に連載されていた、矢口高雄氏の「釣りキチ三平」は、そのストーリー性や自然の描写、世界を股にかけた様々な魚たちとの臨場感溢れるファイトシーンなどで大人気となり、子供のみならず多くの大人たちをも魅了していた。
矢口先生の描く世界観は、元々釣り好きだった私にも多大な影響を与えたが、殊に、度々出てくるイワナやヤマメ、ニジマス等の渓流魚たちは、海育ちの自分にとって憧れとなった。
人を寄せ付けない、冷たく清冽な水の流れる谷川、そんな過酷な環境の中で必死に生きる、純粋無垢な川の宝石たち。
大人になったら一人で宝探しの旅に出たいな…
川とは縁遠い漁師町で、そんな空想に耽る日々が続いた。
その後、引っ越しで海辺を離れ、山々に囲まれた地域で暮らすようになると、必然的に淡水の釣りへとシフトしていった。
そして中学一年の頃には、マス釣り場で釣ったニジマスを生かしたまま持ち帰り、あまり人に知られていない秘密の渓流(その地域に渓流魚はいない)へ放流などもするようになった。
※(現在、特定外来生物の生きたままの移動や放流は違法です)
放流ポイントの綿密な河川地図を描いたり、
学校帰りに時間を見つけては、エサとなるハヤ(カワムツ)を捕まえてバケツに入れ、自転車を漕いで通ったりもした。
小さな滝つぼにハヤを投げ入れた瞬間、ニジマスが水面を割って飛び出し、それを飲み込む様には、野生のダイナミックさを感じて興奮したのを、今も鮮明に思い出せる。
まあ、同級生からすれば、かなり変わったヤツに見えたに違いない。
ルアーフィッシングと開高健
中学二年の時に、さらに山間の方へと引っ越し、当時はまだ珍しかったブラックバスを、そこで初めてルアーで釣り上げてからは、キャッチ・アンド・リリースを信条とするスポーツフィッシングに傾倒していった。
ニジマスやブラックバスは、元もと北米から輸入されたものであり、在来種ではない。
ルアー・フライフィッシングも、それに伴って伝わって来きた西洋の釣り(もちろん日本にも"疑似餌"の釣りはある)であり、"外国"が今よりも遠かった当時は、まだ一般的ではなく、欧米に対する憧れ故の"特別感"があった。
中学三年のある日、模擬試験の帰り道で立ち寄った駅近くの書店で、ある一冊の文庫本が、ふと目にとまった。
「フィッシュ・オン」と言う、釣り好きな自分にとってキャッチーなタイトルのその本は、他の様々な小説が並ぶ棚の中で一際浮き上がって見えた。
「釣り雑誌でもなく、何でこんな本が純文学の棚にあるんだろう?」
手にとってページを捲ると、いきなりキングサーモンを釣り上げた写真が現れ、釘付けとなった。
さらにパラパラと捲ると、世界各地の美しい風景や魚たちが、旅情豊かで切れのある、あの独特の文体と共に掲載されていた。
しかも、当時ではまだ珍しかったフルカラーで。
持った瞬間少し重いと感じたのはこのためだった。
私は一目で虜となった。
全く異次元な大人の世界…
自分も何時か、こんな釣りの旅がしてみたい…
これが私の敬愛する芥川賞作家、開高健氏の著書との出会いだった。
「一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。
三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい…
永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」
彼の著書の中に出てくる、ある国の諺だったと思う。
それはずっと心の何処か、潜在意識下で私を捉え、今も支配し続けているように思う。
また、前世からのカルマのため、今生は独身で居られるようにと与えられた、或いは自ら選択したオプションではないか、等と当て所なく考えたりもする。
私は現在、体質の変化でお酒を飲めなくなってしまったし、結婚もしたことがないが、
この3番目は、確かにこれまでずっと心の拠り所となり、アイデンティティの一角ともなってきた。
現状を憂えているわけではいないが、それでも、順序を間違えて、釣りが真っ先に来てしまったのは幸か不幸か?
自問自答、答えはまだ出ていない。
私の釣り好きは、もとよりアル中親父の影響であり、それに関して当人は寛容だった。
三十数年前、高一の夏休みに親父が見つけて来た土木のアルバイトにたたき込まれ、脱水症状で倒れそうになりながら稼いだお金で買ったのは、当時は高嶺の花だった、スウェーデンのABU(アブ)社製、最新鋭のリールだ。
それは「フィッシュ・オン」の中で、開高健氏がABU社の製品をべた褒めしていたのも大きく影響している。
生涯手放すことはないであろう、想い出の宝物だ。
残りのお金で買ったのは、これまた当時は高額だった90センチの水槽で、住んでいた市営の長屋の水道が井戸水だったこともあり、冬には寒い部屋の中で、釣って来たニジマスを飼ったりした。
釣り雑誌で知った、「群馬の魚を育てる会」の柳沢さんと言う方から、宅急便でヤマメの発眼卵を1000粒送ってもらい、飼育したこともある。
発泡スチロールの中には、保冷剤として、遠い群馬の雪が敷き詰められていたのが印象に残っている。
水槽は、二段ベッドの下段を開放して設置、
上段でエアーポンプの音を聴きながら眠る日々。
水の鮮度を保つため、入れ替えも半分ずつ、毎日怠らなかった。
稚魚たちが孵化し、卵のう(腹部の栄養袋)を吸収して一斉に泳ぎ始めた時、それはまるで水族館で観るあの、イワシの大群が泳ぐ様のようであり、その自分だけの特別なショーは、あたかも小さな水槽そのものが、何か燦めく小宇宙のように思え、感動したのを覚えている。
家を出て、免許を取り、自由に行動できるようになってから、やっと本格的に渓流の魚を追えるようになった。
毎年ゴールデンウィーク辺りには、当時、幻の魚と言われたサツキマスを求めて、地元の太田川の広大な水域を、情報も無いままひたすら上流から下流まで釣り歩いた。
初めてそれを、しかも自らカスタマイズした竿で手中にした時、喜びの余り誰もいない河原で絶叫したのを覚えている。
上京、師匠との出会い
以前お話しした通り、カルト宗教から脱退した後、30代で東京に出てきてからは、再び釣りに明け暮れる日々を送っていた。
そんなある日、西武園の冬期ニジマス釣り場で釣りを楽しんでいた時だった。
子供の頃から、自分の釣りは魚たちと戯れるだけでなく、道具作りにまで及んでいた。
既製品のロッドを分解し、オリジナルのデザインに作り替える目的で、先ずはその調子を見るためのテスト釣行でそこを訪れたのだが、早々に、運良く50センチを超える大物を釣り上げる事が出来た。
その時、年配でとても品が良く、何かオーラを感じさせる釣り人から突然声をかけられた。
「ちょっと写真を撮らせてもらっても良い?」
これまでそんな経験がなかったから、いささか面食らいはしたものの、悪い気はしない。
「ええ、良いですよ」
と承諾し、言われるままポーズをとった。
そして、写真を撮り終えた後、彼は名刺を取り出し、私に手渡してこう述べた。
「スポーツニッポンの若林です」
「次の新聞に載せても良いかな?」
「??!、い、良いですよ?!」
後に知ったが、彼は定年を迎えた後、スポニチのAPC(アングラーズ・ペン・クラブ)に所属していて、長い間「釣りの旅」と言う記事を連載しており、その世界では大御所として知られる人物だった。
田舎から出てきたばかりの私は舞い上がり、
その時のヒットルアーを是非にとプレゼントした。
それからは釣りもそっちのけで、自分の事を色々話したり、トラウトフィッシングについて聞いたりしていると、何と息子さんが私と同級生で、誕生日も二日違いであることが判った。
「君、なかなか面白いね、今度うちに遊びにおいでよ」
「ええ?!ホントにいいんですか??」
「ああ、ホントだよ、ぜひ来なさい。」
そして後日、おっかなびっくり、本当にお宅へお伺いすることとなり、
以後、亡くなられるまでの十数年間、関東甲信越の渓流や本流、そして海、果ては東北山形の赤川へのサクラマス釣行等等、
ある時は写真で紙面を飾らせて頂き、ある時は自分もカメラマンとなるなど(二人組だから、釣れた方を撮るため)、数多くの取材に同行することとなった。
そうした出会いも相まって、私はどんどん釣りにのめり込んで行き、ある年は釣行日数が169日に及んだこともあった。
それでも、師匠曰く
「まぁまぁだね」
とのこと、
彼に言わせれば、200日を超えたら一人前らしい。
上には上がいるものだ…
「家はあっても家庭はない」などと、独身のままでいる身をしょっちゅう茶化されたりもしたが、師匠なりに、行く末を案じてくれてもいた。
だが、そんな心配をよそに、
土日は遠征釣行、
平日は多摩川で出勤前の朝マズメ、定時で帰れば夕マズメにヤマメを狙い、
給料日には、釣具屋へ直行し、後先考えず散財するような生活…それは四十代に差し掛かる頃まで続くのだった。
※(朝マズメは日の出、夕マズメは日の入りの時間帯)