差別は正義である。シェークスピア「ヴェニスの商人」が教えてくれる差別的な正義が生み出す悲劇|読書記録
時間の取捨選択が人生のテーマになりがちな昨今、努めて文学作品に触れる機会を創ろうと取り組み初めて2ヶ月が経とうとしている。
文学作品に触れようにも、日々仕事ばかりに時間が消失する中で作品を読む時間を独立して取るのは難しい。だが、読書それ自体を仕事にするのであれば、許容可能な範囲にできる。
そうして始めたのが読書記録であり、「愛と死」から始まっている。仕事とするかどうかは自身の胸先三寸なのだから、何も独立して読書時間にすれば良かろうにと思わなくもないが、中々そうもいかない点に自身の余裕のなさを感じずにいられない。
さて、読書記録としては9回目になる今回、読んだのは「ヴェニスの商人」である。選書理由は、相変わらず取り立てて何があるでもない。強いて言えば本の厚さが薄くて読み終えやすそうだったからである。
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差別に彩られたヴェニスの街を描くシェークスピアの名作「ヴェニスの商人」
「ヴェニスの商人」は言わずと知れたシェークスピアの作品である。日本で数多く演じられてきた台本で知られる。といっても本書全体を脚本とするのではなく、一場面を脚本として講演されるケースが多いらしい。
筆者がシェークスピア作品を読むのは今回が初めてである。もちろんシェークスピア作品として有名な作品のタイトルを聞いたり、アニメや漫画、ドラマにおいて取り上げられる場面を見たりした経験はある。だが、一冊の書籍として読んだ経験はなかった。
シェークスピア作品を読むのが一人の人間として当然持ち合わせるべき教養と考える人々も世の中にいるのかもしれないが、現実問題として筆者のように実際に一冊の書籍として読んだ経験を持たない人々は多いように思う。
何もシェークスピアに限った話でもなかろうが。例によって本noteでは、本作品が創られた時代背景や著者であるシェークスピアの人物像・人物背景などを踏まえた作品の考察はしない。本noteで書くのは、「ヴェニスの商人」を読んだ筆者の個人的な感想である。
「ヴェニスの商人」を読んで感じる『差別に満ち溢れる酷さ』
「ヴェニスの商人」を読んだとき、多くの人々が感じるのは、愛の美しさや正義によって悪が裁かれる痛快さ、あたりではなかろうか。実際、本書の終わりに掲載されている解説等においてもそうした点に対する評価が書かれているように感じられる。
しかしながら、筆者が「ヴェニスの商人」に抱いた感想は、『差別に満ち溢れた酷い作品だ』である。つまり、ユダヤ人商人であるシャイロックの扱いにおける汚らわしさが目についている。
本書終わりの解説等において、シャイロックを悲劇の登場人物として捉えるのは誤りめいた話が書かれているが、少なくとも「ヴェニスの商人」という一つの作品で描かれているシャイロックその人物の扱いにおいて、そこに悲劇さを見出さないのは、読解力が機能していないのでないかと思わずにいられない。
もっとも時代や作者等、本作品を取り巻く外的な情報を踏まえて評価するのであれば、そうした評価も成り立つ可能性はあるだろう。だが、筆者はそうしたいわゆる文学的な解釈を物語を読解する力とは考えられないし、それは個人的な妄想の世界に踏み入れているに過ぎない、読解としての正しさを持たない姿勢だと感じる。
反ユダヤの邪悪な人々に虐げられるシャイロックにまとわりつく悲劇
シャイロックは、確かに好人物ではない。金や契約に五月蠅く、キリスト教徒に対して偏見に基づく対応をする様子は差別的で、恐らく誰もが好感を持てない人物である。
一方で、ヴェニスの商人であるアントーニオもまた、後者については然程違いはない。アントーニオもユダヤ人に対して偏見に基づく対応をする差別的な人物である。作中では誰もがアントーニオを褒め讃えるが、客観的に考えてアントーニオは好人物と言い難い。
シャイロックとアントーニオとの対比において、利息にまつわる話が書かれているものの、商人或いは貸金業者として利息を取るのは実に正しい有り様であり、それを以てシャイロックを悪人のように扱うのは、どこか稚児じみており、やはり偏見に基づく差別的な考え方と言わざるを得ない。
利息を取らないアントーニオは、友人や知人、彼を頼る人々にとっては素晴らしい人物のように思えるのだろうが、それは原理原則を捻じ曲げて承認を得ているだけに過ぎず、商経済というマクロの視点においては、原理原則を捻じ曲げ多数の人間に不利益をもたらす悪人以外の何物でもない。
「ヴェニスの商人」は、アントーニオ等の反ユダヤ側を煌びやかかつ正義に見せるように描き出されているだけであり、客観的に事象を捉えながら読めば、反ユダヤを前面に押し出しているだけの差別的な物語となっている。何せ、シャイロックがやったことと言えば、不親切と悪態を並べた程度である。
それでいてシャイロックは、財を奪われ、尊厳を踏み躙られているのだ。それでシャイロックに悲劇さがないとするのは無理がある。徹頭徹尾シャイロックは被害者であり、アントーニオ等はシャイロックを差別で以て裁き、彼の財を奪い取った悪人でしかない。
強者の振り翳す差別こそが正義である。「ヴェニスの商人」と現代世界が知らしめる正義の在り方
「ヴェニスの商人」に正義は欠片も存在していない。だからこそ、「ヴェニスの商人」は正義とは何かを残酷なまでに映し出している。畢竟するに正義とは、強者が差別的な思想で以て振り翳す武器である。ある種、差別することが正義と言える。
『そんなはずがない』と思われるかもしれない。だが、視点を「ヴェニスの商人」から外して筆者たちが生きる現実世界へ向けてみるとどうだろうか。昨今の異常なまでの女性保護思想は、明白に男性差別であるが、それがある種の正義を形成している。男性差別=正義の図式が成り立っている。
また、イジメは明白に悪であり、犯罪行為そのものだが、イジメが行われている現場においては、どうだろうか。強者が弱者に振り翳す差別的な言動のすべてがある種の正義を形成している。そこに正しさがなかろうと、正義が成立しているのだ。
「ヴェニスの商人」では、まさにそうした正義が終始まかり通っている。本作品を読んで、シャイロックなる悪が退治されたと思うのであれば、気をつけた方が良い。読者は、差別する側の仲間入りをしている。そして、差別という名の正義を振るっているのである。
本作品におけるシャイロックは、間違いなく息苦しく生き苦しい世界で孤独ながらも大きな資産を築いた希有な成功者である。だが、マイノリティな弱者であったために、その成功を差別という名の正義を振り翳す悪徳な連中によって巻き上げられてしまう。これを悲劇と呼ばないのであれば、恐らく悲劇なる物語は存在しない。
一方で、これほどまでに理不尽な世界はかつて間違いなく存在し、恐らく今尚も何処かに存在している。歴史は繰り返すものであるが、だからといって理不尽な悪逆非道が蔓延る世界を蘇らせてはならない。「ヴェニスの商人」は、差別に満ちた世界の悲劇を伝える上で、これほどないまでに素晴らしい名作だと感じられる。
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